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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第一章 世界震動

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第三話 最初の一体

 四つ目の足音は、曲がり角のすぐ向こうで止まった。録音画面の波形には、俺が歩いた三回分とは別に、小さな山が一つ増えている。反響なら最初の三つも同じ形で残るはずだったが、最後の音だけが低く、石の上へ爪を置いたように短かった。


 園芸縄を握ったまま半歩下がる。今度は足を浮かせ、靴底を床へ擦らないように動かした。


 曲がり角から、小さな手が覗いた。


 指は五本ある。皮膚は濁った緑色で、爪の間に黒い砂が詰まっていた。その手が石壁を掴み、子供ほどの背丈しかない人型が、腰を屈めたまま顔を出す。


 耳は横へ長く尖り、鼻は潰れている。黄色く濁った目が二つ、青い光の中で俺を見た。腰へ汚れた布を巻き、右手には石を欠いて作ったらしい短い刃を持っている。


 知っている姿に近いせいで、理解するまで一瞬遅れた。


 足元の小石を曲がり角の奥へ放る。石は一度だけ床を叩き、青い光の外へ転がった。長い耳が音へ向き、黄色い目もそちらを追う。それでも人型は逃げず、刃の背で壁を一度叩いた。


 数秒遅れて同じ音が奥から返る。


 そいつは返ってくる場所を知っていたように、もう俺へ顔を戻していた。


 今なら戻れる。園芸縄を手繰りながら入口へ下がった。足音を消す余裕はなく、安全靴が石を叩く。三歩進んだところで、背後ではなく正面から自分の足音が返り、身体がそちらへ反応した。


 次の瞬間、小さな身体が曲がり角から飛び出した。遅れて返った足音に重なり、裸足が床を蹴る音は聞こえない。俺は左腕を顔の前へ出し、壁へ身体をぶつける。欠けた刃が上着の袖へ食い込み、布ごと皮膚を引いた。


「ぐっ……!」


 熱さが肘から肩まで走った。振り払おうと腕を振ると、小さな人型は軽々と床へ着地した。口が開き、細かな歯が不揃いに並んでいる。視界の端で、赤い数字が浮いた。


――――――――――

HP:27/34

――――――――――


 上着の裂け目から血が滲んでいた。視界の数字は、脈打つ痛みを追うように二十七で止まっている。


 そいつはすぐに二度目の攻撃へ来なかった。長い耳を別々の方向へ動かし、遅れて返る俺の声を追っている。目は俺を見ているのに、刃の向きだけが反響へ引かれていた。


 音のずれには慣れている。ただ、無視できるわけではない。


 俺はリュックを前へ回し、タオルで腕の上から傷を押さえた。片手では結べない。軍手をしたままタオルの端を歯で引いた時、留め具から外れたスマートフォンが床へ落ち、硬い音が通路に響いた。


 俺を見ていた顔が、落下音へ弾けるように振れた。人型が跳ぶ。俺は身体を横へ投げ、石の刃が上着の背を掠めていく。蹴られたスマートフォンは画面を下にして入口側へ滑り、青い境界線のすぐ内側で止まった。


 そいつは俺を追ってこなかった。膝を曲げ、刃を低く構えている。やがて俺が倒れた場所ではなく、数秒遅れて音が返った壁のほうへ耳を向けた。


 立ち上がろうとした膝が震えた。力を入れ直しても止まらない。深く呼吸すれば聞かれる気がして、息を浅くしたまま入口までの距離を見る。


 十メートルもない。走れば外へ出られるが、背を向けたあとにあの速さで飛ばれれば、間に合うかは分からなかった。園芸縄も途中で脚に絡み、まっすぐ逃げられない。


 足元の縄を左手で拾い、右の壁までにじり寄った。反対側は、入口の外にある柿の木へ結んである。小さな人型は、俺を見ながらも遅れて返る音へ何度も耳を動かしていた。


 スマートフォンの画面が上向きなら、録音を再生できる。取りに行くのは無理だったため、手近な石を拾って端末へ投げた。狙いは外れ、横の床へ当たる。人型がそちらへ踏み出しかけて止まり、こちらへ刃を向け直す。


 もう一つ投げると、今度はスマートフォンの端へ当たり、端末が裏返った。画面にはひびが一本入っていたが、録音は続いている。


 床へ伏せ、腕だけ伸ばす。指先が画面へ届くまでの間、生き物は遅れて返った石の音を追って奥へ向いた。録音を止め、直前のファイルを開き、再生音量を最大にする。


『……見た目は普通だな』


 自分の声がスマートフォンから流れ、長い耳と刃が端末へ向く。俺は再生中の端末を境界線の内側へ残し、縄を膝の高さまで引き上げた。入口と右壁に寄った俺の間で、黄色い縄が通路を斜めに横切る。


