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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第三章 第一層攻略

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第九話 戻る理由

 左目を開けると、天井の照明がひどく端へ寄っていた。顔を動かして初めて、照明が左にあるのではなく、俺の右側が見えていないだけだと分かる。右目には硬い覆いが当てられ、その上から包帯が巻かれていた。


 喉が渇いている。枕元へ手を伸ばすと指が空を掴み、もう一度探したところで紙コップを倒した。


「待って、今起きたばっかりだから。水は飲んでいいって言われたけど、一気に飲んじゃ駄目だって」


 母がコップを起こし、ベッドの左側へ回ってくる。新しい水へストローを差しながら、痛いか、吐き気はないか、左は見えるかと続けて聞いた。


「左は見える。痛みは……ある」

「どのくらい?」

「分からない」


 答える間にも、右目の奥で心臓とは別の脈が打っていた。鎮痛剤が効いているのか、迷宮で床へ倒れた時よりは遠い。それでも消えてはいない。


 窓際には父が立っていた。シャツは背中まで皺になり、袖だけが肘まで捲られている。


「何時」

「午後四時過ぎ。手術、三時間くらいかかったの。先生はあとで来るって。連絡できなくて、結衣もずっと――」

「佳奈」


 父が止めると、母は口を閉じた。聞きたかったことの半分も頭へ入らなかったが、妹が実家にいることだけは分かった。


 病室の扉が開き、白衣の医師と看護師が入ってきた。医師は俺が起きているのを確かめ、ベッドの左側へ椅子を寄せた。


「大月さん。右目の傷は塞ぐ処置をしました。感染を防いで、眼球の形をできるだけ保つための手術です」


 そこで一度言葉が切れた。


「見えるようには、なりません」


 母が持っていたストローの袋を折った。父は窓際から動かない。


「左は」

「今のところ異常はありません。右は、目の奥まで大きく傷ついています。もう一度手術が必要になる可能性はありますが、視力を戻すためではないです」


 分かりました、と言おうとして声が出なかった。代わりに舌の裏へ残っていた水を飲み込む。


 医師は手元の記録をめくった。


「もう一つ、傷に薄い膜が付着していました。止血用の医療材料にかなり似ています。ただ、こちらで使ったものではありません」

「取ったんですか」

「検査分だけです。無理に剥がすとまた出血するので、残りはそのままにしています。どこで付いたか、覚えていますか」


 閉じた壁へ顔を押し込んだ時、右目を撫でた冷たさを思い出す。


「穴から出る時です」


 医師の視線が父へ動き、すぐ俺へ戻った。それ以上は聞かず、今日は起き上がらないこと、痛みや吐き気が増えたら呼ぶことを伝えて病室を出た。


 扉が閉まると、父が窓から離れた。


「退院したら実家へ戻る。大学への連絡と、あの家のことは俺がやる」

「勝手に決めるな」

「今までと同じ話じゃない」


 父の声が大きくなり、母が廊下を気にして扉を見た。


「お前は、戻れなかった時のメールまで作って入ったんだろ。事故じゃない。自分で準備して、黙って行った」

「市には前から連絡してた」

「連絡したかどうかの話をしてない」


 返そうとした言葉が右目の痛みで途切れた。母がベッドの柵へ手をかける。


「今やらなくてもいいでしょ。先生、頭に力入れないでって言ってたじゃない」

「頭に力って何だ」

「大きい声を出すなってこと」


 父は何か言いかけ、椅子へ座った。膝に置いた手は握ったままだった。


「家へは行ったのか」


 俺が聞くと、父の眉が寄った。


「保険証と着替えを取りに行った。警察と市の人間も一緒だ。裏は封鎖されてる」

「入口は」

「黒い壁のままらしい。お前が残した縄も触るなと言われた」


 家そのものより先に入口を聞いたことへ、父は気づいていた。それでも今は何も言わず、足元の鞄から着替えを出した。


 母はストローを俺へ向けたまま、黒い壁の中に何がいたのか聞いた。


「人みたいな形のやつ。あれにやられた」

「人なの?」

「違うと思う」


 黒い狼のことは言わなかった。林へ入ったあと、どこへ行ったのかも分からない。名前すら知らないものを説明すれば、父は先に警察へ連絡する。


 その日の夜は、眠るたび鉤が右から戻ってきた。目を覚ますと、何度も首ごと右を向いていた。そこに壁があることは左目で見直さなければ分からない。


 看護師が置いた薬の袋も右側へ外れ、取ろうとした手がベッドの柵へ当たった。


 二日後の朝、ステータスを開いた。


――――――――――

名前:大月在真

種族:人間

レベル:3


HP:18/46

MP:8/8


筋力:10

耐久:11

敏捷:11

器用:9

感覚:6

精神:14


未配分能力値:4

スキルポイント:0


称号:なし


固有スキル:

 《継承》(未解放)


一般スキル:

 《呼吸合わせ》Lv.1

 《境目抜け》Lv.1

――――――――――


 右目の傷はどこにも書かれていない。感覚だけが六へ下がり、ほかは迷宮へ入る前と同じ形式で並んでいた。


 未配分の四点へ触れかけてやめる。右側がなくなった身体で、何が足りないのかまだ分からなかった。


 昼前、父がまた病室へ来た。昨日までとは違う上着で、手には俺のスマートフォンと透明な袋を持っている。警察の確認が終わり、返されたらしい。


「家の裏で、これが撮られた」


 父がスマートフォンを左側へ置いた。画面には、斜面の入口を撮った短い動画が開かれている。黒い砂の上へ、小さな人型が何体も倒れていた。


 濁った緑色の腕と裸足が重なり、少なくとも三体はいる。石の刃や折れた棒も砂へ落ちていた。黄色い縄が黒い壁へ入る場所には、内側から砂を掻いた跡が増えている。


 映像の端に、黒い狼がいた。


 首から鎖を下げ、右の前脚を浮かせたまま、ゴブリンの肩を咥えている。こちらを向いてはいない。黒い壁のほうを見ていた。


「警察は」

「学校のほうへ人を回してる。市の職員は車から降りずに撮った。あの黒いのも、穴から出たんだな」


 答えずに映像を止めて拡大する。指を置いた位置がずれ、狼ではなく黒い壁だけが大きくなった。


 縄の周りに細い青色が戻っている。


 俺たちが通った境目だ。閉じたはずの出口から、ゴブリンがそこを抜けている。


「在真」


 父に呼ばれ、画面から目を上げた。


「あれを止めないと、また出る」

「警察と消防がやる」

「来るまで、黒いのが一匹で止めてる」


 父は映像を見直した。


「知ってるのか」

「一緒に出た」


 母がいれば先に声を上げていたと思う。父は何も言わず、しばらく画面の黒い狼を見ていた。


「だから戻るのか」


 問いかけではなく、確かめる声だった。


「中のやつも残ってる。縄を切れば終わりとは限らない」

「かもしれない、でまた入るのか」


 すぐには返せなかった。右側のない視界へ、黒い鉤が戻ってくる。今度入れば、次は目だけでは済まない。


 それでも、映像の中では負傷した狼が入口へ身体を向けていた。


「……だからって、あのままにはできない」


 父は反対する言葉を探すように口を開いたが、結局、スマートフォンを取り上げなかった。


 動画を初めから再生し直す。最初は糸ほどだった青い筋が、終わり際には少しだけ太くなっていた。

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