第二話 ステータス
市の通報窓口につながったのは、写真を三枚送ってから十二分後だった。
『入口から十メートル以上離れてください。柵や扉がある場合は閉鎖し、付近の方にも近づかないよう伝えてください』
電話の向こうでは、別の職員が何度も同じ住所を聞き返していた。受話器を置く音、呼び出し音、誰かの咳が重なっている。久世市だけでも、すでに俺以外から複数の通報が入っているらしい。
「あの、来るのって何時くらいになりますか」
『消防と警察が向かっています。ただ、今は通報が多くて、何時になるかまでは……入口の中には入らないでください。もし何か出てきたら、もう一度――すみません。少々お待ちください』
保留音が流れ、そのまま二分ほど戻らなかった。切らずに待っていると、別の職員が出て最初から住所を聞いた。
説明を繰り返し、最後に受付番号を受け取る。到着時刻は結局分からないままだった。
穴の奥では青白い線が消えずに残り、入口から離れて見ても朝の明るさに負けていない。一定の間隔で明滅するたび、石らしき床と壁、床を覆う黒い砂がほんの数メートルだけ浮かび、その先は光の届かない闇へ沈んでいる。
俺は物置から園芸用の支柱と黄色い縄を持ち出し、斜面へ近づけないよう簡単な囲いを作った。地面が固く、支柱は思ったより入らない。石で叩いている間にもスマートフォンは鳴り続けたが、大半はニュースアプリと家族からだった。
父からの着信は二度。母からは、水と食料を別の部屋へ分けておくようメッセージが来ている。穴の写真は家族へ送っていない。送れば、通行止めでも父は来る。
隠すつもりではなかった。役所には知らせたし、人が来れば説明する。ただ、離れた場所にいる父へ今伝えても、できることより先に命令だけが増える。
黄色い縄を結び終えたところで、澄江さんが畑から戻ってきた。片手に土のついた鍬を持ち、囲いの前で足を止める。
「それ、ニュースでやってる穴?」
「たぶん。市には電話したんですけど、いつ来るかは分からないみたいで」
澄江さんは鍬を置き、黄色い縄の向こうへ首を伸ばした。俺は傾いた支柱を押さえながら、その足元を見る。
「そこ、危ないですよ。縁もどうなってるか分からないんで」
「あんたも入るんじゃないよ」
「今は入ってないです」
「今は、って言ったね」
澄江さんは目を細め、縄の結び目を指で押した。緩いところを一つ締め直し、指についた土を上着で払う。
「昼になっても誰も来なかったら、息子にも電話するから」
「息子さん、こういうの分かるんですか」
「土木の仕事してるだけ。穴なんて知らないよ」
鍬を担ぎ直してから、澄江さんは俺を見た。
「それまで、あんた一人で何とかしようとしないでよ」
まだ何もしていないのに、澄江さんの目は俺と入口の間を行き来していた。
俺は囲いの外へ出て、家へ戻った。入るとは言っていない。台所で食パンを一枚だけ食べ、作業着へ着替える。
テレビでは、各地の入口を警察と消防が封鎖する映像が流れていた。海外では銃を持った兵士が並び、国内ではブルーシートと工事用の柵が使われている。
映像の中に、内部から何かが出た場面はない。撮影者が入って戻らないという未確認情報はあったが、どこまで本当か分からなかった。
もう一度外へ出ると、入口の黒い砂が岩の縁を越えていた。最初の写真では内側にしかなかったはずなのに、細い筋が山の土へ指一本分だけ伸びている。靴先で触れる前に、筋の先で黒い粒が一つずつ集まり、さらに外へ動いた。
家の裏の穴には扉がない。板を立てかけても、この砂と一緒に何かが出てくれば止められない。足跡が出口へ向いているなら、澄江さんを家から離して、市への伝え方も変えなければならない。
最初の曲がり角まで。床を見たら戻る。そう決めても、安全になったわけではなかった。入る理由を探しているだけだと分かっていたが、さっきまでなかった黒い筋を古い家の窓から眺め続ける気にもなれなかった。
物置の棚を探すと、未使用の安全靴が箱に入っていた。祖父のものはサイズが合わなかったが、これは引っ越し作業用に自分で買ったものだ。
厚手の上着へ着替え、軍手、スマートフォン、モバイルバッテリー、タオル、ポリ袋、黄色い園芸縄の残りを小さなリュックへ入れた。
使えそうなライトは見つからない。祖父の懐中電灯は電池を替えても点かなかった。スマートフォンのライトだけで入るのは嫌だったが、入口の青い線は奥まで続いている。
家を出る前、大学の書類の裏へ受付番号と時刻を書いた。午前七時十一分、家の裏の穴へ入る。七時半までに戻っていなければ、市と家族へ連絡すること。
書類を玄関の内側へ置き、同じ内容のメールを七時三十一分の予約送信にする。宛先へ父の名前も入れかけ、外した。母と市だけにして「送信予定」の表示を確かめ、画面を閉じる。通行止めの画面を見ても迎えに来ると言った父へ、今すぐ知らせる気はなかった。
黄色い縄をまたいだところで、一度足が止まった。澄江さんの言葉が残っていたわけではない。入口から流れ出す冷気が、さっきより強くなっていた。
庭側から吹く春の風とは温度が違う。上着の前を閉め、軍手の手首を引く。安全靴の先で入口の土を押してみると、縁は崩れず、奥の石床へそのまま続いていた。
