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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第二章 首輪の黒狼

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第五話 黒い狼

 黄色い縄の手前でライトを点けると、入口の内側に小石が一つ転がっていた。


 第零迷宮へ投げた石ではない。親指ほどの白い石で、黒い砂の上に半分沈んでいる。家の裏から聞こえた音は一度きりで、そのあとに足音も鳴き声も続かなかった。


 ライトを左右へ振る。青い境界線、石床、俺が残した靴跡。曲がり角より先は見えない。


 縄をまたぎかけ、止まった。左腕には包帯しかなく、鉈も手袋も物置へ置いたままだった。買ってきたばかりのライトを握っているだけで、昨日と変わらない格好で中へ入ろうとしている。


 白い石へ向けていた光を外し、家へ戻った。


 夕方、見覚えのない軽トラックが澄江さんの家へ入ってきた。運転席から降りた男は、作業着の胸に会社名の刺繍をつけたまま、荷台から大きな鞄を下ろした。澄江さんの息子らしい。母親より先に畑へ回り、家の裏の斜面を遠くから確かめている。


 俺が外へ出ると、男は黄色い縄ではなく、包帯を巻いた左腕を見た。


「母さんから聞いた。中に何かいたって?」

「いました。市と警察には連絡してます」

「来たのか」

「まだです」


 そこで男は一度、澄江さんの家を振り返った。玄関先では、澄江さんが買い物袋へ薬と通帳を詰めている。避難するつもりらしい。


「母さんは連れてく。あんたも来るなら乗れるけど」

「俺はここにいます」

「家が心配なのは分かるけど、あれ、家の問題じゃないだろ」


 返す言葉が遅れた。家だけなら、鍵を閉めて離れればいい。俺が見ていたのは入口のほうだった。


「警察が来るまではいます」

「来たら、ちゃんと任せるんだな」


 男は念を押したが、俺は頷けなかった。代わりに、黒い砂へ近づかないよう伝える。澄江さんは荷物を積み終えると、こちらへ歩いてきた。


「冷蔵庫の野菜、勝手口に置いたから。明日になったら悪くなるし」

「持っていけばいいのに」

「息子のところにもあるよ。それより腕、変な色になったら電話しなさい。私じゃなくて病院に」


 こんな時でも野菜を置いていくのかと思ったが、言わなかった。澄江さんは赤い布を結んだ縄を指さし、あそこから先へ行くなともう一度言う。俺が返事をする前に、息子が運転席から名前を呼んだ。


 軽トラックが見えなくなると、隣家の明かりも消えた。


 午後六時を過ぎて、市から電話があった。学校の校庭へ現れた入口で行方不明者が出ており、現地確認は早くても明日の昼になるという。危険生物を見た位置と大きさを聞かれたが、中へ入ったことは話さなかった。


 電話を切ったあと、ゴブリンとの戦いを録った音声をもう一度再生する。石を叩きつけた音が終わり、俺が入口へ戻り始めたあたりで、細い波形が何本か続いていた。


 金属を引きずる音に聞こえる。


 実際には数秒遅れて返った縄の音かもしれない。拾ったドリルの刃が、石床へ触れた音とも考えられる。再生するたび違って聞こえ、三度目で止めた。


 物置から園芸縄の残りを出し、入口へ続く縄と結ぶ。結び目を両手で引くと左腕が痛んだ。


 鉈は鞘へ入れ、腰へ固定する。ヘッドライトと手持ちライトには別々の電池を入れた。


 簡易マスク、保護眼鏡、ガーゼ、水。小さなリュックへ詰める順番を二度変え、結局、水だけは外側へ戻した。


 玄関の書き置きには、明日の朝、曲がり角より先を確認すると書いた。予約メールは午前七時半。宛先は母と市のままにする。


 夜中に二度、石を擦る音がした。


 一度目は家の裏へ出たが、入口には何もいなかった。二度目は布団から起き上がったところで止まり、時計だけを見る。午前三時十七分。ライトを持ったまま縁側へ座り、いつの間にか壁へ頭を預けていた。


 目を開けると、障子が白くなっていた。


 四月三日、午前六時四十八分。身体を起こした時、左腕の傷が包帯の内側で引きつれた。熱はなく、指も動く。食パンへ澄江さんが置いていったトマトを挟んで食べ、残りを冷蔵庫へ入れる。


 外へ出ると、赤い布の一枚が黒い砂へ倒れていた。風でほどけたのではない。結び目は縄に残り、布だけが砂へ引かれたように伸びている。昨日見た白い小石は、入口からさらに外へ移っていた。


