第十話 第一層
四月六日の朝、父の車で祖父の家へ戻った。
退院の条件は、翌日の再診まで安静にすることだった。父はそのまま実家へ連れていくつもりで、俺が家へ寄ると言い出してからほとんど口を利いていない。
県道から山側へ入ると、通行止めの看板が増えていた。久世東小へ続く道には消防車が並び、祖父の家へ向かう細い道も住民の避難区域に入っている。
入口の検問で、父は診断書と家の鍵を見せ、着替えを取るだけだと繰り返した。滞在は十分。さっきまでいた警察車両も学校側の応援へ呼び戻され、細い道には市の黄色いテープと無人の監視カメラだけが残されていた。
「着替えを取ったら出るぞ」
父はエンジンを切らずに言った。
「裏を見る」
「見るだけだな」
返事をしないまま車を降りる。右側から来たドアの縁へ肩をぶつけ、父が何か言うより先に閉めた。
右目には病院でもらった硬い保護具を当て、その上から眼帯を巻いている。顔と手の傷には新しいガーゼが貼られ、左腕も巻き直されていた。鎮痛薬の眠気はもう抜けていたが、頭を急に動かすと右目の奥が鈍く痛んだ。
リュックには返却されたヘッドライトと手袋、ガーゼ、水を入れてある。鉈も警察の確認を終え、鞘に収まっていた。
首輪の外殻と魔石は透明な袋へ入れたまま、父の車に置いてきた。
父が荷物を見て、車のドアを強く閉める。
「お前、それを取りに来たのか」
「必要になる」
「何に」
答える前に、家の裏から短い鳴き声が聞こえた。
斜面へ回ると、黒い砂の上でゴブリンが一体もがいていた。片足と腰布が黄色い縄へ絡まり、欠けた石の刃を振り回している。
黒い狼が物置の陰から出た。
右前脚を庇い、脇腹の毛も血で固まっている。速度は迷宮にいた時より遅い。それでもゴブリンが縄を切ろうと身を起こした瞬間には間合いへ入り、首を横から噛んだ。
小さな身体が一度暴れ、動かなくなる。
狼は死体を放し、俺ではなく父を見た。首の帯と鎖は残ったままだ。
父の足が止まった。
「これが、あの黒いのか」
「近づかなければたぶん大丈夫だ」
「たぶんで済ませるな」
狼が低く唸る。父へ向けたものか、声の大きさへ反応しただけかは分からない。
閉じた入口では、園芸縄の周りだけ青い筋が手首ほどの幅へ広がっていた。ゴブリンが通ったせいか、黒い砂には小さな裸足の跡が内外へ何本も続いている。
狼は死体を入口の横へ押しやり、青い筋へ鼻を寄せた。
「待て」
俺の声では止まらなかった。狼は頭から黒い壁へ入り、そのまま向こうへ消えた。首の鎖だけが一瞬壁に残り、引き込まれていく。
父が俺の腕を掴んだ。
「追うな」
「中のやつは、あれを連れ戻そうとしてる」
「だから何でお前が行く」
答えは昨日と変わらない。黒い壁の向こうから鎖が激しく鳴った。
俺は父の手を外し、柿の木へ結んだ縄を確かめる。
「十分で戻らなかったら消防へ連絡してくれ。縄は切らないで」
「頼まれても手伝わないぞ」
「分かった」
ヘッドライトを点け、縄へ右手を重ねる。青い筋へ触れると、《境目抜け》を使うか確かめる表示が出た。
肯定した瞬間、壁の中に外とは違う冷たさが開く。
肩を入れたところで園芸縄が強く張った。振り返ると、父が柿の木の結び目を解き、両手で持っている。
「切らないだけだ。早く行け」
父は俺を見ず、縄の先だけを睨んでいた。
境目を抜ける。
前回のように皮膚が裂けることはなかったが、身体の内側から熱が抜け、足元が一度揺れた。MPを使った感覚は、息を止めすぎた時に似ていた。
ステータスを確かめると、MPは八から六へ減っている。境目を一度開くごとに二を使うらしい。
迷宮側では、黒い狼が曲がり角の手前に立っていた。待っていたようには見えない。首を低くし、奥から返ってくる音を拾っている。
俺が進むと、狼も歩き出した。
ゴブリンの死体はなくなっていた。黒い砂に残る黒ずんだ染みだけが、曲がり角の先へ引きずられている。
右側を壁へ寄せ、左目で通路の中央を追う。肩が石へ擦れるたび眼帯の下が疼いたが、壁から離すと右の空間がなくなる。
分かれ道まで来ると、黒い狼が足を止めた。
下り坂には、回収執行体が立っている。
前に切った右腕の捕縛線は元へ戻っていた。円筒の傷も消え、三つ又の鉤が床へ触れている。胸の赤い線が開くと、左右の金属板にも同じ光が走った。
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第一守護個体:再回収
未登録接触者:排除
回収経路を再構成しました。
