第四話 鉈とライト
台所の流しへ落ちた血は、水をかけてもすぐには消えなかった。
上着の袖を鋏で切り、腕へ巻いたタオルを剥がす。乾きかけた布が傷へ張りついており、水を含ませながら外すと、止まりかけていた血がまた細く流れた。
欠けた刃の跡は、肘の下から斜めに走っている。深いところと浅いところがあるが、指を曲げても痺れはなく、手首も動いた。
洗っている途中で吐き気が戻った。傷を見たせいではない。ゴブリンの頭へ石を振り下ろした時の、硬いものが途中から柔らかくなる感触が両手に残っていた。
口を濯ぎ、救急箱から消毒液とガーゼを出す。祖父が使っていた薬は期限が切れていたため、引っ越しの時に自分で買ったものだけを使った。
脛の傷にもガーゼを当てる。破れた作業着と血のついたタオルは、ごみ袋へ押し込んだ。
安全靴は玄関へ入れず、空の植木鉢を被せて軒下へ置いた。靴底の黒い砂は、土へ擦りつけてもまだ溝に残っている。
スマートフォンには市から自動返信が届いていた。
『危険があるため、現場から離れてください。警察・消防へ情報共有済みです。現在、同様の通報が集中しています』
到着予定は書かれていない。通報画面には写真と詳細を追加する欄が残っていたが、閉じたままにした。
母へは「パン食べた」とだけ返す。送信してから、嘘ではないことを思い出した。穴へ入る前に一枚食べている。腕のことまで聞かれなかったので、こちらから書かなかった。
縁側の向こうで砂利を踏む音がした。
「在真君、いる?」
澄江さんの声だった。ごみ袋を流しの下へ押し入れ、包帯を巻きかけた腕を下ろす。返事をする前に、開いたままの勝手口から澄江さんが顔を覗かせた。
「いるなら返事くらい――何、その腕」
「斜面で引っかけました」
「何に」
そこで言葉が止まった。澄江さんは包帯ではなく、切り落とした上着の袖を見ている。石の刃に裂かれたところだけ、布が大きくめくれていた。
「穴の中に、生き物がいました」
「入ったの」
俺が答えずにいると、澄江さんは持っていた金属の水筒を台へ置いた。蓋が斜めに噛み、何度回しても閉まらない。
「市には言いました。何か出るかもしれないって」
「それで、あんたは入ったのね」
「もう出てます」
「そういう話してないよ」
澄江さんは蓋を諦め、水筒を両手で持った。怒鳴られると思ったが、声は低いままだった。
「息子にも電話する。私だけじゃ、畑に出る人へ何て言えばいいか分からないから」
「見に来る人が増えるのは困ります」
「見せ物にする気はないよ。あんたが黙ってれば安全って話でもないでしょう」
言い返せなかった。市へ送った文章だけでは、ここに住む人へ今日中に伝わるか分からない。澄江さんは水筒を抱え直し、俺の腕をもう一度見た。
「病院は」
「血は止まりそうです。今、道路も――」
「行かない理由は聞いてない。動かなくなったら救急車呼ぶからね。あと、そのタオルを外へ干さないで。犬が寄ってくる」
犬より先に、あれが寄ってくるかもしれない。口にすると余計なことまで聞かれるため、黙って頷いた。
澄江さんが帰ったあと、包帯を巻き終えて居間へ移った。カーテンを半分だけ開ければ、黄色い縄の一部と斜面の入口が見える。黒い砂の筋は朝より長くなっていたが、囲いの支柱までは届いていない。
スマートフォンの録音を再生する。
自分の足音、遅れて返る足音、服が裂けた音。ゴブリンの裸足が石を蹴った音も、数秒後にまとめて壁の奥から戻っている。
あいつは、反響が返る場所を知っていたように見えた。それでも、スマートフォンから急に声を流すと、目で俺を捉えたまま耳と刃をそちらへ向けた。
大学の封筒を一枚潰し、裏へ書いた。
『近い大きな音へ先に反応する』
その下へ『見えていても、耳が引かれる』と書き足した。
再生を続けると、縄へ脚を取られた音のあとに、石を振り下ろした回数まで残っていた。市の通報フォームで録音を選びかけたが、自分の声が流れたところで外した。
黒い結晶はポリ袋ごと空き瓶へ移し、ドリルの刃は新聞紙で包んで机の引き出しへ入れた。包んだあとも、根元の『12』だけが頭に残った。
ステータスを開く。未配分能力値は四のままで、触れようと思えば数字の横に薄い印が現れた。
耐久へ一つ入れる。次に敏捷、精神。最後の一つは感覚と迷ったが、壁際の石を持ち上げた時の重さを思い出し、筋力へ入れた。
