第八十九話 十個目の窪み
北側の穴が開いても、ガルは来なかった。
代わりにマティアスの声が無線へ戻る。
『三頭とも地上へ出した。二頭は処置中、一頭はゴブリンと入口に残っている』
「ガルは」
『こちらにいる。来た道を見ている』
短い返事のあと、獣の呼吸らしい音が入った。
呼べば来る距離にいる。
それでも、呼ばなかった。
イングリッドが空になった弾倉を落とし、新しいものを入れる。
「私は北へ戻る。外は私たちがどこにいるか分かってない」
「南へは行かないのか」
「行きたい。でも、サミュエルを置いたまま別の国へ行ったら、たぶんマティアスに殴られる」
アミナが顔を上げた。
「私じゃなくて?」
「あなたは先に刺すでしょ」
「分かってるなら早く運んで」
アミナはバジリスクへ刺した槍を抜かず、サミュエルの担架を作り始めていた。ジョセフの石になった手も、そのままでは北の狭い穴を通せない。
残る二人だけで南へ入るのは、合理的とは言えない。
俺が穴を見ると、千紘は水筒の残りを確かめた。
「今から、来るなって言う?」
「言っても来るだろ」
「今回は聞くかもしれない」
「聞くのか」
「聞いたうえで決める」
答えは変わらないらしい。
アミナが赤土に汚れたロープを一本投げてくる。
「持っていって。戻ったら返して」
「戻らなかったら」
「返せないんだから、聞く意味ないでしょ」
綺麗な励ましはなかった。
俺と千紘は南側の穴へ入った。
十歩ほどで熱が抜け、濡れた土の匂いへ変わる。
頭上から水が落ちているのに、服は濡れなかった。水滴は俺たちの肩へ届く前に横へ曲がり、暗い壁の穴へ吸い込まれていく。
足元には苔がある。
乾いていた。
「水の音、全部あっちへ取られてる」
千紘が壁を指す。
通路を抜けると、山腹をくり抜いたような巨大な空洞へ出た。
段々畑に似た石の棚が下まで続き、その中央に一本の大木が立っている。幹は建物より太く、枝の半分は葉を失っていた。
無数の根が石棚へ伸び、横へ流れる水滴を自分の身体へ集めている。
トレント。
顔らしい窪みはない。歩く足も見えないが、俺たちが入った瞬間、太い根が一本だけ持ち上がった。
「動かないで」
日本語ではない女の声がした。
翻訳機へ遅れて文字が出る。
右側の石棚から、三人の人間が姿を見せた。全員、泥で元の服の色が分からない。
先頭の女は短い黒髪を布で押さえ、片手に測量棒、もう片方には錆びた水道弁を持っていた。
「足元の白い根を踏まないで。水を探してる」
俺は上げかけた右足を戻す。
靴の先に、糸ほどの白い根があった。
「日本から来た大月。在真だ」
「ルシア・キスペ。ペルー側の調査班」
女――ルシアは測量棒を下ろさず、俺の後ろへ目を向けた。
「二人だけ?」
「途中に別の班がいる」
「なら呼ばないで。この木、人が増えると根を増やす」
歓迎も追及もせず、ルシアは石棚へしゃがんだ。
そこには円い金属蓋が半分埋まっている。根が何重にも巻きつき、中央だけが青く光っていた。
最後の欠損中継核だ。
「取ろうとした?」
「三回。最初は根が増えた。二回目は上の村の水が止まった。三回目は、あの人が落ちた」
ルシアの後ろにいる男は、左脚を木の板で固定していた。
「核を守ってるのか」
「逆かもしれない」
錆びた水道弁を、根の間へ置く。
「核が水を横へ引いて、木が全部集めてる。木を切れば水がどこへ行くか分からない。核を抜けば、根が枯れて棚が崩れる」
「じゃあ、どうする」
「先に水の道を戻す。できなくて困ってる」
質問に答えたあと、ルシアは俺たちの能力を聞かなかった。
立ち上がり、二段下の石棚へ降りていく。俺と千紘も続いたが、白い根を避けるたびに足の置き場が狭くなる。
最下段には、石造りの水路があった。
水はない。
壁へ三つの弁軸が並び、中央だけが根に飲まれている。ルシアが持っていた弁は、左側から外したものだった。
「左を開けても空。右は途中で塞がってる。中央は回らない」
「音、見てもいい?」
千紘が聞く。
ルシアは先に打音器を見た。
「大きい音は根が寄る」
「一回だけ。小さくする」
「何が分かる?」
「水が残ってる場所。たぶん」
ルシアは少し迷い、自分の測量棒を水路へ横たえた。
「これを鳴らして。奥まで同じ金属が入ってる」
千紘は打音器で、棒の端へ軽く触れた。
――――――――――
《音界地図》Lv.1を使用しました。
MPを20消費しました。
――――――――――
俺には、硬い音が一度しただけだった。
千紘は目を閉じ、壁ではなく足元へ顔を向ける。
「右の奥に水がある。塞がってるんじゃなくて、上へ曲げられてる」
「核へ?」
「途中までは。中央の弁の後ろで二つに分かれて、一つが木、一つが……南」
最後の言葉で、ルシアが振り返った。
「南の村へ続く水路がある。今は乾いてる」
