第九十話 銃口の向こう
黒い門の向こうで、銃口が千紘の顔へ向いていた。
泥で重くなった防具のまま、俺は千紘の前へ出る。
「下がれ」
向こうの女が言った。
日本語だった。声は掠れているが、翻訳機を通していない。女は片手で銃を構え、もう一方の腕で子供を後ろへ押していた。
「そっちが銃を下げろ」
「命令するな」
「じゃあ、子供だけ先に下げろ」
女の目が細くなる。頬には乾いた血がこびりつき、右袖の布は別の色で継ぎ足されていた。その上に、割れた輪のような印が薄く残っている。
門の表面は薄い水のように揺れ、崩れた建物の埃まで見えた。触れれば向こうへ手が届きそうなのに、子供が叩いた音は壁越しに少し遅れている。
物が通るかは分からない。分からないまま、撃たせる気もなかった。
「在真、右」
千紘が小さく言う。
首ごと向く。
見えるのは記録室の灰色の壁だけだった。
「向こう。銃の人以外に、右へ四人いる。壁の裏」
女にも聞こえたらしい。銃口が一瞬、千紘へ戻る。
「何をした」
「聞いただけ」
「耳を見れば分かる」
子供が女の腕の隙間から千紘を覗いていた。
「エルフ?」
「そう」
千紘が答えると、女は子供をさらに後ろへ押した。
「返事をするな、蓮」
「でも、まだ子供だよ」
「向こうが何年目かも分からない」
何年目という言い方が引っかかった。俺は門へ近づく。
女の指が引き金へ触れる。
「こっちでダンジョンが出たのは、今年の四月だ」
銃口が少し下がる。
「何年目だって?」
「五か月くらい」
向こう側で、誰かが息を呑む。
壁の裏にいた四人のうち、一人が動いた。千紘の視線がそちらへ向く。
それでも女は銃を下ろさなかった。
「嘘をつくなら、もう少しましな数字にしろ」
「そっちは」
「三十一年目」
数字だけが返ってきた。ダンジョンが先に現れた世界について、資料では約三十年前と読んでいた。
けれど、目の前の子供は、ダンジョンのない道も夜も知らない。
そう思った途端、三十一年という長さが急に重くなった。
「ここはどこだ」
女が聞く。
「日本。久世市」
今度こそ銃口が下がった。
女は背後の建物を振り返る。崩れた瓦屋根と、途中で折れた柿の木が見えた。
俺も見覚えがある。
屋根の傾きも、庭石の位置も違う。それでも、門が立っている場所は祖父の家の裏だった。
「そっちも久世なのか」
「久世第零封鎖区」
女は答えたあと、何かを言いすぎたように口を閉じた。
千紘が俺の袖を引く。
「地下にもいる。八人くらい。咳してる人が二人」
「聞くなと言った」
「止められない。今は能力も使ってない」
女は千紘の耳を見てから、自分の後ろへ目をやった。
「医者はいるのか」
「こっちにはいる。でも、この門はまだ見るだけかもしれない」
「開けるな」
即答だった。
「患者がいるんだろ」
「だから開けるな」
「理由を言え」
「場所を拾われる」
女は銃を肩へ掛け直した。敵意が消えたわけではない。両手を空け、門の縁へ黒い布をかけ始める。
蓮が手伝おうとすると、また下がらせた。
「観測門は一度開けば、向こうからも線を追える。あんたたちが初年度なら、まだ知らないだけだ」
「誰が追う」
「こっちを捨ててでも、そっちへ行きたい連中」
「世界を上書きしてるやつらか」
門へ布をかけていた手が止まる。
「その言葉をどこで知った」
「灰海の記録」
「灰海が止まったのは、あんたか」
答える前に、向こう側だけで地面が揺れた。瓦礫の上から灰が落ち、門の像へ細い横線が走る。地下にいた人間たちが一斉に動き、子供を呼ぶ声が重なった。
遠くで、同じ間隔の警報が鳴る。
女は黒い布を捨て、銃を取り直した。
「閉じろ」
「こっちからはまだ分からない」
「核を十個入れたなら、拒否を選べる。閉じろ!」
表示を探す。
門の横に、《観測継続》《接続拒否》の文字が浮かんでいた。
接続拒否へ触れれば、この場所は守れる。
同時に、向こうの十人以上をまた見失う。
指が止まる。
「在真」
千紘は答えを言わなかった。
門の向こうで、蓮が女の服を引く。
「薫さん、来る」
女――薫は子供を地下へ走らせた。
建物の向こうに、一人ではなく灰色の外套を着た集団が現れた。倒れた電柱の間から進んでくる先頭は銃を持たず、片手へ青い光を集めている。
薫がこちらを見た。
「今閉じれば、まだあんたたちの座標は取られない」
「また開けられるのか」
「私が生きてたら」
軽口には聞こえなかった。
千紘の手が俺の指へ触れ、右へずれて見えていた接続拒否の文字まで動かす。
記録室の入口で爪が床を擦り、低い唸りが響く。
振り返ると、ガルが立っていた。
毛は海水で濡れ、首の古傷へ新しい血が滲んでいる。マティアスもイングリッドも見えない。十個目の核で北側にも開いた青い帰還口を、一頭で通ってきたらしい。
ガルは俺たちへ近づかず、黒い門の向こうへ牙を見せた。
薫が目を見開いた。割れた輪の印がある右腕ごと、銃口が下がる。
「七番」
ガルの唸りが止まった。
灰色の外套の一人が、門へ向けて青い光を放つ。
俺は接続拒否へ触れた。
黒い面が閉じる寸前、薫が何か叫んだ。
名前に聞こえたが、ガルのものではなかった。
門が消える。
青い光だけがこちら側へ細く残り、ガルの首の傷へ触れる前に床へ落ちた。




