第八話 二人で帰る
閉じた入口を、黒い狼が前脚で掻いた。
爪が石を削るだけで、青い線は戻らない。俺も手のひらで壁を探ったが、さっきまで外が見えていた場所とは思えないほど平らだった。
右目を押さえていた左手を離す。手袋は血を吸って重くなり、指を曲げると内側で滑った。頬へ流れていた血は少し減っている。それでも、頭を動かすたび目の奥へ痛みが刺さった。
後ろから、執行体の足音が来る。捕縛線を切った場所から曲がり角を二つ挟んでいるが、遅れて返る音のせいで本当の距離は分からない。
狼が壁を嗅ぎながら移動した。鼻先は石の中央を離れ、床へ落ちている黄色い縄へ向かう。園芸縄は壁の中へ消えていた。
外側の端は柿の木へ結んだままのはずだ。引くと少しだけ動き、壁の向こうから張り返してくる。閉じた入口に挟まれているのに、切れてはいなかった。
縄の周りだけ石の温度が違う。指先で触れると冷たさが途切れ、代わりに湿った風が爪の間へ当たった。穴があるようには見えないのに、指を押し込むと第一関節までが黒い壁の中へ消えた。
「ここか」
狼が横から鼻を寄せる。俺の指ではなく、壁の向こうへ続く縄の匂いを嗅いでいた。
鉈の先を差し込もうとしたが、縄から少し離れただけで石に当たる。通れる幅は手のひらもない。
執行体の足音が一つ増えた。俺はリュックを下ろし、肩紐へ鉈の鞘を通す。右手で縄を握り、指先から壁の中へ入れた。
手首までは抵抗がなかった。肘を押し込むと皮膚が左右から擦られ、右肩を入れたところで身体が止まる。目の前には黒い石しかないのに、壁へ入れた右手へ朝の空気が触れていた。
向こう側には出られる。息を吐いて肩を捻ると、境目が頬へ食い込み、右目の傷を冷たいものが撫でた。痛みが一瞬遠のいたあと、顔の皮膚が細く裂ける。
左目だけが壁を抜けた。
朝の斜面が横向きに見えた。黄色い縄は黒い砂を横切り、柿の木まで続いている。外には誰もいない。
このまま押し出せば、俺一人なら通れる。背中側で鎖が擦れた。
首だけを戻すこともできず、俺は壁へ挟まれたまま息を止めた。狼の呼吸は荒い。さらに奥で、金属を踏みつける音がした。
右腕を外へ伸ばしたまま、左手で床を探る。狼の首から延びた鎖へ触れ、先端の金具を掴んだ。鎖を引くと、狼が唸る。
「引っ張らない。これだけ出す」
通じたとは思わなかった。狼は首を低くしたまま、俺の左手を見ている。
鎖の端を黄色い縄へ沿わせる。金具は一度壁に当たったが、縄へ重ねると黒い面へ沈んだ。外へ出ていた右手に冷たい金属が触れる。これなら、向こうから鎖を引ける。
俺は一度、壁の内側へ戻った。頬と右の手のひらへ細い傷が増え、身体の奥からまた力が抜ける。
狼の奥に赤い光が見えた。曲がり角の壁へ一本、その隣へもう一本。執行体がこちらへ来ている。
「先に行く」
狼は動かなかった。
俺は園芸縄を握り直し、同じ場所へ右手を入れた。肩、顔、胸の順に境目へ押し込む。リュックが引っかかり、片方の肩紐を外すと身体が急に前へ抜けた。
斜面へ右肩から落ちる。左目だけでは地面までの距離を掴めず、受け身を取る前に頬を土へ擦った。
息が詰まったが、すぐに起き上がり、壁の中から出ている鎖の端を両手で掴んだ。引けば首を締める。力を入れず、鎖が弛まない程度に持つ。
「来い」
黒い面は動かない。奥で何かがぶつかり、壁の向こうから狼の唸り声が届いた。直後、鎖が強く引かれる。俺は斜面へ足を踏ん張ったが、濡れた土で靴底が滑った。
鎖を放せば、狼は奥へ戻れる。そう考えた時、黒い壁から狼の鼻先が出た。
牙が剥き出しになり、首の帯が境目へ食い込んでいる。狼は一度頭を引き、助走も取れない場所からもう一度ぶつかった。
