第一話 世界が揺れた朝
食器棚の戸が鳴るより先に、畳の下から身体を持ち上げられた。
浅い眠りの中で何かに掴まったつもりが、指に触れたのは敷布団の端だけだった。次の揺れで肩が柱へぶつかり、枕元に積んでいた大学の書類が滑り落ちる。障子が細かく震え、まだ箱から出していない食器同士が段ボールの中でぶつかった。
揺れは強くない。立とうと思えば立てたが、古い家はあとから壊れることがある。俺は布団から膝だけ出し、頭上の照明と箪笥を見たまま、収まるのを待った。
九秒ほどで畳が止まった。直後、伏せていたスマートフォンが唸り始める。緊急地震速報の音は、揺れが収まった部屋にはひどく遅れて聞こえた。
「遅いだろ」
画面には午前五時四十二分。震源と予想震度の欄が読み込み中のまま、警報だけが残っている。
立ち上がると、左足の裏で紙が潰れた。県立久世大学、入学手続きの最終確認。端に靴下の跡がついたが、読めなくなったわけではない。拾って机へ戻し、上に置いてあったボールペンで押さえた。
引っ越して三日目だった。祖父の死後、空いていた家を相続し、最低限の掃除だけして住み始めた。父は最後まで反対したが、家賃がいらず、隣家まで声の届かない距離があるのは俺には都合がよかった。
襖を開けて台所へ行く。棚の戸は開いていたものの、落ちた食器はない。ガスの元栓を閉め、蛇口から水が出ることを確かめてから、玄関に置いたスニーカーを履いた。寝間着代わりのスウェットのままだったが、見に来る人もいない。
外は明るくなり始めていた。四月の山際はまだ冷え、吐いた息がうっすら白い。軒瓦を下から見上げ、基礎の周りを歩く。昨日掃いたばかりの落ち葉が散っているほかは、壁にも窓にも目立った割れはなかった。
庭の古い井戸には板蓋が載ったままで、裏の物置も傾いていない。山へ続く細い道の入口で土が少し崩れていたが、この程度なら今日中に直す必要もない。軒下の古い原付も倒れていなかった。
スマートフォンがまた震えた。今度は家族のグループに、母から短い動画といくつもの文章が届いていた。実家の居間で吊り下げ照明が揺れている。けれど動画の最後では、父が窓の鍵を確かめながら、撮っていないで靴を履けと言っていた。
こちらから無事と送るより早く、父から電話がかかってきた。
『家は』
「一通り見た。壊れてないし、水も出てる」
『裏は見るなよ。余震で斜面が崩れるかもしれない。大学も今日はないだろ。道路が止まる前に帰ってこい』
「今から? そっちまで二時間だぞ」
『だから、動けるうちに――』
「今は出ない。大学から連絡が来てから決める」
『在真、お前はまた――』
父の声の後ろから、母が何か言った。「戻れ」ではなく、「冷蔵庫も見たか」と聞こえた。そのまま父と話し始めたので、俺はスマートフォンを耳から離した。
「冷蔵庫も見る。もう切るぞ」
『待て。勝手に決めるな』
「今は動かない。じゃあな」
通話を終えると、手の中でもう一度端末が震えた。今度は市の防災通知ではなく、大学からの一斉メールだった。
『本日予定されていた新入生ガイダンスは延期します。キャンパスへ移動せず、安全な場所で待機してください』
父へ画面の写しを送っておく。返事が来る前に通知欄が押し流され、海外の地名を含む速報がいくつも並んだ。
北米東海岸で地震。欧州各地でも同時刻に揺れを観測。南米、南極観測基地、航行中の船舶からも報告。
同じ映像を使い回した偽情報に見えた。地震は震源から伝わるもので、世界中が同じ時刻に揺れるはずがない。それでも、国内の放送局まで「震源を特定できない」と繰り返していた。
縁側へ戻り、テレビの電源を入れる。映ったアナウンサーは原稿を待ちながら、右耳のイヤホンを何度も押さえていた。画面下の日本地図には震度三の色がほぼ均等に広がり、離島まで同じ時刻が記されている。
『気象庁によりますと、通常の地震で観測される地震波の到達差が確認できず――』
説明の途中で映像が切り替わった。外国の空港だった。床へ荷物を置いた人々が、大きな窓の向こうを見ている。滑走路の脇に、黒い半円形の入口が立っていた。
最初はトンネルかと思った。だが、その場所には昨日まで何もなかったと字幕が出た。周囲に掘り出した土はなく、半円形の黒い縁だけがコンクリートから生えたように立っている。
次は地下鉄のホーム。壁の一部が奥へ抜け、駅員が乗客を遠ざけていた。その次は乾いた草原で、家ほどの高さがある裂け目を軍用車両が囲んでいた。撮影場所も投稿者も違うのに、穴の内側はどれも光を返さなかった。
「地震だけじゃないのか」
ニュースは答えず、確認されていない映像を拡散しないよう呼びかけた。その横で、入口らしきものの報告件数が増えていく。数百だった数字は画面が更新されるたびに桁を変え、一万を超えたところで集計中という表示に戻った。
