第十一話 死角
四月七日、再診を終えた帰りに、父はまた祖父の家へ向かった。
昨日より手前に規制線が移され、車は県道沿いの空き地へ置くしかなかった。父が市の職員へ見せたのは、家の状態を確認するための一時立入証と、獣医へ電話した履歴だった。
「大型犬じゃないでしょう、って最後まで言われた」
「犬とは言ってない」
「怪我した黒い獣じゃ、余計に通してくれん」
父は古い毛布を脇へ抱え、反対の手に水の入ったポリタンクを持っていた。俺が持とうとすると、右肩の新しい包帯を見て、そのまま先へ歩いていく。
昨日開いた傷は三針縫われた。右の肋骨にひびはなかったが、深く息を吸うとまだ痛む。医師には、転んで物置の金具へ引っかけたと話した。父は隣で一度だけこちらを見たが、何も言わなかった。
祖父の家へ着くと、黒い狼は縁側の下にいた。
伏せた身体の半分が暗がりへ入り、琥珀色の目だけがこちらを向いている。首から延びた鎖は庭へ落ち、朝露の上へ黒い筋を引いていた。
父が毛布を縁側へ置く。物置から出した古鍋へ水を入れ、少し離れた場所へ押しやった。
「お前、こいつを何て呼んでる」
「まだ何も」
「それで一緒に中へ入ったのか」
「呼んでも来ない」
黒い狼の喉から低い音が漏れた。威嚇というより、息が毛の奥で転がったような音だった。
父が足を止める。
「今のは怒ってるのか」
「たぶん違う」
「また、たぶんか」
もう一度、短く音が鳴った。ガル、と聞こえなくもなかった。
「ガル」
試しに呼ぶと、裂けた耳だけがこちらへ動いた。顔は上げない。
「嫌なら反応するな」
耳が元へ戻った。
気に入ったようには見えなかったが、完全に無視されたわけでもない。もう一度呼ぶのはやめた。
父が家の中へ入り、昨日持ち出せなかった着替えを鞄へ詰め始める。俺は縁側へ腰を下ろし、ガルの傷を見た。
右前脚はまだ地面へ着けきれていない。脇腹の血は乾いていたが、昨日より毛が広く固まっている。触らせるとは思えず、ガーゼと消毒液は縁側へ置くだけにした。
ガルは古鍋の水を嗅ぎ、父が家の奥へ消えてからようやく口をつけた。
俺が立つと、すぐ飲むのをやめる。
「中には入らない。今日はここで合わせる」
通じている前提で話した自分に気づいた。ガルは水の垂れた口を閉じ、縁側の下から出てくる。
庭の端へ、物置から出した空の植木鉢を五つ並べた。走るには狭く、俺もガルも傷が開く。歩いて間を抜けるだけなら、今の身体でもできると思った。
最初はガルを右へ置こうとした。
「そっち」
右側を指しても動かない。
俺が回り込むと、ガルは反対側へ移った。もう一度右へ寄れば、今度はその場へ伏せる。首の鎖が植木鉢へ触れ、乾いた音を立てた。
「右にいてほしいんだけど」
ガルは前脚の上へ鼻先を載せた。
父が勝手口から出てきた。着替えの鞄に加え、昨日使った園芸縄を持っている。途中へ新しい結び目が二つ増えていた。
「そいつ、お前が動く前に避けてるぞ」
「分かってる」
「分かってない顔してる」
言い返す前に、父が縄の端を地面へ落とした。
「昨日、お前が中へ入る時もそうだった。先に肩が動いて、そのあと声を出してた」
父は柿の木へ縄を回し、昨日より低い位置で結んだ。引いた力が斜面側へ真っすぐ向くよう、幹の反対側へ古い板を噛ませている。
「次も入るつもりなら、結び方くらい変える。途中で切れたら、俺は知らんぞ」
「次は明日」
父の手が止まった。
「今日じゃないだけ、ましになったと思えってことか」
答えずに植木鉢の間へ戻った。
ガルへ右へ行けと言うのをやめる。自分が左足から踏み出し、植木鉢の外側へ身体を向けた。
ガルは動かなかった。
二歩目で右の鉢が死角へ消える。そこへ足を引っかけ、倒しかけた鉢を左手で受けた。右肩に力が入り、縫った場所が熱を持つ。
ガルが鼻を鳴らした。
「今のは分かってたなら止めろ」
視線だけが返ってくる。
もう一度、最初の位置へ戻った。今度は息を吐いてから左へ踏む。ガルの脇腹が膨らみ、半拍遅れて黒い身体が右を通った。
見えなくなったあとも、鎖が石を擦る音は残る。
次の鉢を回る。俺が速度を上げると、鎖の音も近づいた。右へ寄りすぎれば、ガルの肩が膝の外へ触れる。離れれば鎖の音が遠くなる。
