第八十四話 記録室
日本へ戻った日の夜、千紘の段ボールが一つ増えた。
灰海へ行く前から縁側にあった箱とは別で、今度は側面に台所と書かれている。本人はまだ引っ越しではないと言ったが、二階の空き部屋には着替えも置かれ、洗面所の棚からは俺の替えの歯ブラシが一本減っていた。
「それ、どこへやった」
「捨てた。毛先が開いてたから」
千紘は台所の箱を開けたまま、振り向きもしなかった。
「まだ使えた」
「新しいの、横に置いてあるよ」
「勝手に捨てるなよ」
「じゃあ次から、捨てる前に写真送る」
そういう話でもない。
言い返そうとした時、左腕の包帯が箱の角へ触れた。痛みより先に指が開き、持っていた湯飲みを落としかける。
千紘は音で気づいたらしく、腰を伸ばしてこちらを見た。
「それで記録室へ行く気?」
「見るだけだ」
「灰海でも聞いた」
「今回は本当に見るだけ」
「誰が?」
答えずに湯飲みを置くと、千紘は箱から小鍋を出した。祖父の家にも同じ大きさのものがある。どちらを残すか比べるつもりらしいが、流しの横へ二つ並べたまま動かさなかった。
帰還から六日が過ぎている。
調査船で左腕を縫い直され、帰国後は第零迷宮の治療槽にも入った。背中の打撲と裂傷は閉じたものの、左手で重い物を持つとまだ指が遅れる。
右肩は前から変わらない。右目も戻っていない。
食事と睡眠で数値だけは最大まで戻り、灰海で得た能力値も昨日配り終えた。
――――――――――
名前:大月在真
種族:竜人
種族ランク:一次進化種
レベル:42
HP:3,340/3,340
MP:1,040/1,040
筋力:800
耐久:960
敏捷:705
器用:300
感覚:250
精神:465
未配分能力値:0
スキルポイント:38
称号:
《第零迷宮初踏破者》
《隻眼の攻略者》
《黒狼の盟友》
《沈降駅踏破者》
《世界杭攻略者》
固有スキル:
《継承》Lv.7
継承能力:
《断界》Lv.1
《衝撃分散》Lv.1
《空歩》Lv.1
《座標記録》Lv.1
《係留》Lv.1
《道標共有》Lv.1
《記憶固定》Lv.1
一般スキル:
《呼吸合わせ》Lv.1
《境目抜け》Lv.1
《足場読み》Lv.1
種族特性:
《竜鱗》
《竜脈》
――――――――――
数値が上がったあと、廊下の角へ左肩をぶつけた。
速くなった身体に慣れていないわけではない。ただ、踏み出した足が思ったより先へ出るようになった分、右側を見直す時の身体の向きがずれた。
強くなれば、なくした視野まで埋まるわけではない。
「私も終わった」
千紘が鍋を置き、指を折りながら読み上げる。
「筋力百四十、耐久三百五十、敏捷四百六十五、器用五百八十、感覚八百五十、精神六百八十。HP二千四百六十、MP八百六十」
「感覚には三十しか振らなかったんだな」
「今でも拾いすぎるから。増やせばいいって感じじゃない」
空になった段ボールを畳もうとして、途中でやめる。
「これ、ガルが寝るかもしれないから置いとく」
「その大きさには入らないだろ」
「頭だけ入れて寝る」
言われてみれば、前に一度やっていた。
庭へ目を向ける。ガルはいつもの柿の木の下にいなかった。
縁側には泥のついた足跡があり、開けたままの第零迷宮へ続いている。
「先に入った?」
「私が来た時から、ずっと中を気にしてた。止めても行くと思ったから、扉だけ開けた」
「言えよ」
「在真、昼まで寝てたでしょ」
眠っている間に起こせとは言えなかった。
俺は壁に立てていた短い接触棒を取る。鉈へ伸ばした手は、千紘に見られて戻した。
「見るだけなんでしょ」
「分かってる」
「じゃあ私も見るだけ」
千紘は箱をそのままにし、水筒と打音器を持った。白いイヤホンはまだ壊れたままで、薄い耳当てを首へかける。
第零迷宮の入口から入ると、外の蝉が急に遠くなった。
攻略済みの第一層には照明が増え、黒い砂も通路の端へ薄く残るだけになっている。右壁へ肩を寄せて進むと、核保管室へ下りる階段の途中で、ガルの爪が石を擦る音がした。
新しい扉は、倉庫の向かいに開いていた。
金属でも石でもない灰色の板に、《記録室》と日本語が浮かんでいる。
ガルはその前へ座り、低く唸っていた。
「開かないのか」
声をかけると、こちらを一度だけ見る。
鼻先は扉ではなく、床と壁の隙間へ向いていた。
そこから細い青線が漏れている。
沈降駅で見た接続線より暗く、ときどき奥へ引かれるように縮んだ。ガルは前脚で一度踏み、線がまた現れるのを待っている。
「この音、知ってるみたい」
千紘がしゃがむ。
「ガルが?」
「違う。線の方。ガルが唸る前に、向こうから同じ低い音が返ってる」
俺には何も聞こえなかった。
扉へ触れる。
――――――――――
《記録室》を開放します。
閲覧可能記録:7
欠損記録:3
接続元照合:未完了
――――――――――
板が中央から左右へ引き込まれた。
冷たい空気ではなく、陽に焼けた金属の臭いが流れてくる。
室内は祖父宅の六畳間ほどしかない。正面の壁へ七つの黒い窪みが並び、それぞれの奥で、これまで収容した迷宮核と同じ色の光が脈打っていた。
その先に、空の窪みが三つある。
ガルは俺たちを待たず、中へ入った。
床の中央には、灰海で見た二つの地球儀が半分ずつ重なっている。完全な立体ではなく、青白い線だけで作られた像だった。
欠けた方の地球へガルが近づく。
首の古傷が痙攣した。
俺は反射的に手を伸ばしたが、ガルは触れられる前に一歩退いた。牙を見せたのは地球儀へで、俺ではない。
「ガル」
呼んでも近づいてこない。
重なった地球儀の間から、三本の細い線が伸びる。
一つは北大西洋。もう一つはアフリカ大陸の東側。最後の一つは南米の山地らしいが、国境も都市名も表示されなかった。
空の窪みが、線と同じ順で弱く点灯する。
――――――――――
世界退避網・欠損中継核:3
中継核の収容により、接続元観測座標を復元できます。
《観測門》開放条件:
保有迷宮核 7/10
――――――――――
「あと三つ」
千紘は地球儀より、ガルを見ていた。
「三つ取れば、向こう側が見えるってことか」
「見るだけかは書いてない」
青線の一本が、北大西洋からさらに北へ滑った。
雪原でも灰海でもない。崩れた海岸沿いの建物が、地球儀の内側へ一瞬だけ映る。
壁際に、金属の檻が並んでいた。
そのうち一つへ、首輪をつけた黒い四足が伏せている。
ガルが床を蹴った。
像は消えたが、遅れて届いた唸りだけが記録室の壁に残る。目の前のガルと、像の中の何か。二頭分だった。
ガルは空の窪みの前へ鼻を押しつける。
俺が触れようとすると、また避けた。
それから一度もこちらを見ず、北へ伸びていた青線の跡を嗅ぎ始めた。




