第七話 右側
奥から来る足音は、急いでいなかった。
一歩ごとに黒い金属板が震え、赤い光が手前へ近づく。黒い狼は鎖を引き続けていた。床の金具が軋んでも抜けず、首へ残った細い帯だけが毛の中へ沈んでいく。
視界の端には、《呼吸合わせ》の取得表示が残っていた。迷っている時間はない。取得を選ぶ。
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一般スキル《呼吸合わせ》Lv.1を取得しました。
スキルポイント:0
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何かが聞こえるようになったわけではない。狼の脇腹が膨らみ、前脚へ力が移る。吐く直前に爪が床を噛むところまで、一つの呼吸として追えるようになった。
坂の奥に赤い縦線が現れた。それが顔の位置にあると分かったのは、黒い身体が光の中へ入ってからだった。
人間より頭二つ分は高い。肩から足元まで、角を落とした黒い箱を何個もつないだような外殻に覆われている。頭部には目も口もなく、中央の赤い線だけが開閉していた。
両腕は長さが違う。左腕の先には三本の爪があり、右腕には黒い線を巻いた円筒が埋め込まれている。線の先で、細い三つ又の鉤が揺れていた。
同じ形の文字が、胸の外殻と狼の首に残った帯へ走る。
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回収執行体:起動
第一守護個体:命令拒否
外部接触者:未登録
回収処理を開始します。
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「回収って……」
言葉が終わる前に、円筒が回った。
黒い線が弾け、三つ又の鉤が飛ぶ。狼が息を吸った。俺も同じ瞬間に身を沈める。
鉤は頭上を抜け、背後の金属板へ突き刺さった。音はすぐに来ない。遅れて響く前に執行体が腕を引き、鉤が壁から抜けた。
狼が飛び出した。鎖に止められる寸前、前脚が執行体の胸へ届く。爪が黒い外殻を滑り、赤い線の横へ白い傷を残した。
執行体は揺れなかった。左腕の爪が狼の首を挟もうと閉じる。狼は身体を捻って逃れたが、右腕から伸びた鉤が首の帯へ噛み合った。
円筒が低く唸り、狼の身体が奥へ引かれた。床の鎖は反対側へ張り、首を二方向から引かれた四本の脚が石床を滑る。声にならない息が喉から漏れた。
俺は床の金具へ駆け寄り、鉈を鎖と石の間へ差し込んだ。刃では切れない。それでも、金具の周囲には狼が何度も引いて作った隙間があった。
柄を倒すと、左腕の傷が開いた。包帯の下へ熱いものが滲む。鉈の背が石へ食い込んだだけで、金具は動かない。
狼が息を吸う。俺は柄へ体重をかけた。
狼が奥へ引くのと、執行体の円筒が巻き取るのが重なり、石床の亀裂が金具の周りへ広がった。
「もう一回だ」
聞いているかは分からない。俺の声より先に、狼は前脚を踏ん張っていた。
執行体の胸で赤い線が開き、巻き取りが強くなった。
狼が吐く。俺は鉈の柄を押し下げる。
石が割れ、床の金具が跳ね上がった。
鎖の端が俺の脇を通り、執行体へ向かって走る。急に拘束を失った狼の巨体も奥へ引かれたが、床へ爪を立てて止まった。
首の帯に噛んでいた鉤が外れ、黒い線だけが執行体の腕へ戻る。狼には細い帯と鎖が残っているが、もう床にはつながっていなかった。
狼は執行体へ噛みつかず、坂を駆け上がった。俺の横を抜け、分かれ道で一度だけ振り返る。逃げるつもりだ。俺も鉈を抜き、あとを追った。
背後で金属がぶつかった。遅れて返る音を待たなくても、執行体が追ってくる振動は足裏から分かった。
正面の通路へ曲がる。黄色い園芸縄は足元に伸びているが、結び目が石の角へ引っかかり、途中から弛んでいた。
狼の首から垂れる鎖が跳ねるたび、火花が散る。追いつけば踏みそうになり、離れれば暗がりで見失う。呼吸だけを追い、狼が速度を落とす時に足を詰めた。
背後で円筒が回り、狼が左へ跳んだ。俺も壁際へ身体を寄せる。黒い線が二人の間を抜け、前方の右壁へ鉤を打ち込んだ。
