第八十三話 六人で戻る
青い階段は、上へ行くほど海の匂いが薄くなった。
代わりに濡れた鉄と、長く閉めた部屋のような埃っぽさが混じる。足元は光っているのに、靴底へ返る感触は古いコンクリートだった。
先頭を歩くエイダが、三段ごとに振り返る。
そのたび、オーウェンは面倒そうに片手を上げた。
「まだいる」
「聞いてない」
「じゃあ、三段ごとに振り返るな」
「前を見て歩けって言ってる」
言い返しながらも、エイダは歩幅を落としていた。
オーウェンの左胸脇には灯が巻いた包帯があり、防水服の裂け目から血が滲んでいる。自分で歩けると言ったのは嘘ではないが、右足を上げるたびに身体がわずかに傾いた。
俺も左腕を胸へ寄せたまま、手すり代わりの救命索を握っている。階段が曲がるたび、見えない右側から足音が増えたように聞こえ、首ごと振り向いて確かめた。
五人ではない。
六人分ある。
それでも、数え終えるたびに一人目からやり直したくなった。
「大月」
後ろから呼ばれ、止まりかける。
レオンは青い階段へ靴をつけられず、灯と千紘の間で救命索に腰を預けていた。身体が軽くなったままなので、一歩ごとに二人から引き下ろされている。
「何だ」
「今、私を数えましたか」
「数えた」
「何番目でした」
答えようとして、口の中が乾いた。
千紘、灯、レオン。俺の後ろには三人いる。順番まで分かっているのに、さっき何番目に数えたかだけが残っていない。
「……三番目だったと思う」
「私は覚えていません」
レオンは防水板の端へ親指を滑らせた。鉛筆で書いた名前は水に滲まず残っている。
「だから聞きました」
灯が彼の腰索を一度強く引いた。
「そういう確認、今は増やさないで。分からないものが増えるだけだから」
「分からないまま減るよりはいい」
「減ったら書く。いま必要なのは、階段を上がること」
灯は話を終えず、レオンの右足を青い段へ押しつけた。レオンも反論をやめて、浮く身体を自分の腕で引き下ろす。
千紘は何も言わなかった。
俺の背中側へ寄り、肩越しに前を見ている。能力を使ったあとの鼻血は止まっていたが、低い音を拾うたび、耳の下に残った細い傷が動いた。
もう鯨の声はしない。
ただ、階段の奥から一定の間隔で水滴が落ちていた。
「上、近い」
千紘が言うと、エイダが足を速めかけた。
その直後、オーウェンの左足が段を踏み外した。
俺は伸ばした右手で防水服をつかんだが、肩が上がらない。指先だけが布を滑り、代わりにエイダが彼の腰索を引き寄せた。
「歩けるんじゃなかった?」
「段が消えた」
オーウェンは足元を見たまま答えた。
青い光の中に、靴だけが沈んでいる。
顔も腕も見える。名前も分かる。それなのに、左足の輪郭が足首から先だけ薄くなり、段の色が透けていた。
エイダが彼の名を呼ぶ。
輪郭は戻らなかった。
「在真」
千紘に呼ばれるより先に、俺はオーウェンの肩へ手を置いていた。
新しく得た能力を意識すると、相手の名前と、今していることが別々の手触りで浮かぶ。記憶を読む感覚ではない。俺が知っているものを、そこへ押し当てて動かないようにするだけだった。
オーウェン・リード。
六人で小艇へ戻る。
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《記憶固定》Lv.1を使用しました。
対象:オーウェン・リード
固定内容:現在の固有名/現在の目的
有効時間:10分
MPを40消費しました。
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掌の下で、防水服の中身が急に重くなる。
オーウェンの左足が青い段を踏み、膝が折れた。今度は俺ではなく、エイダが脇へ腕を入れて支える。
「何をした」
「名前と、戻る目的を止めた。十分だけ」
「それだけ?」