四つ目の鉢で、ガルが急に止まった。
気づかず前へ出て、鎖へ踵を取られる。転ぶ前に柿の木へ手をついたが、また右肩が痛んだ。
「わざとやっただろ」
ガルは俺ではなく、足元を見ていた。
鎖の一部が土へ沈んでいる。斜面から水が染み、そこだけ柔らかくなっていた。植木鉢を避けることばかり考え、地面の窪みを見ていなかった。
安全靴の底で周りを探る。平らに見えた土は、柿の木へ向かってわずかに下がっていた。鎖が沈んだところだけ水を含み、踏むと遅れて戻る。
ガルが前脚を置く。
土の沈み方が変わった。目で追うより先に、靴底へ重さが伝わる。右側へ消えても、同じ地面にいる限り、どちらへ体重を移したかは完全には消えない。
試しに左目を閉じた。
何も見えなくなり、すぐ開く。胸の奥が狭くなった。右目を失った時の黒さとは違う。自分で閉じただけなのに、足が動かなかった。
ガルの鎖が一度鳴る。
左目を開けたまま、正面を見る。見えない右を見ようとせず、足元だけに意識を落とした。
鎖が擦れる。土が沈む。ガルの呼吸が短くなり、次の一歩が来た。
俺も同時に踏み出す。
右から肩が触れた。ぶつかったのではない。ガルはそのまま俺の死角を通り、前の植木鉢へ鼻先を当てて倒した。
乾いた音が庭へ転がる。
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一般スキル《足場読み》が取得可能になりました。
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すぐには選ばなかった。
足元を読む能力があっても、右側が見えるわけではない。ガルが離れれば呼吸も鎖の音も拾えなくなる。昨日の鉤のように壁から直接出てくるものには、間に合わないかもしれない。
それでも、見えないものを見えることにする能力ではなかった。
取得を選ぶ。
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一般スキル《足場読み》Lv.1を取得しました。
スキルポイント:0
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庭の凹凸が線になって見えたわけではない。
ただ、次に足を置こうとした場所が柔らかいと、踏み込む前に引っかかりを覚えた。ガルが土を蹴れば、その振動がどちらから来たかも、さっきより少し早く分かる。
父が倒れた植木鉢を起こした。
「それで、明日は何をする」
俺は園芸縄を拾い、地面へ第一層の分かれ道を描いた。下り坂の先に執行体。左右の壁に穴。一本の捕縛線が中で分かれ、本体の傷も壁から戻される。
説明しながら、昨日の位置を二度書き直した。右から戻った鉤がどの高さだったのか、左目で見た時にはもう近すぎて分からなかった。
ガルが地面の線へ前脚を置いた。
執行体を書いた場所ではない。右壁から伸ばした一本の線の上だった。
「そこから出た」
前脚は動かない。
ガルは首を下げ、自分の鎖を咥えた。線の上へ輪を落とし、そのまま反対側へ回る。黒い鎖が、地面に描いた通路を横切った。
昨日、鉈では切れなかった鎖だ。
捕縛線は細かった。壁を通すたび枝分かれし、一本ずつは最初より細くなっていた。
父が園芸縄の端を持ち、ガルの鎖へ一度くぐらせた。俺が反対側を引くと、縄は金属の輪に食い込んで途中で止まる。
「引っかける気か」
ガルが父へ牙を見せた。
父は縄を放した。
「俺に怒るな。引いたのはこいつだ」
ガルの顔が俺へ向く。
「まだ何もしてない」
鎖を使えば、捕縛線を止められるかもしれない。ただし止まる場所はガルの首につながっている。失敗すれば、昨日より深く引き戻される。
そのことを言葉で伝える方法がなかった。
地面へ描いた線を消し、もう一度書く。今度はガルの位置を勝手に決めず、鎖だけを通路へ横切らせた。
ガルはしばらく見たあと、前脚を上げて執行体の前へ置いた。
父が時計を見る。
「時間だ。今日は帰るぞ」
ガルは動かなかった。
俺も返事をせず、黒い前脚と、地面を横切る鎖を見ていた。