外れた。そう思って走り続けた。
執行体が線を巻き戻す。壁へ刺さった鉤が抜けず、黒い線だけが張った。次の瞬間、石の表面が欠け、鉤が横向きに弾けた。
右の視界で、銀色の先端が急に大きくなった。顔を背けるより先に、保護眼鏡が割れた。
右目の奥へ、太い針を押し込まれたような衝撃が走る。白い光が頭の内側で弾け、膝から力が抜けた。
「あ、ぐっ……!」
鉤が巻き戻される。抜けた瞬間、目の奥で濡れたものが裂けた。白く潰れていた右の視界が、そのまま消えた。
手をついた床が近いのか遠いのか分からない。左手で右目を押さえると、手袋の下へ熱い液体が溜まった。瞼を閉じているのに痛みは光のように明滅し、額の奥まで突き抜ける。
床を擦る音が近づいた。顔を上げると、黒い線が目の前で張っている。狼が鉤へ噛みつき、執行体の巻き取りへ逆らっていた。牙の間から黒い編み目がほつれ、細い銀線が何本も露出している。
狼の前脚が滑った。俺は鉈を探す。右手を伸ばした先には何もなく、もう一度探って、ようやく指先が柄へ触れた。
距離が合わない。
左目で刃と黒い線を重ねる。狼が息を吸い、首を捻って線を石床の角へ押しつけた。
吐くのに合わせ、鉈を振り下ろした。
刃は線の横を叩き、石へ当たった。右腕まで痺れる。
狼は離さない。執行体に引かれながら、もう一度だけ線を角へ押しつけた。
次の呼吸を待つ。今度は鉈の刃元が銀線へ入った。半分ほど切れ、残りを狼が身体ごと引きちぎる。
黒い線が跳ねて奥へ戻った。執行体の右腕から火花が上がり、歩みが止まる。
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レベルが上がりました。
レベル:2 → 3
HP:9/46
MP:4/8
未配分能力値:4
スキルポイント:1
身体能力値が変動しました。
感覚:10 → 6
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数字が視界へ重なった。右側には何も表示されていない。欠けた画面のように黒いのではなく、そこだけ最初から存在しなかったように抜け落ちていた。
右目を開こうとしても、痛みが増えただけで何も戻らない。
狼が俺の上着を噛んだ。腕ではなく布だけを引き、すぐに離す。そのまま入口の方向へ走った。
俺も立とうとしたが、床へついた足の位置を一度で掴めず、肩から壁へぶつかった。
後ろで執行体が動き出す。右手に鉈を持ち、左手で壁を触りながら走った。狼の姿は左目へ入ったり消えたりしたが、首から延びる鎖の音だけは途切れない。
ゴブリンの死体がある曲がり角で、距離を読み違えた。肩が壁へ当たり、足元へ投げ出された細い腕に躓く。
狼が戻ってきた。俺の右脇をすり抜け、死体の首へ噛みつく。通路の端まで引きずると、すぐにまた入口へ向かった。
「助かった」
狼は振り返らない。
黄色い縄を見つけた時には、息を吸うだけで右目の奥が脈打っていた。手袋で押さえ続けたせいか、頬から顎まで血で濡れている。
縄の先へ青い境界線が見えた。外の光もある。朝の斜面と、倒れた赤い布の端が、狭い入口の向こうに残っていた。
狼が先に境界へ走ると、青い線が揺れた。入口の上から黒い面が下りてくる。狼が飛び込む寸前、見えていた斜面が半分に潰れた。
「止まれ!」
言葉より早く、狼は前脚を突っ張った。鼻先が黒い面へ触れる直前で止まり、首の鎖が俺の足元まで滑ってくる。
俺も境界へ手を伸ばした。
距離を誤り、指が何もない場所を掻いた。半歩踏み込み、もう一度伸ばした時には、青い線が細い横筋になっていた。
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未登録接触者の離脱を拒否します。
隔離を開始しました。
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最後に残った外の光が消えた。
手の先には、冷たい石しかなかった。