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狼の首に残る帯が赤く光り、鎖が勝手に床を滑った。執行体はまだ腕を動かしていない。狼の鎖は右壁へ引かれ、赤く光る細い穴へ吸い込まれていく。
狼が四本の脚を踏ん張った。俺は鎖を鉈で押さえようとしたが、刃が触れる前に狼の身体が右へ持っていかれ、壁へ肩からぶつかった。脇腹の傷が開き、黒い毛へ新しい血が広がる。
鎖を踏み、鉈を振り下ろす。刃は太い輪へ弾かれた。狼が息を吸い、俺は吐くのに合わせて鎖を引く。壁の穴から半分抜けたところで、執行体の円筒が回った。
今度は正面から捕縛線が飛ぶ。
狼が左へ身を伏せる。俺も呼吸へ合わせて避けたが、鉤は横を通り過ぎたあと、左壁の穴へ入った。
赤い光が左から右へ走り、捕縛線が壁の中を通って右側から戻ってきた。
黒い狼が俺の腰へぶつかる。身体が前へ倒れた直後、鉤が眼帯の後ろを掠めて結び目を切り、硬い覆いが床へ落ちた。右側へ手を伸ばしても、どこにあるのか分からない。
執行体へ向かって走った。
壁が線を曲げるなら、壁へ入る前に本体を止めるしかない。黒い狼が先に飛びかかり、左腕の爪へ牙を立てる。
俺は開いた胸の赤い線へ鉈を振った。
距離が足りない。
刃先は外殻を浅く削っただけだった。執行体が左腕で狼を持ち上げ、そのまま横へ振る。黒い巨体が俺へぶつかった。
二人まとめて壁へ叩きつけられ、息が抜ける。右の肋骨へ鈍い痛みが広がり、立ち上がるまでに時間がかかった。
削ったはずの外殻へ、壁から黒い筋が伸びている。傷が閉じていく。捕縛線だけではない。赤く光る壁とつながっている限り、本体まで戻る。
執行体がこちらへ歩き出す。左右の壁で、赤い穴が一つずつ開いた。
「戻るぞ」
狼は執行体へ牙を向けたまま動かない。
後ろへ下がりながら、床へ落ちた眼帯を探す。左足に硬い覆いが当たり、屈んで拾った時には、壁の穴が四つへ増えていた。その奥で、一本だった捕縛線が細い枝に分かれていく。
黒い狼の鎖がまた引かれる。
俺は床の輪を掴み、入口側へ引いた。狼の首が動き、琥珀色の目が一度こちらを向く。
「今は無理だ」
伝わったかは分からない。狼は執行体へ唸ったあと、自分から後ろへ跳んだ。
走り出した瞬間、四つの穴から捕縛線の枝が伸びた。
通路の左右を黒い線が横切る。一本は頭上、二本は足元。残る一本が右側から来るのを、狼の息が変わるまで見つけられなかった。
狼が俺の上着を噛み、左へ引く。
鉤が右肩を裂いた。倒れずに済んだが、右腕から力が抜け、鉈が床へ落ちる。
拾おうとした手を狼の身体が押し戻した。
「置いていけって?」
狼はもう入口へ走っている。鉈を残し、あとを追った。
黄色い縄まで戻ると、迷宮の壁越しに強く引かれていた。父が外から張っている。
《境目抜け》を使う。黒い壁が縄の周囲だけ揺らぎ、狼が先に頭を入れた。
後ろから捕縛線が床を走る。俺は狼の鎖を掴み、呼吸へ合わせて境目へ押し込んだ。
巨体が外へ抜けた。俺も続こうとした時、鉤がリュックへ刺さった。
身体が迷宮側へ引き戻される。肩紐が喉へ食い込み、右目の奥へ痛みが跳ねた。
外から園芸縄が大きく動いた。父が引いている。
境目へ半身を入れたまま、リュックの留め具を外す。荷物が鉤ごと奥へ消え、俺の身体だけが斜面へ転がり出た。
黒い壁が閉じる。
父が縄を放し、俺の肩へ手をかけた。右肩の裂傷を掴まれ、声が漏れる。
「どこが無事なんだ」
「まだ、戻ってきただろ」
父は怒鳴らなかった。俺の後ろにいる黒い狼と、壁へ消えたリュックを交互に見ている。
視界へ表示が開いた。
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格上管理個体との交戦および生還を確認しました。
レベルが上がりました。
レベル:3 → 4
HP:16/52
MP:4/10
未配分能力値:8
スキルポイント:1
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最大値が増えても、右肩の血は止まらない。拾い直した眼帯を当て、左手で押さえた。
黒い狼は斜面へ伏せていた。傷の開いた脇腹を舐めようともせず、閉じた入口を見ている。
「あれ、本体だけ斬っても戻る」
父は黙って聞いていた。
「壁が先だ。赤くなるところが、鎖を引いてる」
言葉にすると、分かったことより分からないことのほうが多かった。壁の穴がいくつあるのか、同時に何本まで動くのか、どうすれば執行体との接続を切れるのか。
壁とのつながりを残したままでは、何度斬っても倒せない。




