第九話 戻る理由
左目を開けると、天井の照明がひどく端へ寄っていた。顔を動かして初めて、照明が左にあるのではなく、俺の右側が見えていないだけだと分かる。右目には硬い覆いが当てられ、その上から包帯が巻かれていた。
喉が渇いている。枕元へ手を伸ばすと指が空を掴み、もう一度探したところで紙コップを倒した。
「待って、今起きたばっかりだから。水は飲んでいいって言われたけど、一気に飲んじゃ駄目だって」
母がコップを起こし、ベッドの左側へ回ってくる。新しい水へストローを差しながら、痛いか、吐き気はないか、左は見えるかと続けて聞いた。
「左は見える。痛みは……ある」
「どのくらい?」
「分からない」
答える間にも、右目の奥で心臓とは別の脈が打っていた。鎮痛剤が効いているのか、迷宮で床へ倒れた時よりは遠い。それでも消えてはいない。
窓際には父が立っていた。シャツは背中まで皺になり、袖だけが肘まで捲られている。
「何時」
「午後四時過ぎ。手術、三時間くらいかかったの。先生はあとで来るって。連絡できなくて、結衣もずっと――」
「佳奈」
父が止めると、母は口を閉じた。聞きたかったことの半分も頭へ入らなかったが、妹が実家にいることだけは分かった。
病室の扉が開き、白衣の医師と看護師が入ってきた。医師は俺が起きているのを確かめ、ベッドの左側へ椅子を寄せた。
「大月さん。右目の傷は塞ぐ処置をしました。感染を防いで、眼球の形をできるだけ保つための手術です」
そこで一度言葉が切れた。
「見えるようには、なりません」
母が持っていたストローの袋を折った。父は窓際から動かない。
「左は」
「今のところ異常はありません。右は、目の奥まで大きく傷ついています。もう一度手術が必要になる可能性はありますが、視力を戻すためではないです」
分かりました、と言おうとして声が出なかった。代わりに舌の裏へ残っていた水を飲み込む。
医師は手元の記録をめくった。
「もう一つ、傷に薄い膜が付着していました。止血用の医療材料にかなり似ています。ただ、こちらで使ったものではありません」
「取ったんですか」
「検査分だけです。無理に剥がすとまた出血するので、残りはそのままにしています。どこで付いたか、覚えていますか」
閉じた壁へ顔を押し込んだ時、右目を撫でた冷たさを思い出す。
「穴から出る時です」
医師の視線が父へ動き、すぐ俺へ戻った。それ以上は聞かず、今日は起き上がらないこと、痛みや吐き気が増えたら呼ぶことを伝えて病室を出た。
扉が閉まると、父が窓から離れた。
「退院したら実家へ戻る。大学への連絡と、あの家のことは俺がやる」
「勝手に決めるな」
「今までと同じ話じゃない」
父の声が大きくなり、母が廊下を気にして扉を見た。
「お前は、戻れなかった時のメールまで作って入ったんだろ。事故じゃない。自分で準備して、黙って行った」
「市には前から連絡してた」
「連絡したかどうかの話をしてない」
返そうとした言葉が右目の痛みで途切れた。母がベッドの柵へ手をかける。
「今やらなくてもいいでしょ。先生、頭に力入れないでって言ってたじゃない」
「頭に力って何だ」
「大きい声を出すなってこと」
父は何か言いかけ、椅子へ座った。膝に置いた手は握ったままだった。
「家へは行ったのか」
俺が聞くと、父の眉が寄った。
「保険証と着替えを取りに行った。警察と市の人間も一緒だ。裏は封鎖されてる」
「入口は」
「黒い壁のままらしい。お前が残した縄も触るなと言われた」
家そのものより先に入口を聞いたことへ、父は気づいていた。それでも今は何も言わず、足元の鞄から着替えを出した。
母はストローを俺へ向けたまま、黒い壁の中に何がいたのか聞いた。
「人みたいな形のやつ。あれにやられた」
「人なの?」
「違うと思う」
黒い狼のことは言わなかった。林へ入ったあと、どこへ行ったのかも分からない。名前すら知らないものを説明すれば、父は先に警察へ連絡する。
その日の夜は、眠るたび鉤が右から戻ってきた。目を覚ますと、何度も首ごと右を向いていた。そこに壁があることは左目で見直さなければ分からない。
看護師が置いた薬の袋も右側へ外れ、取ろうとした手がベッドの柵へ当たった。
二日後の朝、ステータスを開いた。
――――――――――
名前:大月在真
種族:人間
レベル:3
HP:18/46
MP:8/8
筋力:10
耐久:11
敏捷:11
器用:9
感覚:6
精神:14
未配分能力値:4
スキルポイント:0
称号:なし
固有スキル:
《継承》(未解放)
一般スキル:
《呼吸合わせ》Lv.1
《境目抜け》Lv.1
――――――――――
右目の傷はどこにも書かれていない。感覚だけが六へ下がり、ほかは迷宮へ入る前と同じ形式で並んでいた。
未配分の四点へ触れかけてやめる。右側がなくなった身体で、何が足りないのかまだ分からなかった。
昼前、父がまた病室へ来た。昨日までとは違う上着で、手には俺のスマートフォンと透明な袋を持っている。警察の確認が終わり、返されたらしい。
「家の裏で、これが撮られた」
父がスマートフォンを左側へ置いた。画面には、斜面の入口を撮った短い動画が開かれている。黒い砂の上へ、小さな人型が何体も倒れていた。
濁った緑色の腕と裸足が重なり、少なくとも三体はいる。石の刃や折れた棒も砂へ落ちていた。黄色い縄が黒い壁へ入る場所には、内側から砂を掻いた跡が増えている。
映像の端に、黒い狼がいた。
首から鎖を下げ、右の前脚を浮かせたまま、ゴブリンの肩を咥えている。こちらを向いてはいない。黒い壁のほうを見ていた。
「警察は」
「学校のほうへ人を回してる。市の職員は車から降りずに撮った。あの黒いのも、穴から出たんだな」
答えずに映像を止めて拡大する。指を置いた位置がずれ、狼ではなく黒い壁だけが大きくなった。
縄の周りに細い青色が戻っている。
俺たちが通った境目だ。閉じたはずの出口から、ゴブリンがそこを抜けている。
「在真」
父に呼ばれ、画面から目を上げた。
「あれを止めないと、また出る」
「警察と消防がやる」
「来るまで、黒いのが一匹で止めてる」
父は映像を見直した。
「知ってるのか」
「一緒に出た」
母がいれば先に声を上げていたと思う。父は何も言わず、しばらく画面の黒い狼を見ていた。
「だから戻るのか」
問いかけではなく、確かめる声だった。
「中のやつも残ってる。縄を切れば終わりとは限らない」
「かもしれない、でまた入るのか」
すぐには返せなかった。右側のない視界へ、黒い鉤が戻ってくる。今度入れば、次は目だけでは済まない。
それでも、映像の中では負傷した狼が入口へ身体を向けていた。
「……だからって、あのままにはできない」
父は反対する言葉を探すように口を開いたが、結局、スマートフォンを取り上げなかった。
動画を初めから再生し直す。最初は糸ほどだった青い筋が、終わり際には少しだけ太くなっていた。




