第九十一話 閉じた門の跡
門が消えても、床に落ちた青い光は消えなかった。
髪の毛ほどの細さで石の継ぎ目を這い、ガルの前脚へ向かっている。
「ガル、下がれ」
牙を見せたまま、動かない。
俺は赤土のついたロープを放り、光の進路を塞いだ。青い線は布を避け、今度は俺の靴へ曲がる。
迷っている時間はなかった。
左足で踏む。
靴底から、冷たい針を刺されたような感触が上がってきた。光は床ではなく、その下にある細い継ぎ目を走っている。
「切る」
「待って。在真の足からも伸びてる」
千紘が俺の腰をつかみ、半歩だけ後ろへ引いた。青い線の端が靴の内側へ回り込む。
見えている一本ではない。
床と靴底をつないだ、その一点へ意識を絞る。
――――――――――
《断界》Lv.1を使用しました。
MPを30消費しました。
――――――――――
足裏で細いものが弾けた。
青い光が二つに切れ、ガルへ向いていた側だけが灰になって崩れる。もう半分は門の跡へ逃げようとしたが、黒い床へ三センチほど染み込み、そこで止まった。
右の死角へ入ったので、身体ごと向き直る。
「まだある?」
「音は止まった。でも、そこだけ床の響きが違う」
千紘が指した場所を靴先で擦っても、青は戻らない。
ガルが近づき、鼻を寄せた。
「触るな」
低く唸られた。
「お前に言われたくない」
ガルは灰を一度嗅ぎ、くしゃみをした。それから、何もなかったように前脚で床を掻く。
首から落ちた血が、灰の横へ一滴だけ落ちた。
千紘が腰の袋を開く。
「ガーゼ出す」
ガルは彼女の手元を見たが、逃げなかった。傷へ触れようとはせず、畳んだガーゼを床へ置く。ガルはそれを鼻先で端へ寄せた。
「また開いたの?」
返事の代わりに首を振る。黒い毛の奥で、輪になった古傷の一部だけが裂けていた。
ホルン岬で笛を聞いた時のように、傷の内側まで黒くはなっていない。けれど、青いものが残っていないかまでは分からない。
顎の下の毛に、細い金属片が引っかかっていた。
俺が指を近づけると、ガルは先に前脚で押さえる。錆びた板には縦傷が七本と、途中で割れた輪の刻印があった。
「向こうで取ってきたのか」
鼻先が記録室の北側を向く。
回収猟犬のどれかについていたものかもしれない。ガル自身の古い首輪から落ちたものではないことだけは、断面の新しさで分かった。
「七番」
口にした瞬間、ガルの上唇が上がった。
俺へではない。消えた門の跡へ牙を見せている。
「嫌なら、その呼び方はしない」
耳が一度だけ俺へ向いた。
「ガル」
今度は牙を戻した。
名前を選んだつもりで呼び始めたわけではない。喉の音を適当に短くしただけだ。それでも、番号よりはましだったらしい。
「最後、何て言ったか聞こえた?」
千紘はすぐには答えず、門があった壁へ片耳を寄せた。
「二文字か三文字。最初は、たぶん『ノ』」
「ガルの名前じゃないって分かったのに?」
「呼ばれた時の音が、こっちじゃなかった。薫さん、ガルを見てたけど、叫んだのは後ろの誰かに向けてたと思う」
俺には全部、閉じる音に潰れて聞こえた。
ガルはもう壁を見ていない。記録室の入口へ向き、誰かが来る前から喉を鳴らしていた。
遅れて、複数の足音が階段を下りてくる。
先頭にいた東條さんは、俺たちの泥だらけの装備を見ても何も言わなかった。門の跡とガルの首を一度ずつ確かめ、後ろの職員を手で止める。
「映像は」
「外部へは出していません。ここの監視記録だけです」
「複製を止めて。回線から切り離した端末へ一つ。残りは触らないで」
職員が返事をする前に、東條さんは床の灰へしゃがんだ。
「これが向こうから来たものですか」
「物は通ってない。光だけです」
「光で床が変色しています」
「追うための線だと思う。切った」
東條さんは俺の靴を見る。
「直接?」
「靴越しです」
「それを先に言ってください」
叱る声ではなかった。だから余計に、あとから足の裏が冷えてきた。
職員が透明な箱を持ってくる。床ごと削り取ろうとして、ガルに唸られた。
「待って」
千紘が壁へ向いたまま言った。
「下に何かある」
全員の足が止まる。
「青い線?」
「分からない。さっきまでなかった音。石の下を、ゆっくり回ってる」
東條さんが削り取りを止めさせた。
「門を開き直せますか」
「今はやらない」
「分かりました。では、開けないまま調べます」
反対されると思っていたせいで、返事が一拍遅れた。
東條さんは端末をこちらへ向ける。監視映像の最後の数秒が静止していた。
薫の右袖にある、割れた輪の印。
拡大された像を見たガルが、床を一度だけ爪で叩いた。
そのあと、押さえていた金属片を前へ出す。同じ形の輪が、錆の下に刻まれていた。
「同じものか」
俺が聞いても、ガルは動かなかった。
「写真だけ撮らせてもらえますか」
東條さんが端末を持ったまま一歩近づくと、ガルは金属片をくわえて下がった。
「今は無理です」
「見れば分かります」
東條さんはそれ以上近づかず、拡大した薫の袖だけを保存した。
代わりに千紘がしゃがみ、青く変色した床へ打音器を近づける。鳴らす直前で手を止めた。
「これ、叩いたら向こうにも聞こえるかもしれない」
「まだつながってる?」
「細いのが一本。薫さんたちの方か、灰色の人たちの方かは分からない」
東條さんは職員の端末を閉じた。
「場所を知っている人間は、この部屋にいる人数だけにします」
「上には?」
「向こう側と接触した事実は報告します。場所と映像はまだ出しません」
「隠したって、あとで揉めますよ」
「ええ。私が先に揉めてきます」
東條さんは立ち上がり、入口側へ二人を残して階段を戻っていった。
ガルは追わなかった。
床の下を回る音は、俺には聞こえない。
千紘は打音器を握ったまま、鳴らさずに待っている。
しばらくして、石の奥から二回。
少し間を空けて、もう一回だけ返ってきた。




