第六話 首輪
黒い狼の牙が首輪へ食い込んだ。
金属同士を擦ったような音がして、赤い文字が一斉に明るくなる。狼の頭が跳ね上がった。自分で噛むのをやめた動きではない。鼻先を俺へ向けられ、右の前脚が石床を掻く。
鎖が張り、巨体はその場で止まった。首輪に引かれているだけなら、あと半歩も届かない。それでも、牙を見たまま身体が動かなかった。
狼の目だけが俺から外れた。顔を背けようとしている。赤い文字が脈打つたび、首は反対にこちらへ戻され、前脚が石床を削った。
俺が坂を一歩上がると、鎖の音が止まった。狼はその場へ伏せ、喉の奥から長く息を漏らす。威嚇にしては、苦しそうだった。
首輪の下から黒い毛が束になって垂れている。濡れているのはゴブリンの血だけではない。赤い文字の近くで皮膚が裂け、細い血の筋が首を伝っていた。
スマートフォンを出す。午前七時三分。予約メールまでは七分しかない。
曲がり角へ戻れば、そのまま外へ出られる。首輪を噛んでいる間に離れれば、追ってくることもできない。そう思いながら、足元の鎖を見た。
輪の一つ一つが俺の指より太い。鉈で切れるようなものではない。床の金具も深く埋まり、周囲の石には狼が引いた跡だけが増えている。
首輪には継ぎ目があった。
狼が噛んでいた場所だけ、黒い外側がわずかに浮いている。内側には、別の細い輪が見えた。外側の金属を割っても、首輪そのものが外れるとは限らない。
俺がライトを向けると、狼の耳が伏せられた。
「それ、見せられるか」
答えるはずもない。狼は牙を見せたまま動かず、琥珀色の目でこちらを見ていた。
鉈を鞘へ戻し、手持ちライトを床へ置く。光が首輪の横から当たる位置まで転がすと、狼の視線がそれを追った。
一歩下りると、低い唸りが足元へ伝わった。
「分かった」
何が分かったのか、自分でも曖昧だった。もう一歩は出さず、その場へしゃがむ。手袋をした右手を開いて見せると、狼の鼻先が動いた。
包帯の血を嗅いでいる。狼は顔を近づけかけ、首輪に引き戻された。赤い文字が二つ点き、右前脚が持ち上がる。
俺は立ち上がりかけたが、その脚は前へ出なかった。狼が爪を床の隙間へ押し込み、震えながら留めていた。やがて、点いていた文字が消える。
息が一度に吐き出された。狼は俺を見たまま、ゆっくり身体の向きを変えた。牙の届く側は残して、首輪の浮いた継ぎ目だけが光へ向く。
近づいていい、という意味には見えなかった。それでも、さっきよりはましだった。
俺は鉈を抜いた。刃先を狼へ向けないよう逆手に持ち、床を滑らせるように前へ出す。
狼の唇が上がった。手を止めると、唸りも止む。
鉈の先が首輪へ届く距離まで進む。獣臭の中へ、血と濡れた鉄の匂いが混じった。伏せていても狼の頭は近い。噛みつかれれば、引くより先に腕ごと持っていかれる。
浮いた外殻の下へ刃先を差し込むと、狼の身体が固くなった。俺も動けなくなり、互いの息だけが狭い通路へ残った。
赤い文字が一つ灯る。
狼の肩が動く前に、鉈を抜いて後ろへ倒れ込んだ。牙が目の前を通り、鎖が鳴る。安全靴の踵が石へ引っかかり、尻を強く打った。
すぐには立てなかった。鉈を胸の前へ構えると、狼も前脚を突っ張ったまま止まっている。
赤い文字は消えていた。狼が短く息を吐き、首輪へ牙を立てる。さっき刃を入れた継ぎ目を狙い、外殻を小さく欠けさせた。
黒い破片が床へ落ちる。俺は立ち上がり、近くにあった拳ほどの石を右手で拾った。鉈は左手で押さえるだけなら、傷の痛みにも耐えられた。
「もう一回やるぞ」
狼の耳が動いた。言葉が通じたのか、声に反応しただけかは分からない。首輪を噛むのをやめ、口を開けたまま荒く息をしていた。
俺が近づくと、また牙が見えた。
「……そっち噛んでろ」
首輪を指しても、狼は見なかった。役に立たないことを言ったと思いながら、鉈の刃先を継ぎ目へ戻す。
今度は文字が光らない。刃を深く押し込み、背へ石を当てると、狼の呼吸が止まった。俺も叩けず、刃先がずれないよう押さえたまま待つ。
狼が鼻から息を吐いたところで、石を振り下ろした。
硬い音が通路へ響き、鉈がわずかに食い込んだ。遅れて同じ音が奥から戻ってくる。狼の前脚に力が入ったが、こちらへは出なかった。
もう一度、息を待つ。吐くのに合わせて叩くと、黒い外殻へ白いひびが走った。
三度目に石を上げた時、赤い文字が端から灯り始めた。狼の胸が大きく膨らみ、喉の奥で声が潰れる。
下がるべきだった。それでも、鉈の先はもうひびの中へ入っている。
狼が息を吐いた。石を落とすように振り下ろすと、外殻が割れた。
黒い板が二枚、首から外れて床へ転がる。鉈を引くより先に狼の頭が動き、肩へ鼻先がぶつかった。
牙ではなかった。それだけ確かめて、俺は床を蹴って距離を取った。
狼も追わない。首を激しく振り、残った輪を爪で掻いている。外殻の下から現れたのは、指二本ほどの細い帯だった。黒い皮膚のような表面が首へ食い込み、ところどころ毛の下まで潜っている。
鎖はその帯へつながったままだ。外れたわけではない。
赤い文字だけは消えていた。床の破片にも光は戻らない。
――――――――――
一般スキル《呼吸合わせ》が取得可能になりました。
――――――――――
表示を閉じる前に、狼が立ち上がった。
俺は鉈を構え直した。狼は一歩出て、張った鎖に止められる。さっきまでより動きは自分のものに見えたが、見分けられるほど長く一緒にいたわけではない。
狼は俺を見たあと、坂の奥へ顔を向けた。耳が立ち、身体が低く沈む。威嚇されているのが自分ではないと気づくまで、少しかかった。
通路のさらに奥で、重いものが床へ落ちた。
足音が一つ。少し間を空け、もう一つ。
黒い金属板の継ぎ目へ、赤い光が走った。坂の奥で一枚が光り、その隣、さらに手前へと壁を染めていく。
狼が鎖を引いた。逃げようとしたのではない。奥へ向かおうとして、首を引き戻されていた。
足音が、今度は二つ続いた。
俺は床に転がった外殻を拾い、リュックの脇へ押し込んだ。鉈を握り直す。手の中で柄が滑り、手袋へ汗が滲んでいるのが分かった。
赤い光の端が、分かれ道まで上がってきた。黒い狼が牙を剥く。
その口が向いている先だけは、もう間違えなかった。