俺は鎖を手繰り、狼が息を吐くのに合わせて引いた。頭、肩、前脚までが黒い面を抜ける。右の前脚へ赤い筋が走り、毛が裂けた。
背後で執行体の爪が閉じる音がした。
狼の身体が境目の中で止まり、脇腹が内側へ引かれる。琥珀色の目が俺を向いたが、助けを待つようには見えなかった。前脚で土を掻き、自分で身体を引き出そうとしている。
鎖を左腕へ巻きつけ、両足で踏ん張る。傷が開く痛みより、首の帯が狼の皮膚へ沈むほうが先に見えた。
「吐け」
狼の胸が膨らむ。息を吐く瞬間、俺は鎖を引いて後ろへ倒れ込んだ。
黒い面から巨体が飛び出し、俺の上を越えて斜面へ転がる。狼の脇腹には三本の裂け目が走っていた。境目の向こうで掴まれた跡らしく、黒い毛の間から血が滲んでいる。
続いて執行体の爪が一本だけ壁から現れた。狼が起き上がり、横から前脚を叩きつける。爪は黒い面へ引っ込み、壁が水面のように揺れたあと、何も通さなくなった。
狼と俺は、斜面へ倒れたまましばらく動けなかった。家の屋根が見える。葉の擦れる音が遅れずに聞こえ、土も血も朝の匂いがした。
右目の痛みだけが、迷宮の中と変わらない。
視界へ《境目抜け》の文字と、取得を確認する表示が出た。理由を読む余裕はない。肯定へ触れる。
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一般スキル《境目抜け》Lv.1を取得しました。
HP:5/46
MP:4/8
スキルポイント:0
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黒い狼が立ち上がった。右の前脚を庇い、脇腹からも血を落としている。それでも俺へ近づかず、首の鎖を引きずって斜面の上へ移動した。
自由になったなら、そのまま山へ行ける。狼は林のほうを見たあと、俺の家へ顔を向けた。
遠くからサイレンが聞こえる。
狼の耳が伏せられた。低く身を屈め、木々の間へ入っていく。途中で一度止まったが、こちらへ戻らず、そのまま姿を消した。
止める理由はなかった。
スマートフォンを取り出す。画面の右半分が見えず、顔の前で左へ動かしてから、七時三十八分だと分かった。圏外の表示が消え、通知がまとめて届く。
『予約メールを送信しました』
母からの着信が七件、父から四件、市役所からも二件入っている。電話をかけようとして、指が画面の外を何度も押した。ようやく母の名前へ触れたところで、手からスマートフォンが落ちる。
サイレンが近づいてきた。家の前で車の扉が続けて閉まり、誰かが俺の名前を呼んでいる。返事をしたつもりだったが、喉からは息しか出なかった。
斜面を上がってきた救助隊員が、血のついた俺の手を右目から外した。
「押さえないで。もう触らなくていい」
硬い覆いを目の上へ当てられる。手を離した途端、頬へ流れるはずの血が増えないことに気づいた。傷の周りへ薄い膜のようなものが張りつき、皮膚ごと引かれている。
「中に、まだ誰かいますか」
「人は……いない」
黒い狼を何と数えればいいのか分からず、そこで言葉が切れた。
別の隊員が入口を見ている。黒い壁に触れようとした手を、後ろの警察官が止めた。
担架へ乗せられる時、無線から途切れた声が聞こえた。
『久世東小、入口から複数の生物が流出。負傷者あり。周辺住民を屋内へ――』
救助隊員が音量を下げた。俺へ聞かせないためなのか、自分が処置へ集中するためなのかは分からない。担架の脚が伸びる音がした。
林のほうから、金属を引きずる音が一度だけ返った。




