第九十二話 返してはいけない音
二回、間を置いて一回。
床下の音は、六十四秒後にまったく同じ間隔で繰り返された。
千紘は打音器を膝へ置いたまま、腕時計を見る。
「今の、前と同じ?」
「同じ。ずれてても、私には分からないくらい」
人が叩いているなら、少しは急いだり迷ったりする。
薫か蓮が助けを求めている可能性を捨てきれないせいで、二度目の音の方が耳に残った。
「返さないのか」
入口側にいた職員が聞く。
「返して、あれが灰色の連中だったら?」
「ですが、子供の合図かもしれません」
「だから迷ってる」
俺が言うと、職員は口を閉じた。
正しい答えを持っているわけではない。床の下にいる誰かを見捨てているのか、こちらを守っているのかも分からなかった。
三度目が来る前に、階段の上で車輪の音が止まる。
レオンは折り畳み椅子へ座ったまま、職員二人に持ち上げられてきた。灰海から帰って歩けるようにはなっていたが、浮力の感覚が残る日は足裏が床から離れるという。
「自分で来るって言い張ったらしい」
東條さんが後ろから下りてくる。
「映像を送らない判断をしたのはあなたでしょう。なら、見る人間もここへ来るべきです」
「《観測》は使うなよ」
「言われなくても」
レオンは少し間を置いた。
「今日は、使いません」
言い直したのは、使いたくなったからだと思う。
職員が床から離した小型マイクと、古い波形記録器を並べる。ネットワークへつながっていない。紙へ針で線を残す型だった。
四度目の打音が来る。
二回。一回。
レオンは紙を切り取り、最初の記録と重ねた。
「人間ではありません」
「断定できる?」
「三つとも、強さも間隔も同じです。石を叩く音ではなく、接続先があるか確認する信号でしょう」
「返したら?」
「こちらからの往復時間を測れます。門を閉じても、座標を狭められる」
千紘が打音器を袋へ戻した。
鳴らさなくてよかった、とは誰も言わなかった。
「薫さんたちは、これを知ってたのかな」
「知っていたから閉じろと言ったんでしょう」
レオンが答え、それから眉を寄せる。
「ただし、彼女が追跡側でない証明にはなりません」
「子供を置いて囮にしたって?」
「可能性の話です」
「その言い方、嫌い」
「私もです」
レオンは重ねた紙をずらした。ずれのない三本の線が、一つずつ見えるようになる。
「でも、嫌いな可能性ほど、先に消さない方がいい」
千紘は返事をしなかった。
ガルは少し離れたところで、腹の下へガーゼを敷いていた。首へ当てる代わりに自分の体重で押さえ、血のついた毛を時々そこへ擦っている。
東條さんが獣医を呼ぶか聞いたが、俺が答える前に牙を見せられた。
「呼ばないそうです」
「せめて薬だけ上へ置かせます」
そこへ、千紘が監視映像の端末を引き寄せた。
「最後の声、もう一回だけ見ていい?」
外へ出さない条件で残した映像を、音量を下げて再生する。
門が閉じる直前、薫の口が動く。
潰れた音を何度聞いても、俺には人の叫びにしか聞こえない。千紘は左耳のイヤホンを外し、端末の小さなスピーカーへ近づいた。
五回目で止める。
「ノア」
「人の名前?」
「たぶん。薫さんの後ろで青い光を横へ逸らした人がいる。その人に言った」
映像を一コマ戻す。
灰色外套の先頭から放たれた光は、門へ真っすぐ伸びたように見えた。けれど閉じる寸前だけ、途中でわずかに折れている。
薫の背後。崩れた柱の陰から、細い腕が出ていた。
助けたのか、別の場所へ誘導したのかは分からない。
「地下にいた人?」
「右にいた四人の一人。途中から薫さんの近くまで動いてた」
千紘は端末から耳を離した。
「それ以上は聞こえない」
レオンが映像へ顔を寄せる。右手が何度か膝へ動き、《観測》を使う時の形になったが、指を握って戻した。
「腕に何か巻いている」
映像では黒い帯にしか見えなかった。
ガルが立つ。
端末へではなく、壁の手前にある浅い窪みへ近づいた。
記録室には十個の核が収まっている。その横に、昨日までなかった細長い溝が一つ増えていた。青い追跡残響が床下へ潜った先でもある。
ガルはくわえていた金属片を、溝の前へ落とす。
「入れるのか?」
ガルは俺を見ない。
前脚で金属片を押す。先端だけが溝へ入り、割れた輪の刻印が青白く光った。
床下の機械的な打音が止まる。
代わりに、金属片の奥から荒い呼吸が聞こえた。
ガルのものではない。もっと高く、何度も喉へ引っかかっている。
千紘が立ち上がる。
「一頭いる」
「ホルン岬の三頭か」
「違う。遠い。間に、扉がたくさんある」
文字が溝の上へ浮かんだ。
――――――――――
旧回収標識を確認しました。
帰還番号:07
帰還先記録:第七獣舎
観測候補へ追加します。
――――――――――
ガルが低く吠えた。
喜んだようには聞こえなかった。
「第七獣舎は、向こう側ですか」
東條さんの問いに、表示は答えない。
レオンが椅子から立とうとして、足が床から浮いた。職員が肩を押さえるより先に、ガルがその椅子の脚へ前脚を置く。
椅子ごと床へ戻る。
「助かりました」
ガルは礼を聞かず、金属片をくわえ直した。
けれど、溝からは離れなかった。