『……見た目は普通だな』


 迷宮の奥から、遅れた同じ声が返ってくる。人型の顔が左右へ振れた。俺の姿、端末、奥から返る声。その三つを見比べ、足を止めた。


 俺が動かずにいると、また端末から声が流れた。人型は細かな歯を剥き、鳴っているものを壊そうとするように石の刃を振り上げる。そのまま入口側へ踏み込んだ。


 脛が縄に引っかかった。勢いのまま身体が回転し、額が石床へぶつかる。石の刃が手から滑り、俺の足元まで転がった。


 その手を安全靴で踏むと、細い指が足首へ絡んだ。反射的に力を抜きかける。口が開いて靴先へ噛みつき、厚い革の表面で歯が滑った。


「離せ!」


 何度蹴っても、空いた手が縄と俺の足へ絡んでくる。爪が作業着を裂き、脛へ浅く食い込んだ。視界の端でHPが二十四まで減った。


 逃げる方向へ蹴るだけでは、こいつはまた刃を拾う。壁際に、拳二つ分ほどの石が落ちていた。左腕の傷が開くように痛んだが、両手で掴み、小さな頭へ叩きつけた。


 一度では止まらない。二度目で口が靴から離れ、三度目を振り下ろす時には自分の声が出ていた。何を言ったのかは分からない。石と骨のぶつかる感触が腕へ返り、遅れて同じ音が通路の奥で続いた。


 足首に絡んでいた指が床へ落ちる。石を持ったまま待ったが、もう動かなかった。呼吸を戻した途端、吐き気が込み上げた。壁へ片手をつき、血の混じった唾を床へ吐く。口の中を噛んでいたらしい。


 手の中の石には黒ずんだ血がつき、軍手の指へ染み込んでいた。放り出したあとも、遅れて返る打撃音だけが通路の奥で二度、三度と続く。自分がまだ殴っているように聞こえ、音が消えるまで死体から目を離せなかった。


 半透明の表示が、視界の中央へ勝手に開いた。


――――――――――

ゴブリンを単独討伐しました。


レベルが上がりました。

レベル:1 → 2


最大HPが6上昇しました。

最大MPが2上昇しました。


未配分能力値を4獲得しました。

スキルポイントを1獲得しました。

――――――――――


「ゴブリン……」


 その名前だけは、説明されなくても分かった。


 画面の向こうにしかいなかったものが、欠けた刃を持って足元に倒れている。知っている名前と、潰れた顔や黒ずんだ血がうまく重ならなかった。


 死体が動かないことを確かめてから、ステータスを開く。


――――――――――

名前:大月在真

種族:人間

レベル:2


HP:24/40

MP:4/6


筋力:9

耐久:10

敏捷:10

器用:9

感覚:10

精神:13


未配分能力値:4

スキルポイント:1


称号:なし


固有スキル:《継承》(未解放)


スキル:なし

――――――――――


 最大値だけが増え、HPは二十四、MPも四のままだった。腕と脛の傷も塞がっていない。レベルが上がっても、傷までは戻らない。


 能力値をどう使うか考えている場合ではなく、俺は表示を消して、裂けた上着の袖へタオルをきつく巻き直した。脛の傷は浅い。歩けるうちに戻るべきだった。


 スマートフォンを拾う。画面のひびは端に一本だけで、録音も保存されている。


 園芸縄から死体の足を外そうとすると、胸の奥で何かが赤く光った。濁った緑色の皮膚に細い亀裂が入り、中から親指ほどの黒い結晶がこぼれ落ちる。中心だけが暗い赤色で、心臓のように二度明滅して止まった。


 触るのはためらったが、ここへ置いて帰れば別の生き物に持っていかれるかもしれない。軍手越しに拾い、リュックから出したポリ袋へ入れる。死体そのものは重く、片手で運べそうになかった。


 曲がり角の先へは行かない。そう決めて死体から離れた時、その奥の壁へ青い線が走り、石壁に残る細かな傷を照らした。自然に割れた跡ではない。同じ高さに浅い穴が並び、その周りだけ表面が削れている。何かを壁へ固定していたように見えた。足元には、金属の棒が半分埋まっている。


 拾い上げると、先端へ螺旋状の溝が切られていた。錆びてはいるが、石や骨ではない。工事現場で使うドリルの刃に似ている。根元の平らな部分には、機械で打ったような数字が残っていた。


『12』


 園芸縄を巻き取り、入口へ戻る。青い境界線を越えてもステータス表示は消えなかった。スマートフォンのアンテナが戻り、七時半のアラームと母からのメッセージが続けて鳴った。予約メールの送信までは、あと一分しかない。


 外へ出ると、鳥と車の音が一度に戻ってきた。朝の空気は入口の冷気よりずっと暖かいはずなのに、汗で濡れた背中が冷え、黄色い縄の外まで歩いたところで膝をつく。安全靴の黒い砂は土の上でも落ちず、入口から伸びていた細い筋へ、俺の足跡が重なった。


 血の滲んだ軍手の指で予約送信を取り消す。あのメールには、俺が中へ入ったことまで書いてある。腕へ巻いたタオルは赤くなっていた。


 続けて市の通報フォームを開いた。


『内部に危険な生き物がいます。外へ出る可能性があります。入口から黒い砂も広がっています』


 送信ボタンを押す。受付番号が表示されたあと、写真と詳しい状況を追加する画面へ移った。そこは空欄のまま閉じた。顔を上げると、朝の風に黄色い縄が揺れていた。人が来れば、あれは警察のテープに替わる。


『パン食べた?』


 俺は返事を打てず、血のついた軍手を外した。リュックの中には黒い結晶があり、右手には、誰かがここで使ったドリルの刃が残っていた。

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