第八十七話 向こうから開いた扉
熱風の奥から、三回、二回と金属を叩く音がした。
沈降駅で神崎たちが使っていた合図と同じだった。
「人がいる」
千紘は開いた通路の前へ寄り、すぐ耳当てを上げた。
「四人。近いのは三人で、一人は……呼吸が変」
返事をするため、イングリッドが床の短槍を拾う。ゴブリンの一体が柄をつかんだ。
二人で引き合いになった。
「借りるだけ」
翻訳機はゴブリンの言葉を拾わない。イングリッドは自分の胸を指し、短槍で床を三回、二回叩いた。
ゴブリンの指が緩む。
同じ合図が、熱風の向こうから返った。
今度は一回多い。
「最後の一つ、何だ」
マティアスが聞く。
「たぶん急げって意味」
「たぶんで通るな」
「じゃあ、ここにいる?」
イングリッドが短槍を返そうとすると、ゴブリンは受け取らなかった。代わりに、通路を指してから、灰色の回収猟犬のそばへ座る。
ガルも動かない。
外れた首輪を前脚で押さえ、傷口を舐めている。黒茶の一頭はまだ立てるが、残る二頭はすぐに運べる状態ではなかった。
「行かないのか」
ガルへ聞く。
顔も上げない。
俺が通路へ一歩近づくと、耳だけが動いた。それでもついてこない。
あれだけ先へ行ったのに、今はここを選ぶ。
「在真」
千紘が急かさずに呼ぶ。
熱風の向こうで、何か大きな羽音が重なった。
俺はガルの首へ手を伸ばしかけ、やめる。
「ここにいるなら、勝手にいなくなるなよ」
自分で言ってから、無理な言葉だと思った。
ガルは一度だけ鼻を鳴らした。
マティアスが救急袋を下ろす。
「私は残る。地上班と、この三頭を外へ出す」
「こいつらも」
イングリッドがゴブリン二体を見る。
「本人たちが出るならな」
マティアスは捕縛具を出さなかった。ゴブリンの短槍を隅へ寄せ、代わりに水の袋を床へ置く。
イングリッドは先に熱風の通路へ入った。
「三人で行く。向こうの四人と合わせれば七人」
「誰が決めた」
「今」
千紘が俺を見た。
「私は行くよ。音が一人分、弱くなってる」
止める理由を考えている間に、また羽音がした。
今度は近い。
俺たちは一本の補助索で腰をつなぎ、通路へ入った。
壁は数メートルで岩へ変わる。足元のコンクリートも途中で途切れ、赤い土と乾いた草が混じり始めた。
距離の感覚がおかしい。
ホルン岬の海風は背中へ残っているのに、前から差す光は真昼に近い。十歩進むごとに季節が変わっていくようで、防寒着の内側へ汗が流れた。
千紘が足を止める。
「来る。上から三つ」
空を見上げた時には、一体目が降りていた。
人間に近い胴体へ、褐色の翼と鉤爪を持つ魔物。
ハーピー。
俺ではなく、補助索を狙っている。
イングリッドが短槍を振る。穂先は翼を外れたが、索に伸びた爪を叩き落とした。
二体目が右上を横切った。
見失う。
「在真、しゃがんで!」
千紘の声で膝を落とす。
頭上を風が裂き、爪がヘルメットの縁を掠めた。振り向いた時には、ハーピーは赤い崖の方へ上がっている。
三体目は来ない。
代わりに、人間が落ちてきた。
土色の防具を着た男が、片足をハーピーにつかまれたまま空中で振られている。片腕は動いていなかった。
「索、外す」
俺は腰の金具を開いた。
千紘は止めず、余った索を両腕へ巻く。イングリッドも後ろから同じ索を踏んだ。
ハーピーが足を離す。
男の身体が落ちた。
俺は崖際から踏み出す。
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《空歩》Lv.1を使用しました。
MPを40消費しました。
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一歩目を空中へ置き、落下する男の防具をつかむ。
重い。
右肩が上がらず、左腕へ重さが偏った。縫った場所が引かれる前に二歩目を下へ作り、崖壁へ靴をつける。
上から補助索が張った。
千紘とイングリッドが同時に引く。男の身体を先に崖上へ押し上げ、俺は岩へ左肘をついて這い戻った。
赤い土が口へ入る。
咳をした瞬間、乾いた銃声が二つ続いた。
一体目のハーピーが翼を畳み、地面すれすれまで落ちる。撃ったのはイングリッドではなかった。
崖の向こうから、網が飛ぶ。
傷ついた翼を包み、魔物を岩へ引き落とした。
「伏せて! まだ一体いる!」
翻訳機から女の声が遅れて届く。
細い槍を持った獣人の女が、崖下から駆け上がってきた。額から頬へ白い線を引き、頭には丸い獣耳がある。
彼女は俺たちを見ても速度を落とさず、倒れた男の脇へ膝をついた。
「サミュエル、聞こえる?」
返事はない。
女は男の口元へ耳を寄せ、次に俺へ手を出した。
「アミナ。あなたは?」
「大月在真」
握手だと思って右手を出すと、手首をつかまれた。
「脈はある。運ぶのを手伝って」
俺の脈ではなく、男を指していた。
イングリッドが後ろで笑いかけ、残る羽音に気づいて銃口を上げる。俺とアミナはサミュエルの防具を左右から持ち上げた。
赤い岩の陰まで二十メートルほどだった。
そこには、もう二人いた。一人は石化しかけた左手を胸へ吊り、もう一人は黒い布を両腕で広げ、円い金属板へ被せ続けている。
風で布がめくれるたび、下から陽光が鋭く返った。
「鏡?」
「中継器。光を集めて、下へ送ってる」
アミナはサミュエルを日陰へ寝かせ、彼の動かない腕を腹の上へ置いた。
「六分前に北側の壁が開いた。そっちが何かした?」
「一つ目の核を止めた」
「核?」
翻訳機が遅れ、アミナは聞き返すより先にサミュエルの防具を緩めた。知りたいことと、今やることが同じ順番ではないらしい。
黒い布を持つ男が英語で何か叫ぶ。
翻訳機には《もう支えられない》と出た。
千紘は打音器を一度だけ鳴らした。
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《音界地図》Lv.1を使用しました。
MPを20消費しました。
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「上じゃない。岩の裏へ降りた。こっちを見てない」
「巣へ戻った?」
アミナが短く聞く。
「もっと下。大きいのが動いてる」
赤い崖の底で、乾いた地面が持ち上がった。
最初は岩に見えた。
長い胴が土を割り、鱗の間から白い光を漏らす。頭だけで小型車ほどあり、閉じていた瞼がゆっくり開いた。
アミナが俺の顔を地面へ押した。
「目を見るな!」
反対側の崖で、逃げ遅れたハーピーがその目を見た。
翼の先から灰色へ変わる。
石になった身体が、音もなく崖下へ落ちた。
俺たちが通ってきた穴の周囲にも、同じ灰色が広がっていく。
通路が閉じるより先に、ホルン岬側からガルの遠吠えが一度だけ届いた。




