第八十一話 七本を外す順番
二つの地球儀は、どちらも回らなかった。
七本の金属線が張り、互いを引き止めている。海岸線の黒い地球儀から線が出て、見慣れた方へ入っていた。一本だけが途中でねじれ、水柱の鯨へ続く青い光と重なっている。
「こっちから、こっちへ送った」
千紘が黒い地球儀から指を動かす。
「人を?」
「分からない。音は、棚と同じ」
人の名前も、国も、病院も同じ引き出しへ入っていた。送ったのが人だけとは限らない。
レオンが地球儀の台座を覗き込む。
「文字があります」
固有名の部分は白く抜けていた。残っている単語を、彼は樹脂板へ書き写す。
退避元。接続先。生存圏。固定失敗。
「読むだけにして」
灯が言った。
「能力は使いません」
「文字を見てる時、足がまた浮いてる」
レオンの踵は通路から二センチほど離れていた。書き写すたびではない。鯨の身体にある名札が鳴るたび、少しずつ高くなる。
「固定は、あと何分」
俺が聞く。
「七分四十秒」
十分をきれいに使い切れる場所ではない。
見えない男の肩は戻っている。胸から下と顔はまだなく、白い名札を握った右手だけがはっきり見える。期限が来れば、どこから消え直すのかも分からない。
男が地球儀の七本を指し、次に鯨の骨へ手を向ける。
「同じもの?」
二回。
「向こうの留め具を外して、ここへ戻す?」
二回。
「全部一度に?」
一回。
エイダが地球儀の線へ触れた。
引っ張らず、張りを指先で確かめる。
「一本ずつだ。船でも、張った索をまとめて解いたら人が死ぬ」
「順番は」
「重い方から抜く」
「どれが重いか、ここから分かる?」
「あっちは船じゃない」
エイダは水柱の鯨を見上げた。
「だから、近くへ行って触る」
彼女は自分で言ってから足元の通路を見た。水柱まで十メートル以上あり、船も足場もない。
「私には行けない」
悔しさを隠すような言葉ではなかった。行けないものを行けると言わない。その代わり、七本の金属線を順に指で弾き、音と張りの違いを覚えている。
「俺が行く。触った感覚を言う」
「右の三本は見える?」
「首ごと向けば」
「見える、じゃないな」
「見落としたら言え」
千紘が鼻のガーゼを外す。血は止まっている。
「言う。技能は使わない」
灯は俺の左腕を取った。
防水服の袖を開き、濡れた包帯を外す。灰色の光の下では血までくすんで見えたが、布を剥がすと赤が戻った。
「左で索を持たないで」
「無理だろ」
「無理でも言う」
新しい圧迫材を当て、きつく巻く。
「十分は持たせる。それ以上は知らない」
「固定と同じだな」
「笑うところじゃない」
笑ったつもりはなかった。口の端が動いていたのかもしれない。
エイダの救命索を一本借り、俺の安全帯へ結ぶ。反対端は地球儀の台座ではなく、通路壁の太い支柱へ回した。
レオンが結び目を見ている。
「記録します」
「今は覚えて」
エイダが言った。
「戻ったら、同じ結び方を自分でやらせる」
「忘れた場合は」
「手が覚えるまでやる」
レオンはペンを置き、その手で索の余りをまとめた。
水柱へ近い通路の縁へ立った。
鯨の肋骨が下から上がってくる。
七つの留め具は骨の外へ散らばり、首の近くに二つ、胸に三つ、尾に二つある。
何千枚もの名札を太い束にし、金属の環で骨へ固定している。七本のうちどれを先に外すかで、束へ残る張りが変わる。
まず、一番近い胸の環へ行く。
《空歩》で水柱の外へ踏み出した。
一歩目に体重を移した瞬間、鯨が低く鳴る。
また何かが頭から抜けた。何を失ったのか確かめる前に、二歩目を肋骨へ置く。
白い骨は濡れていなかった。
表面へ触れた靴底が、紙の束を踏んだように沈む。
名札が一斉に裏返る。
父の名があった。
母の名も。
さっき千紘が呼んだガルの名まである。
顔を上げるなと身体が先に動いた。
見れば、つながる。名札鎖人形と同じなら、俺が思い出したものを目印にされる。
胸の環へ両手を置いた。
左腕に巻かれた布がすぐ赤くなる。
「張りは?」
エイダの声が通路から飛ぶ。
環を引くが、動かない。
「一番じゃない。ほとんど動かない」
「尾側を見て」
右にある。首を向けた時、鯨の骨が回った。
足場がずれ、身体が水柱へ引かれる。
反射で肋骨をつかみ、触れた自分を《係留》する。
三秒。空間層へ残った感覚だけを頼りに、足を骨から離した。
救命索が張り、通路側で三人が引いた。
鯨だけが水柱の上へ進み、俺の身体はその場へ短く残る。肋骨と名札の間から、尾へ続く二本の束が見えた。
「下の尾、外側!」
千紘が叫ぶ。
同じ一本が見えた。ほかより札が少なく、環の内側に隙間がある。
《係留》が切れる前に鉈の背を差し込んだ。
刃ではなく、柄を両手で押して環をねじる。
金属の留め具が半回転した。
「緩んだ!」
手を離すと、索に引かれて通路へ戻った。
着地ではなく右肩から壁へ当たる。痛みで一度息が途切れたが、右肩を打った分までHPが減った感覚はない。
「どの線」
エイダが地球儀を見る。
「黒い方の、下から二本目」
俺が答えるより先に、見えない男の腕が同じ線を指していた。
エイダは地球儀側の留め具を回す。最初は動かず、男が左から押し、彼女が右へ引いた。
二人の手が同じ金具へ重なり、一本目が外れた。
鯨の尾から名札の束がほどける。
予想していた落下は起きなかった。白い札は水柱の外へ飛び、螺旋通路の引き出しへ戻っていく。
一枚ずつではない。何百枚もの札がそれぞれ別の棚を選び、乾いた音を連ねて収まった。奪った記録を鯨から解放しているのか、別の棚へ戻して処理を続けているだけなのかは、まだ分からない。
男の身体が胸まで戻る。顔はまだない。それでも肺へ息を入れる動きが見えた。
鯨の低音が一段欠け、六つの音が重なった不揃いな声に変わる。
「これなら全部外せる」
千紘が言った。
エイダは首を横へ振る。
「今ので張りが変わった。次は同じ順番じゃない」
地球儀の残る六本へ指を順に置く。一本目を外したあとの張りは、さっきともう違っている。
「もう一度、触って確かめる」
俺の索を引こうとした時、レオンが前へ出た。
「次は私が行きます」
「浮いてる人が?」
灯が腰の索をつかむ。
「だからです。落下方向が水柱なら、私は彼より軽い」
「戻れない」
「索があります」
「一本切れたら終わる」
「それは彼も同じです」
レオンはエイダの結んだ索を自分の手で確かめた。
「今の結び方は覚えています」
鯨の六つの声が鳴る。
固定された三本目の記録が、残り五分を切った。