「それ以上はできない」
エイダは短く息を吐いた。けれど聞き返さず、オーウェンの腕を自分の肩へ回す。
「十分なら余る。行くよ」
階段の終わりに、四角い明かりが見えた。
屋上へ出た瞬間、風が左頬を叩く。
灰色の海はまだ建物を囲んでいたが、水面から上へ降る雨は止まっている。空は暗く、外に置いた小艇の作業灯だけが濡れた床を白く照らしていた。
艇は二本の索に引かれ、屋上の縁で斜めになっている。
エイダはオーウェンを灯へ預けると、結び目へ駆け寄った。一本を外す前に、もう一本を短く取り直す。以前と同じ二重の結び目だった。
オーウェンが、その背中へ言った。
「短い」
エイダの手が止まる。
「何が」
「二本目。おまえ、焦ると輪を小さくするだろ」
彼女は結び目を見下ろし、乱暴に一度ほどいた。
「黙って乗れ」
オーウェンは笑わなかった。代わりに、自分の左足を二度踏み、まだ見えることを確かめてから艇へ入った。
全員が乗ると、重量計の針が六人分で止まる。
空席はなかった。
エイダが操舵席へ座り、俺は最後尾で建物側の索を鉈で切った。刃を振るだけで左腕の傷が引かれ、濡れた手袋の中へ温いものが広がる。
艇が屋上を離れる。
水面へ落ちるはずの船底は、灰色の海を板のように滑った。
前方には何も見えない。入ってきた時に置いた自動浮標も、《道標共有》の感覚も消えている。
エイダは速度を上げず、船首を左右へ振った。戻る方向を探しているのではなく、艇の反応を確かめているようだった。
「こっち」
千紘が右前を指す。
「音、するか」
「波じゃない。発信器。途切れてるけど、同じ間隔」
エイダはすぐには舵を切らなかった。右前へ顔を向け、暗い水面をしばらく見たあと、操舵盤の受信表示を叩く。
一度だけ、緑の点が浮いた。
「あれなら外の船だ。たぶん」
「たぶんでいい。今は他にない」
千紘が先に座り直す。エイダは鼻で息を吐き、艇を右へ向けた。
灰色の水が船底を擦る音は、少しずつ普通の波へ近づいていった。
境界を越えたのは、景色より匂いで分かった。
潮と燃料が一度に戻る。
艇が急に沈み、全員の身体が座席へ落ちた。レオンだけは腰索が張り、半分浮いたまま灯の肩へぶつかった。
「重くなった?」
灯が聞く。
「いいえ」
「残念」
「あなたは、もう少し患者へ――」
「名前は?」
レオンが黙る。
灯は前を向いたまま、自分の胸を指した。
「私」
「雨宮灯。救急救命士。ベルリンで最初に会った」
「そこは?」
「覚えていません」
言葉は平らだったが、レオンは防水板を裏返さなかった。失ったことを書いた面を、膝の上へ置いたままにしている。
能力を取った時、なくなる前なら守れると思った。
もうなくなったものには届かない。
分かって選んだはずなのに、実際に何も戻せないまま隣へ座っている人間を見ると、その制限だけが先に残った。
調査船の灯が近づく。
甲板では何人も手を振っていた。無線は雑音のあと急につながり、人数を聞く声が重なる。
エイダは送話器をつかんだ。
「六人。負傷三、歩けるのが二、言うこと聞かないのが一」
『進入は五人のはずだ』
「そっちの名簿が一人足りなかった」
返答が途切れた。
オーウェンは操舵席の横へ座り込み、送話器を奪おうとはしなかった。船影を見上げたまま、自分の名札を握っている。
『……氏名を』
エイダが彼を見る。
オーウェンはしばらく口を開かなかった。名前を忘れたのではない。自分の口から言っても、また記録に拒まれるのを待っているように見えた。
やがて送話器へ手を伸ばす。
「オーウェン・リード。第一艇の三人目だ」
無線の向こうで、誰かが息を呑んだ。
別の声が、彼の名を繰り返す。
調査船の横腹に掲げられた人数表示が、五から六へ切り替わった。
オーウェンはそれを見ても何も言わず、白い名札から指を離さなかった。