 警察を待つべきだった。


 そう考えながら、俺は安全靴を履いた。


 新しい作業手袋をはめ、包帯の上から左袖を閉じる。保護眼鏡、マスク、ヘッドライト。鉈の留め具を確かめ、スマートフォンの録音を始めた。園芸縄の端は昨日と同じ柿の木へ結んである。


 玄関の書き置きを一度読み返し、「曲がり角より先」の文字へ線を引いた。代わりに「十分だけ」と書く。何を確認するかは書かなかった。


 予約メールの時刻も、七時十分へ直した。


 青い境界線を越えても、新しい表示は出なかった。


 手持ちライトを点けると、青い線だけでは見えなかった壁の凹凸まで白く浮かぶ。足元の黒い砂には、昨日の靴跡が残っていた。行きと帰りの跡が重なり、その上を砂だけが動いたような細い筋が何本も横切っている。


 曲がり角の手前で鉈の留め具を外す。昨日はここから小さな人型が飛び出した。ライトだけを先へ出すと、石床に横たわった死体の裸足が見えた。


 死体は倒した場所に残っていた。床の黒い砂が腹の下へ集まり、濁った緑色の皮膚を少しずつ覆っている。


 喉が鳴った。マスクの内側で呼吸を整え、曲がり角から顔を出す。


 通路はさらに奥へ続いていた。昨日は青い光の外へ沈んでいた壁に、新しいライトが届いている。左右へ並ぶ固定穴は途中で途切れ、その先から石の積み方が変わっていた。壁の下半分だけが黒い金属板で覆われ、ところどころ内側から膨らんでいる。


 その奥の右壁に、別のゴブリンの頭が落ちていた。


 胴体から引きちぎられ、濡れた跡が奥へ続いている。何かが死体を食べた。そう分かった途端、右手が鉈の柄へ移った。


 園芸縄は曲がり角までしか届かない。結び足した分を解きながら進めると、結び目が石の角へ何度も引っかかった。音を立てるたび足を止める。遅れて返る擦過音へ別の足音が混じっていないか、消えるまで待った。


 五メートル先で、通路が二つに分かれていた。正面は青い線が続き、左側には幅の狭い下り坂がある。黒い金属板は左へ曲がり、その入口だけ床へ深い引っかき傷が重なっていた。


 金属を擦る音が、下から響いた。


 録音で聞いたものより低い。遅れて返ってきた音ではなく、今、坂の先で鳴った。縄を握る左手へ力が入り、傷が痛む。


 正面へ進めば避けられる。それでも、ゴブリンの死体から続く濡れた跡は左へ下りていた。


 ヘッドライトを消し、手持ちライトだけを坂へ向ける。白い光が金属板を滑り、床へ落ちた太い鎖を照らした。鎖は坂の奥へ続き、暗がりの中で何かに踏まれている。


 最初は岩に見えた。


 黒い塊が動き、二つの目が開いた。暗い琥珀色だった。


 犬ではない。伏せた状態でも背中が俺の腰近くにあり、立てば肩まで届く。黒い毛は首の周りで固まり、片方の耳が途中から裂けていた。前脚の爪には、ゴブリンの黒ずんだ血がついている。


 狼が頭を上げた。


 唸り声は聞こえなかった。代わりに胸の奥で震える低音が金属板を伝い、安全靴の底へ届いた。俺は鉈を鞘から半分抜く。


 黒い狼の視線が刃へ落ちた。次に見たのは俺の顔ではなく、左腕の包帯だった。鼻先が一度動く。さっきまでゴブリンを食っていたのに、血の匂いだけで飛びかかってはこなかった。


 首には、黒い金属の輪が食い込んでいた。そこから伸びた鎖は床の金具へつながり、狼が立つと短く張った。金具の周りには、何度も引いた跡が扇形に刻まれている。石を擦る音は、こいつが鎖を引いた音だった。


 狼が一歩出ると、鎖が張って巨体が止まった。届かないと分かっていても、俺の足は坂を一歩下がっていた。


 首輪の表面には細い文字が並んでいる。傷ではない。同じ深さと間隔で刻まれ、一部は弱い赤色に光っていた。意味は読めないが、ドリルの刃に残っていた数字と同じく、自然にできたものではなかった。


 赤い文字が端から順に灯る。


 黒い狼の前脚が石床を掻いた。逃げようとしているのか、飛びかかろうとしているのか分からない。琥珀色の目は俺を見たままなのに、首だけが横へ引かれ、牙が剥き出しになる。


 鉈を抜くと、狼の身体が低く沈んだ。だが、そいつが噛みついたのは俺ではなかった。自分の首輪へ牙を立て、赤く光る文字ごと噛み砕こうとしていた。

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