ネットでは、もう「ダンジョン」という呼び名が広がっていた。誰が最初に使ったのかも分からない。冗談めいた投稿の横に、入口へ入った家族が戻らないという書き込みが並び、数分後にはどちらも同じ速さで流れていった。
国内でも、学校の校庭、地下駐車場、山中、海上施設から同じ報告が出ていた。久世市の名はまだない。
市の防災ページでは、久世駅を通る二路線が止まり、橋を渡る県道も一部閉鎖されていた。駅前広場の映像には、始発を待っていた人たちが建物から出され、毛布を肩へかけたまま歩道へ座り込んでいる姿が映っていた。
家族のグループには、父から「迎えに行く」と来ていた。通行止めの画面を送り返し、来なくていいと打つ。しばらく「入力中」が消えなかった。長い文句が来ると思ったが、先に届いたのは母の「食べられるうちに朝ご飯」だった。
炊飯器は空だった。昨日の夜、明日の朝に炊くつもりで米を研がず、そのまま寝たことを思い出す。食パンはあったが、ニュースを見ながら口へ入れる気にはなれなかった。
テレビの前に座っていても、床がまた揺れる気がした。俺は充電器からモバイルバッテリーを外し、作業用の上着を羽織る。玄関脇にあった祖父の懐中電灯は点かず、何度スイッチを押しても中で乾いた音がするだけだった。
外へ出たところで、門の向こうから声をかけられた。
「大月さんとこのお孫さん、起きてる?」
小宮山澄江さんだった。昨日、畑で採れた菜の花を持ってきた近所の人で、祖父が生きていた頃からこの辺りに住んでいる。ゴム長靴に上着を引っかけ、片手には蓋の閉まっていない金属の水筒を持っていた。
「起きてます。そっちは大丈夫でした?」
「棚から瓶が一本落ちたくらい。あんたのとこ、裏山は見た? うちの井戸、水がちょっと濁ってね。地震のあとだから使う前に見たほうがいいよ」
「水道は出ました。井戸はまだです」
「なら、井戸はあとでいいよ。今、わざわざ蓋を開けることないから。それと、お祖父さんみたいに山まで見に行かないでよ。揺れるたび上がって、靴を泥だらけにして帰ってきたんだから」
最後のところだけ少し笑い、澄江さんは水筒の蓋を締め直した。こちらの返事を待たず、自分の畑の方向へ戻っていく。途中でしゃがみ、道路へ転がった植木鉢を端へ寄せていた。
山へ上がる気はなかった。斜面が崩れていないか、家の裏から見える範囲だけ確かめるつもりで物置の横を抜ける。朝露を含んだ草がスウェットの裾へ触れ、靴下まで冷たくなった。
祖父が使っていた山道は、何年も手入れされていない割には形が残っている。そこへ踏み込まず、境目から斜面を見上げた。
鳥の声がしなかった。
さっき庭に出た時は聞こえていたはずなのに、家の裏だけが妙に空いている。風は枝先を揺らしている。その葉擦れも、途中で薄い布に吸われるように弱くなっていた。
スマートフォンへ新しい緊急通知が届いた。
『各地で出現している洞穴、裂け目、黒色構造物には近づかないでください。内部の安全は確認されていません。発見時は位置情報と外観を――』
最後まで読む前に、視界の端に昨日と違う色が入った。
山道から三メートルほど外れた場所だった。シダと低木が途切れ、その向こうの斜面が黒く抜けている。穴は高さ二メートルほどで、人が屈まず入れる大きさがあった。
崩れた土も、折れた根も周囲にない。縁だけが初めからそこにあった岩肌のように固まり、濡れてもいないのに鈍く光っている。
昨日、この場所を見ている。引っ越しの段ボールを捨てる場所がなく、物置へ運んだ時、斜面にはシダが密集していた。少なくとも、人が入れる穴などなかった。
市への通報画面を開く。位置情報はすぐ取得できたが、写真を添付しようとすると、カメラの焦点が穴の縁と奥を何度も行き来した。黒いだけなら露出が変わるはずなのに、画面の中の穴は塗り潰したような色から動かない。
一歩近づくと、土の湿った匂いに混じって、冷えた金属のような匂いがした。洞穴から風が流れ出している。スマートフォンを持つ手より、上着の中の腕が先に粟立った。
足元から小石を拾い、入口の手前から投げ入れた。二度ほど石に当たる音がしたあと、何も聞こえなくなる。奥へ下っているのか、広がっているのか、それだけでは分からない。
通報先へ電話を切り替えたが、回線は混雑中だった。自動音声が現在地から離れるよう繰り返す。俺は切らずにスピーカーへ変え、ダンジョンの正面から外れた。そう呼ぶには、まだ目の前の穴は静かすぎた。
その時、暗がりの奥で青白いものが灯った。照明というより、石の表面に細い線が浮かんでいる。一本だけだった線はゆっくり下へ延び、見えなかった通路の輪郭を途中まで描いた。
投げた小石の最後の一音が、ずいぶん遅れて返ってきた。俺は通報画面を開いたまま、その入口をもう一枚撮った。




