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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第十七章 観測門

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第八十三話 六人で戻る

 青い階段は、上へ行くほど海の匂いが薄くなった。


 代わりに濡れた鉄と、長く閉めた部屋のような埃っぽさが混じる。足元は光っているのに、靴底へ返る感触は古いコンクリートだった。


 先頭を歩くエイダが、三段ごとに振り返る。


 そのたび、オーウェンは面倒そうに片手を上げた。


「まだいる」


「聞いてない」


「じゃあ、三段ごとに振り返るな」


「前を見て歩けって言ってる」


 言い返しながらも、エイダは歩幅を落としていた。


 オーウェンの左胸脇には灯が巻いた包帯があり、防水服の裂け目から血が滲んでいる。自分で歩けると言ったのは嘘ではないが、右足を上げるたびに身体がわずかに傾いた。


 俺も左腕を胸へ寄せたまま、手すり代わりの救命索を握っている。階段が曲がるたび、見えない右側から足音が増えたように聞こえ、首ごと振り向いて確かめた。


 五人ではない。


 六人分ある。


 それでも、数え終えるたびに一人目からやり直したくなった。


「大月」


 後ろから呼ばれ、止まりかける。


 レオンは青い階段へ靴をつけられず、灯と千紘の間で救命索に腰を預けていた。身体が軽くなったままなので、一歩ごとに二人から引き下ろされている。


「何だ」


「今、私を数えましたか」


「数えた」


「何番目でした」


 答えようとして、口の中が乾いた。


 千紘、灯、レオン。俺の後ろには三人いる。順番まで分かっているのに、さっき何番目に数えたかだけが残っていない。


「……三番目だったと思う」


「私は覚えていません」


 レオンは防水板の端へ親指を滑らせた。鉛筆で書いた名前は水に滲まず残っている。


「だから聞きました」


 灯が彼の腰索を一度強く引いた。


「そういう確認、今は増やさないで。分からないものが増えるだけだから」


「分からないまま減るよりはいい」


「減ったら書く。いま必要なのは、階段を上がること」


 灯は話を終えず、レオンの右足を青い段へ押しつけた。レオンも反論をやめて、浮く身体を自分の腕で引き下ろす。


 千紘は何も言わなかった。


 俺の背中側へ寄り、肩越しに前を見ている。能力を使ったあとの鼻血は止まっていたが、低い音を拾うたび、耳の下に残った細い傷が動いた。


 もう鯨の声はしない。


 ただ、階段の奥から一定の間隔で水滴が落ちていた。


「上、近い」


 千紘が言うと、エイダが足を速めかけた。


 その直後、オーウェンの左足が段を踏み外した。


 俺は伸ばした右手で防水服をつかんだが、肩が上がらない。指先だけが布を滑り、代わりにエイダが彼の腰索を引き寄せた。


「歩けるんじゃなかった?」


「段が消えた」


 オーウェンは足元を見たまま答えた。


 青い光の中に、靴だけが沈んでいる。


 顔も腕も見える。名前も分かる。それなのに、左足の輪郭が足首から先だけ薄くなり、段の色が透けていた。


 エイダが彼の名を呼ぶ。


 輪郭は戻らなかった。


「在真」


 千紘に呼ばれるより先に、俺はオーウェンの肩へ手を置いていた。


 新しく得た能力を意識すると、相手の名前と、今していることが別々の手触りで浮かぶ。記憶を読む感覚ではない。俺が知っているものを、そこへ押し当てて動かないようにするだけだった。


