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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第十六章 退避網

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第八十二話 帰る人の名前

「私が行きます」


 レオンはもう一度言った。


 灯が腰の索を離さない。


「軽いからって、泳げるわけじゃない」


「水柱へ落ちる前に鯨へ着きます」


「それを落ちるって言うの」


「彼が往復するより早い」


 固定は残り五分を切っている。


 俺の《空歩》はまだ使えるが、七つの張力を一人で確かめて戻る時間はない。左腕も、巻き直した圧迫材の端から血が滲んでいた。


 灯は俺の腕を見てから、レオンへ戻る。


「行ったら、自分で帰れる?」


「できません」


「そこは言い切るんだ」


「だから、索を持っていてください」


 灯の眉が寄る。


 レオンは彼女の返事を待たず、通路の縁へ両膝をついた。足が浮いているため、踏み切ることもできない。


 エイダが背中を押す。


「三つ触ったら戻す。欲張るな」


「六つあります」


「数の話じゃない」


 救命索を短く持ち直し、レオンを水柱側へ送り出す。


 彼の身体は落ちなかった。


 鯨へ向かって、ゆっくり横に浮く。


 両手を広げても姿勢が安定せず、途中で頭が下を向いた。灯が索を一度引くと、腰を中心に半回転する。


「引かないでください」


「顔から骨に当たるよりいい」


 レオンは返さなかった。


 近づいた肋骨へ両腕を回し、身体を固定する。何千枚もの名札が頬へ当たっても、読もうとはしなかった。


「首側の内」


 エイダが通路から言う。


「触って、引くだけ。外すな」


 レオンは一つ目へ手を置き、すぐ離した。


「動きません」


「次」


 外側。


 金属環を引くと、名札の束がわずかにずれた。


「こちらです」


 見えない男の腕も、地球儀の上で対応する線を指す。


 エイダが張りを確かめた。


「違う。まだ重い」


「動きました」


「動くのと、先に外すのは別だ」


 レオンの指が止まる。


 反論する前に、鯨の低音が鳴った。


 六音しかない声は、前より割れている。


 レオンの身体が肋骨から浮いた。


 名前の束が彼の胸と腕へまとわりつく。


「戻す!」


 エイダと灯が索を引く。


 レオンも骨を蹴った。


 蹴った力より、鯨から離れる浮力の方が強い。水柱の外へ押し出され、通路へまっすぐ戻ってくる。


 千紘が索をまたぎ、着く位置を空けた。


「頭、下げて」


 レオンが顎を引く。


 肩から通路へ落ち、灯と千紘に止められた。


「三つと言っただろ」


 エイダが言う。


「二つです」


「そういう話をしてない」


 レオンは起き上がろうとしたが、灯に胸を押される。


「何を忘れた」


「確認はあとです。尾の内側が一番軽い」


「さっき外側を触ってた」


「身体が回った時に足が当たりました」


 エイダは一瞬黙り、地球儀の尾側内線へ指を置く。


「確かに軽い」


 レオンは役に立ったことを言わなかった。


 目を閉じ、今失ったものを探している。灯も答えを急かさず、彼の救命索を外さなかった。


「俺が緩める」


 鉈を持ち直す。


「一人では行かない」


 千紘が言った。


「足場は一人分だ」


「そこじゃなくて、索」


 彼女は自分の安全帯を俺の索へつないだ。


 俺が落ちた時、千紘まで引かれる。


 止めようとして手が伸び、途中でやめた。彼女はそれを分かって結んでいる。


「勝手に外すなよ」


「そっちも」


 《空歩》で二度目の水柱へ入る。


 鯨が回り、尾が下から来た。


 千紘が引く索の方向で通路の位置が分かる。右へ首を向けなくても、背中へ返る張りだけは消えない。


 尾側内環へ着地し、鉈の柄を差し込んだ。


 さっきより軽い。


 一度押すと回った。


「今!」


 エイダと男が地球儀の二本目を外す。


 名札が棚へ戻り、鯨の声が五音になる。


 次は胸の外側だった。


 水柱へ留まったまま、索を短くして骨沿いを移る。レオンが触れた首側は飛ばし、千紘が自然聴覚で一番細く鳴る束を拾う。


 三本目。


 四本目。


 環を緩めるたび、エイダと男が地球儀側を外す。


 灯は地球儀から離れ、二本の救命索を身体へ巻いて俺とレオンを支えた。自分の能力は使わず、滑り始めた靴を棚の下へ押し込む。


 四つ目の名札群が戻った時、レオンの《記録固定》が切れた。


『未帰還者は存在しません』


 空の棚が声を取り戻す。


 男の胸が透けた。


 エイダが地球儀を離れ、肩へ手を伸ばす。


「ここにいる」


 さっきと同じ言葉だった。


 今度は記録へではなく、男へ言っている。


 見えなくなりかけた手が、彼女の手を地球儀へ押し戻した。


 五本目の線を指す。


「分かってる」


 エイダは戻った。


「あと三本。消えるなら、全部終わってからにしろ」


 男の顔はない。


 それでも肩が一度揺れた。


 五本目を外す。


 続く名札の中に、エイダ・モーガンと書かれた一枚があった。彼女は見たが、手を伸ばさない。


 札は港湾事務所の金属棚へ収まった。


 地球儀の退避先側へ、消えていた海岸線が細く光る。


 六本目。


 首側外環を緩めた時、鯨が水柱から身体を乗り出した。


 水は境目を越えない。


 白い頭骨と名札だけが外へ出る。


 顎が俺の胴を挟んだ。


 噛まれた感触はなかった。


 代わりに、身体の中から重さが抜ける。


 祖父の家。


 父の声。