最初の一歩を入れると、靴底が黒い砂を噛んだ。山の土より細かく、濡れているように見えるのに滑らない。足を持ち上げても砂は落ちず、底の溝へ吸いついたまま残った。
入口から三歩進み、振り返る。外の景色は見えている。黄色い縄、物置の錆びた屋根、その向こうに祖父の家。距離も変わっていない。
スマートフォンのアンテナは一本減っていた。母との位置情報共有はまだ動いている。
「……見た目は普通だな」
声は壁に当たらなかった。自分の口元で消え、三秒ほどしてから、ずっと奥で誰かが同じ言葉を小さく呟いた。
背中が勝手に入口へ向いた。外に人影はない。奥から返ったのが反響だと分かるまで、スマートフォンを握ったまま息を止めていた。
音が遅い。入口の前で投げた小石も、最後の一音だけが遅れて返ってきた。洞窟の形が複雑なら反響に差は出る。それでも、今の声は壁を回ったというより、誰かに渡されて戻ってきたように聞こえた。
俺はスマートフォンの録音を開始し、入口から園芸縄を延ばした。縄の端は外の太い柿の木へ結んである。迷う距離まで行くつもりはないが、光が消えた時に戻る方向くらいは分かる。
青白い線に沿って進む。自然の岩肌だった壁は五メートルほどで終わり、そこから先は同じ大きさの灰色の石が隙間なく積まれていた。削った跡も、接着した跡もない。天井は手を伸ばしても届かず、光の外へ消えている。
十メートル進んだところで、スマートフォンのアンテナが消えた。位置情報共有は読み込み中へ変わり、市の通報画面も開かない。時刻だけは午前七時十四分を示している。
引き返すなら今だったが、目の前には床を横切る青い線が一本あった。壁を照らしているものより太く、通路全体を区切っている。線の手前からスマートフォンを差し出しても何も起きない。軍手を外し、指先だけ触れると、冷たさより先に視界が白くなった。
反射的に腕を引いたが、白いものは消えなかった。目の焦点より少し手前に、半透明の文字が浮かんでいる。右を向いても左を向いても同じ位置へついてきた。
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接続先:第零迷宮
第零迷宮への初回接続者を確認しました。
ステータスを開放します。
固有スキル《継承》を仮登録しました。
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「……ステータス?」
口にした言葉へ反応するように、表示が切り替わった。
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名前:大月在真
種族:人間
レベル:1
HP:34/34
MP:4/4
筋力:9
耐久:10
敏捷:10
器用:9
感覚:10
精神:13
未配分能力値:0
スキルポイント:0
称号:なし
固有スキル:《継承》(未解放)
スキル:なし
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数字より先に、《継承》の一行へ目が止まった。名前を意識すると、文字の横へ小さな表示が開く。
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《継承》
迷宮核から能力を一つ選び、受け継ぐ固有スキル。
現在は使用できません。
解放条件:第零迷宮第一層の攻略
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第零迷宮。世界中に現れたものが一万を超えているのに、目の前の穴は自分を零番と名乗っていた。何を基準につけられた番号なのか、表示は答えない。
筋力の九が弱いのか、精神の十三が高いのかも分からなかった。拳を握ってみても、身体は今までと変わらない。けれど使えないはずの《継承》だけは、目を逸らしても視界の隅に薄く残った。
視界の端へ追いやろうとすると表示が薄くなり、もう一度ステータスと考えると元へ戻る。スマートフォンのカメラを自分へ向けても、画面には眠気の残った顔が映るだけだった。スクリーンショットにも文字は入らない。
HPの三十四が減ればどうなるかは、試したくなかった。MPは四しかなく、未解放の《継承》以外に使えるものはない。青い境界線の向こうに、第一層を攻略しろとだけ示されている。
外へ戻って確かめるべきだった。ステータスが入口の外でも残るのか、市へどう説明するのか、やることはいくつもある。それでも境界線の向こうへ、あと一歩だけ進んだ。
床の青い光が、その一歩を追うように奥へ灯る。通路は正面に三メートルほど延び、左へ折れていた。曲がり角の手前に、先ほど投げ入れた小石が落ちている。
園芸縄はまだ背後へまっすぐ続いていた。残りは五メートルほど。小石を拾うところまでなら、決めた範囲を越えない。
俺は表示を消し、足音を立てないよう曲がり角へ近づいた。
一歩。二歩。三歩。
止まる。
数秒遅れて、通路の奥から足音が三つ返ってきた。
録音中の画面へ目を落とし、息を殺したまま待つ。何も続かない。やはり自分の足音が遅れているだけかもしれない。
そのまま曲がり角を覗こうとした時、もう一度だけ石を踏む音がした。
俺は三歩しか歩いていない。