「たぶん、そこ。弁の裏へ薄い壁が重なってる」
中央の軸へ触れる。
錆と根の感触しかない。
それでも《断界》を意識すると、石壁の内側へ別の薄い面が浮かんだ。空間の境界というより、水路を間違った方向へ折り畳んだ継ぎ目だった。
切れば水は戻るかもしれない。
同時に、木へ届いている水も減る。
「木はどれくらい持つ」
ルシアは大木を見上げた。
「知らない。聞けないから」
「根は?」
「水が来れば自分で選ぶ。来なければ、私たちが何を考えても同じ」
トレントの根が一つ、水路の底へ触れた。
俺たちの話を理解したのか、水の気配を拾っただけかは分からない。
「切る」
ルシアは頷かなかった。
中央の弁軸へ両手をかける。
「切れたら回す。あなた一人で決めたことにはしない」
残る二人も、足場の悪い水路へ降りてきた。脚を固定した男は上に残り、白い根が増えないよう石棚から離れている。
千紘は大木の方へ戻った。
「水が来たら言う。根が動いても」
「届かなかったら」
「それも言う」
俺は中央弁の後ろへ右手を当てる。
――――――――――
《断界》Lv.1を使用しました。
MPを30消費しました。
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薄い面が裂けた。
すぐには何も起きない。
ルシアが弁軸へ体重をかける。錆が落ち、半周だけ動いて止まった。
二人が加わる。
俺も押した。
根が手首へ巻きつく。
締め上げるのではなく、弁と一緒に同じ方向へ引いた。
軸が回る。
壁の奥で、重い水音がした。
次の瞬間、右の水路から泥水が噴き出した。
膝を取られ、石壁へ背中を打つ。ルシアも流されたが、根が腰へ回って水路の外へ持ち上げた。
水は中央で二つに分かれる。
一つは乾いた棚を下り、南側へ流れた。
もう一つは、トレントの根元へ入る。
「来た!」
千紘の声が上から落ちる。
「根が、水の方へ戻ってる」
核を包んでいた太い根が緩み始めた。
大木は歩かない。
礼を言うこともない。
ただ、水を吸った側から葉のない枝が持ち上がり、円い金属蓋を覆っていた根を一本ずつ退けた。
ルシアが先に蓋へ近づく。
「村へ水は?」
無線へ耳を当てる。
雑音のあと、誰かの泣き声と、勢いよく流れる水音が聞こえた。
ルシアは目を閉じた。
安心したようには見えたが、すぐ蓋へ手を置かなかった。泥だらけの指で無線の音量を下げ、負傷した仲間へ何か返す。
それから俺へ場所を譲った。
「持っていって。水がまた止まったら、取り返しに行く」
「場所は」
「聞いてないの?」
「連絡先」
ルシアは少しだけ口元を緩め、自分の無線番号を紙へ書いた。
俺が金属蓋の中央へ触れる。
――――――――――
欠損中継核を収容しました。
保有迷宮核:10
《観測門》の開放条件を満たしました。
攻略評価によりレベルが46から48へ上昇しました。
最大HPが3,580から3,700へ上昇しました。
最大MPが1,120から1,160へ上昇しました。
未配分能力値を80獲得しました。
スキルポイントを2獲得しました。
現在HP・MPは回復しません。
欠損中継核のため、継承候補はありません。
第零迷宮への帰還経路を開きます。
――――――――――
水路の上に青い扉が現れた。
HPは三千二百二十のまま。MPは七百九十まで減り、未配分能力値は二百四十、スキルポイントは四十四になっている。
千紘にも停止評価が届いていた。
レベルは三十四。最大HP二千七百、最大MP九百四十。現在HP二千四百六十、MP八百二十、未配分能力値百六十、スキルポイント三十二。
「すぐ戻る?」
千紘が聞く。
青い扉は第零迷宮へ続いている。
その前で、俺はルシアを見る。
「そっちの帰り道は」
「水路沿いに東へ出る。入口の石化が戻ればだけど」
トレントの根が、石棚の南へ伸びていた。乾いた苔の色が、少しずつ濃くなっている。
「先に行って。私は水を見る」
ルシアはそう言い、負傷者のいる棚へ戻った。
俺と千紘が青い扉を抜ける。
足元の泥が、記録室の灰色の床へ落ちた。
十個の窪みがすべて光っている。
中央の地球儀は重なるのをやめ、欠けた方だけが壁際へ移っていた。その前に、今までなかった黒い門が立っている。
ガルはまだ戻っていない。
東條とレオンも、記録室にはいなかった。
千紘が門へ近づく。
「向こうで、何か叩いてる」
「人か」
「小さい手。たぶん」
黒い面へ、内側から五本の指が触れた。
子供の手ほどの大きさだった。
こちらの音を聞いたのか、二回叩く。
千紘が同じ間隔で返す。
黒い門の表面が薄くなり、崩れた建物と赤黒い空が浮かんだ。
向こう側にいた子供が、千紘の耳を見て目を見開く。
その後ろで、大人の声がした。
子供の身体が乱暴に引かれ、代わりに銃口が門へ向けられた。