 オーウェン・リード。


 六人で小艇へ戻る。


――――――――――


《記憶固定》Lv.1を使用しました。


対象:オーウェン・リード


固定内容:現在の固有名/現在の目的


有効時間:10分


MPを40消費しました。


――――――――――


 掌の下で、防水服の中身が急に重くなる。


 オーウェンの左足が青い段を踏み、膝が折れた。今度は俺ではなく、エイダが脇へ腕を入れて支える。


「何をした」


「名前と、戻る目的を止めた。十分だけ」


「それだけ?」


「それ以上はできない」


 エイダは短く息を吐いた。けれど聞き返さず、オーウェンの腕を自分の肩へ回す。


「十分なら余る。行くよ」


 階段の終わりに、四角い明かりが見えた。


 屋上へ出た瞬間、風が左頬を叩く。


 灰色の海はまだ建物を囲んでいたが、水面から上へ降る雨は止まっている。空は暗く、外に置いた小艇の作業灯だけが濡れた床を白く照らしていた。


 艇は二本の索に引かれ、屋上の縁で斜めになっている。


 エイダはオーウェンを灯へ預けると、結び目へ駆け寄った。一本を外す前に、もう一本を短く取り直す。以前と同じ二重の結び目だった。


 オーウェンが、その背中へ言った。


「短い」


 エイダの手が止まる。


「何が」


「二本目。おまえ、焦ると輪を小さくするだろ」


 彼女は結び目を見下ろし、乱暴に一度ほどいた。


「黙って乗れ」


 オーウェンは笑わなかった。代わりに、自分の左足を二度踏み、まだ見えることを確かめてから艇へ入った。


 全員が乗ると、重量計の針が六人分で止まる。


 空席はなかった。


 エイダが操舵席へ座り、俺は最後尾で建物側の索を鉈で切った。刃を振るだけで左腕の傷が引かれ、濡れた手袋の中へ温いものが広がる。


 艇が屋上を離れる。


 水面へ落ちるはずの船底は、灰色の海を板のように滑った。


 前方には何も見えない。入ってきた時に置いた自動浮標も、《道標共有》の感覚も消えている。


 エイダは速度を上げず、船首を左右へ振った。戻る方向を探しているのではなく、艇の反応を確かめているようだった。


「こっち」


 千紘が右前を指す。


「音、するか」


「波じゃない。発信器。途切れてるけど、同じ間隔」


 エイダはすぐには舵を切らなかった。右前へ顔を向け、暗い水面をしばらく見たあと、操舵盤の受信表示を叩く。


 一度だけ、緑の点が浮いた。


「あれなら外の船だ。たぶん」


「たぶんでいい。今は他にない」


 千紘が先に座り直す。エイダは鼻で息を吐き、艇を右へ向けた。


 灰色の水が船底を擦る音は、少しずつ普通の波へ近づいていった。


 境界を越えたのは、景色より匂いで分かった。


 潮と燃料が一度に戻る。


 艇が急に沈み、全員の身体が座席へ落ちた。レオンだけは腰索が張り、半分浮いたまま灯の肩へぶつかった。


「重くなった?」


 灯が聞く。


「いいえ」


「残念」


「あなたは、もう少し患者へ――」


「名前は?」


 レオンが黙る。


 灯は前を向いたまま、自分の胸を指した。


「私」


「雨宮灯。救急救命士。ベルリンで最初に会った」


「そこは?」


「覚えていません」


 言葉は平らだったが、レオンは防水板を裏返さなかった。失ったことを書いた面を、膝の上へ置いたままにしている。


 能力を取った時、なくなる前なら守れると思った。


 もうなくなったものには届かない。


 分かって選んだはずなのに、実際に何も戻せないまま隣へ座っている人間を見ると、その制限だけが先に残った。


 調査船の灯が近づく。


 甲板では何人も手を振っていた。無線は雑音のあと急につながり、人数を聞く声が重なる。


 エイダは送話器をつかんだ。


「六人。負傷三、歩けるのが二、言うこと聞かないのが一」


『進入は五人のはずだ』


「そっちの名簿が一人足りなかった」


 返答が途切れた。


 オーウェンは操舵席の横へ座り込み、送話器を奪おうとはしなかった。船影を見上げたまま、自分の名札を握っている。


『……氏名を』


 エイダが彼を見る。


 オーウェンはしばらく口を開かなかった。名前を忘れたのではない。自分の口から言っても、また記録に拒まれるのを待っているように見えた。


 やがて送話器へ手を伸ばす。


「オーウェン・リード。第一艇の三人目だ」


 無線の向こうで、誰かが息を呑んだ。


 別の声が、彼の名を繰り返す。


 調査船の横腹に掲げられた人数表示が、五から六へ切り替わった。


 オーウェンはそれを見ても何も言わず、白い名札から指を離さなかった。

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