 千紘と同じ台所に立つはずだった先。


 全部が薄くなる。


 索を握る手まで、離していいものに思えた。


「帰るよ!」


 千紘の声が背中から来る。


 名前は呼ばない。


「家の段ボール、まだ片づけてない。ガルの水皿も決めてない。帰ってからやるって言った」


 細かいことばかりだった。


 だから残った。


 何のために戦うかではなく、まだ終わっていない片づけがある。


 索を握り直す。


 鉈を頭骨の隙間へ入れ、顎を押し返した。


 HPが落ちる。


 肋骨へ背中を打ち、口の中に血の味が広がった。


 六本目の対応線を、エイダと男が外す。


 鯨の声は一音だけになった。


 残った最後の留め具は、胸骨の奥にある。


 名札を束ねていない。


 黒い地球儀から来た一本が、鯨の骨を貫いて現在側へ刺さっていた。


 固定失敗。


 送るための七本目ではない。


 退避を続けるため、こちらの世界へ無理に固定した線だった。


「それは外せない!」


 エイダが叫ぶ。


 地球儀側の金具が潰れ、男と二人でも動かない。


 物理的な留め具ではなかった。


 黒い線へ左手を伸ばす。


 指が触れる前に、欠けた右目の奥へ痛みが走った。


 高位構造。


 《断界》の灰色線は、一度では通らない。


 鯨の顎がまた開く。


 通路側からレオンが立ち上がった。


「三本目です」


 樹脂板を掲げる。


「第一艇には三本目がある。ここにも七本目がある。存在しないことにしても、記録は残る」


 能力は使っていない。


 自分が固定した三本の形を、手で描いた板を見せている。


 鯨の一音が揺れた。


 その隙に、見えない男が地球儀の線へ白い名札を押し当てる。


 青い光が黒線の内側へ入った。


 俺の指へ、切る一点が返る。


 《断界》を通した。


 黒線が切れる。


 七本目は地球儀へ戻らず、水柱の底へ落ちた。


 鯨の骨から力が抜ける。


 貼りついていた最後の名札が、空洞へ広がった。


 人の名。街の名。学校、病院、港、国。


 白かった文字が戻り、それぞれの引き出しへ収まっていく。


 見えない男の身体も戻った。


 濡れた防水服。白髪の混じった短い髪。左胸脇の包帯。三日ほど剃っていない顎。


 エイダより少し背が高い。


 男は自分の手を見たあと、彼女を見た。


「オーウェン・リード」


 声が掠れている。


「俺の名前だ」


 エイダはすぐに返事をしなかった。


 男の胸を一度殴り、傷の位置に気づいて途中で力を抜く。


「遅い」


「悪い」


「コーヒーに砂糖を入れる」


「それはやめろ」


 鯨の白い骨が水柱の底へ沈んだ。


 黒い魔石だけが残り、二つの地球儀の間へ浮かぶ。


――――――――――


灰海迷宮管理個体《記憶鯨》の停止を確認しました。


迷宮核の収容条件を満たしました。


攻略評価によりレベルが36から42へ上昇しました。


最大HPが2,920から3,280へ上昇しました。


最大MPが900から1,020へ上昇しました。


未配分能力値を240獲得しました。


スキルポイントを6獲得しました。


称号《世界杭攻略者》を取得しました。


現在HP・MPは回復しません。


――――――――――


 現在HPは二千六百六十。


 MPは六百十。


 左腕と背中は痛むが、足は通路へついたままだった。


 千紘の前にも表示が開いている。


――――――――――


攻略評価によりレベルが24から30へ上昇しました。


最大HPが1,980から2,340へ上昇しました。


最大MPが700から820へ上昇しました。


未配分能力値を240獲得しました。


スキルポイントを6獲得しました。


現在HP・MPは回復しません。


――――――――――


 迷宮核から三つの継承候補が開く。


 浮力支配。


 広域音波。


 記憶固定。


 迷わなかった。


 強い精神干渉を受けている間も、触れた一人が今持つ名前と目的を十分間だけ保つ。失った記憶を戻すことはできない。


 それでも、なくなる前に守れる。


――――――――――


《記憶固定》Lv.1を継承しました。


《継承》がLv.7へ上昇しました。


保有迷宮核:7


《海外転移門》が開放されました。


《記録室》が開放されました。


――――――――――


 二つの地球儀が回り始める。


 黒く欠けた方から、残った音声が流れた。


『接続元生存圏、維持不能』


『接続先生存圏を確認』


『退避容量を超過』


『生存情報を優先し、接続先への上書きを開始』


 迷宮は侵略のためだけに作られたのではない。


 壊れた世界から逃げるための道だった。


 ただ、全員を運べなかった。


 人も、街も、国も、生きていた記録ごとこちらへ押し込み、入らない分は元からあった世界の上へ重ねようとしている。


 それを救助と呼べるのかは分からない。


 水柱が崩れる。


 灰色の水は床へ落ちず、名札の消えた引き出しへ吸い込まれた。空洞の底から、屋上へ残した小艇へ続く青い階段が現れる。


 オーウェンは自分の足で立っていた。


 灯が胸脇を診ようとすると、先にレオンを指す。


「あいつ、浮いてるぞ」


「分かってる。あなたも患者」


「俺は歩ける」


「さっきまで見えなかった人が言わないで」


 エイダが小艇の索を肩へかけた。


「二人とも運ぶ。文句は上で聞く」


 六人で青い階段へ向かう。


 誰も名前を確認し直さなかった。


 オーウェンの歩幅がエイダより少し大きく、彼女がそれに合わせるたび、二人をつなぐ索の余りが床を擦っていた。

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