――――――――――
筋力:9 → 10
耐久:10 → 11
敏捷:10 → 11
精神:13 → 14
未配分能力値:0
――――――――――
確定した瞬間、胸の奥で心臓とは違うものが一度だけ脈打った。包帯の下が熱を持ち、指先まで力が通る。試しに拳を握っても、骨が鳴るほど強くなったわけではない。傷も塞がらず、現在HPは二十四のままだった。
スキルポイントは一残っている。使えるスキルがないため、そこは触らなかった。
昼前になっても、警察も消防も来なかった。代わりに防災無線が、各地で見つかった入口へ近づかないよう繰り返している。山に反響した声は少し遅れて聞こえたが、家の裏の音ほど不自然ではなかった。
待っているだけでは、次に何か出た時も石を持つしかない。物置を探すと、壁へ掛けた古い鞘の中に祖父の鉈が残っていた。刃へ薄く錆が浮き、柄の木も乾いている。それでも留め具は切れておらず、軽く振っても刃は抜けなかった。
鉈を持ち歩くわけにはいかない。鞘ごと物置へ戻し、必要なものをスマートフォンへ入力した。ライト、電池、作業手袋、マスク、救急用品、砥石。ヘルメットも欲しかったが、原付で運べる量には限りがある。
軒下の原付は、鍵を差しても一度ではエンジンがかからなかった。タイヤへ空気を足し、灯火と左右のブレーキを確かめる。荷台の箱には、引っ越し前に買ったジェットヘルメットが入っていた。
三度目に始動すると白い煙が短く出て、古いエンジン音が庭へ広がった。
左腕へ振動が来るたび傷が疼く。遠出は無理でも、ホームセンターまでは十分ほどだった。
黄色い縄の外から入口を確認し、澄江さんの家へ声をかける。返事の代わりに、畑の奥で息子へ電話している声が聞こえた。穴を見張ってほしいとは頼まなかった。ただ、買い物へ出ることと、何かあれば家から離れて市へ電話してほしいとだけ伝えた。
「分かったから、早く行って帰っておいで。こっちへ寄らないようには言っとく」
誰に言うのか聞く前に、澄江さんは電話の相手へ戻っていた。
県道は橋の手前から渋滞していた。信号は動いているが、駅方面へ向かう車列がほとんど進まない。反対車線では、赤色灯を点けた消防車が二台、山側へ走っていった。家へ向かう方向ではない。
ホームセンターの駐車場は平日の昼前とは思えないほど埋まっていた。水、乾電池、携帯トイレの購入数を制限する紙が入口へ貼られ、台車へ合板を積む人と、防災袋を抱える人が同じレジへ並んでいる。
ライト売り場は半分以上空だった。防水のヘッドライトと、乾電池式と充電式の手持ちライトを一つずつ取る。残っていた単三電池、砥石、厚手の作業手袋、簡易マスク、保護眼鏡、ガーゼも籠へ入れた。
工事用ヘルメットは一つだけ残っていた。子供用の防災頭巾を抱えた男と同時に手を伸ばし、俺は引いた。代わりになる物は、家で探せばいい。
レジ上のテレビでは、官房長官の会見が流れていた。画面下へ、国内の複数地点で警察官、消防隊員、一般人と連絡が取れなくなっているという速報が出る。人数は「確認中」のままだった。
列に並ぶ人たちは画面を見ていたが、誰も人数を口にしなかった。
帰り道、県道の車列はさらに伸びていた。対向車線を、赤色灯だけが先へ抜けていった。
家へ戻ると、黄色い縄に赤い布が二枚結ばれていた。澄江さんが目立つよう付けたらしい。入口から伸びる黒い砂は、その一枚目の手前まで来ている。
買ってきたライトを点ける。昼間でも白い光は青い境界線の先まで届き、石床に残る俺の足跡を浮かび上がらせた。曲がり角は見えない。ゴブリンの死体も、その先に残したままだ。
物置へ戻り、祖父の鉈を出した。砥石を水へ浸け、刃の錆を落としていく。角度が合っているか自信はなく、二度ほど刃先を指で確かめかけてやめた。研ぐ音へ混じって、居間のテレビが各地の行方不明者を読み上げている。
机の引き出しには、『12』と刻まれたドリルの刃がある。
規格や太さを示す数字かもしれない。それでも、見慣れた工業製品がなぜあの壁の前に落ちていたのかは残る。
刃へ油を引き、鉈を鞘へ戻す。新しいヘッドライトと手袋をその横へ置いたところで、家の裏から石を擦る音がした。
立ち上がる時に左腕が痛んだ。ライトだけを掴み、鉈はまだ物置へ残したまま、黄色い縄のところまで出た。




