第八十話 存在しない一人
『未帰還者は存在しません』
同じ声が繰り返される。開いた引き出しの奥には青い光だけがあり、紙も名札も入っていない。
「三人で入ったんだろ」
俺が聞くと、見えない男は二回叩いた。
「二人が戻った」
二回。
「あんたは、ここに残った」
一回。
違う。自分から残ったわけではない。
エイダが男の腕をつかんだ。
「引かれた?」
二回。
「艇から?」
二回。
「私たちは見てた?」
男は答えなかった。肘まで戻った腕が、エイダの指から少しずつ透けていく。青い引き出しが「存在しない」と繰り返すたび、皮膚の色が水へ溶けるように薄くなった。
白い名札を引き出しへつないでも、記録の方が男を拒んでいる。声を止めるだけで、この処理まで止まるのかは分からない。
「そこを閉じて」
灯が言った。
「声を止める」
エイダが蓋へ手をかける。
男は一回叩き、腕を差し込んだ。
「何かあるの?」
二回。
「でも、消えてる」
返事は二回だった。
見えない指が、空の引き出しの底をなぞる。爪が触れた場所だけ青い光が途切れ、細い溝が浮かんだ。
三本の溝は、入口側で二本がまとまり、途中から一本だけが水柱へ曲がっている。
第一艇の航路だった。二人が帰還した線は、同じ入口へ戻っている。
三人目だけが途中で切れたのではない。水柱の内側へ移され、その先で記録から消されていた。戻らなかった人間を記録から引いたから、帳尻の上では未帰還者がいなくなる。
「これを残します」
レオンが引き出しの前へ出る。
灯が彼の手首をつかんだ。
「何をする気」
「《記録固定》です」
「使わないって言った」
「上では」
「場所の話じゃない」
「分かっています」
レオンは手を振りほどかなかった。
「この記録は、読み上げるたびに彼を消しています。閉じても別の棚で同じ処理が続く。三本ある今の形を止めます」
「使ったら、今度は何を忘れるか分からない」
「使わなくても忘れています」
言い方は冷静だったが、樹脂板を持つ指が震えている。
「さっきの食事を二度失いました。三度書いても、また消えるでしょう。なら、残せる十分を別のものへ使います」
「あなた自身は替えが利かない」
「この人にも替えはありません」
灯は黙った。納得したわけではない。つかんだ手首を離す代わりに、レオンの救命索を自分の腰へもう一周巻いた。
「使ったあと、全部確認する」
「お願いします」
レオンが空の引き出しへ触れると、青い三本の溝が止まった。
繰り返していた声が途中で途切れる。
『未帰還者は、そん――』
それまで薄れていた男の腕が、肘を越えて肩まで戻った。
濡れた皮膚の上に傷がいくつもある。防水服だけは見えないため、腕が途中から宙へ生えているように見える。姿は戻っても、服や名を含む記録全部が同じ速さで戻るわけではなかった。
「固定できました。十分です」
レオンが言う。
「数値は」
「MP五百八十。想定どおりです」
灯が彼の目を見る。
「自分の名前」
「レオン・ハルトマン」
「年齢」
「三十四」
「私」
「二十四歳、救急救命士。《生命縫合》と《毒性分離》」
「ほかに」
レオンは答えようとして、口を閉じた。
「何を忘れた」
「分かりません」
「分からないで済ませない」
「では、質問してください」
灯は樹脂板を見た。
文字にあることを聞いても意味がない。灯は板から顔を上げた。
「私と最初に会った場所」
「スヴァールバルの観測基地です」
「違う」
レオンの顔が止まった。知らない出来事を否定する言葉さえ、すぐには出てこない。
「二年前。ベルリンの講習会。あなたが救助動線を勝手に直して、講師と喧嘩した」
「記録にありません」
「書いてないから聞いた」
灯は油性ペンを取った。
レオンの樹脂板へ、ベルリン、雨、壊れた自動ドアと書く。
「どうして自動ドアが壊れたかは、帰ってから教える」
「今ではなく?」
「今教えて、また取られたら腹が立つ」
レオンは止めなかった。
固定された引き出しの下で別の棚が開き、男の青い線がそこへ続いた。螺旋通路をさらに二周下りた位置にある。
水柱の鯨が頭を持ち上げた。白い肋骨の前で顎らしい骨が開き、貼りついていた名札が逆立って一斉にこちらを向いた。
低い声が来る。
「耳を塞いで!」
千紘が叫んだが、間に合わない。胸の内側へ音が入る。
祖父の家の玄関が浮かび、消えた。形は覚えているのに、帰った時に最初に何をするのかが出てこない。
靴を脱ぐ。その次だ。何かが待っている。黒い毛の、四本脚の。それなのに名前がない。
息を吸えなくなる。
「ガル」
千紘が言った。
鎖の人型がいない今は、呼んでも札は飛んでこない。
「家で待ってる。水皿をひっくり返して、慎吾が怒ってる」
映像が戻り、玄関の床へ爪を鳴らす音まで出てきた。
「ガル」
自分でも言う。
完全には消えていない。ただ、一度つまずいた。
「今の音、止められる」
千紘が水柱を見た。
耳を塞がなかったのは、聞くためだった。
「どこから出てる」
「口じゃない。名札全部。骨の周りで順番に鳴って、一つの声にしてる」
「技能は使うな」
俺が言っても、千紘は水柱から目を外さなかった。
「使わないと、次も一人ずつ抜かれる」
「耳当てもない」
「だから、短くする」
許可を待たず、破損したイヤホンの袋を俺へ押しつけて通路へ片膝をついた。
「一回だけ。聞こえたら止める」
水柱の表面へ指を鳴らす。小さな音から《音界地図》が広がる。
水柱の内側を、鯨の骨と何千枚もの名札が別々の輪郭になって返った。
千紘の肩が跳ねた。それでも耳を押さえない。
「七か所」
途切れた息を吐く。
「名札を束ねてる場所が七つある。喉じゃない。留め具みたいな音」
鯨が二度目の声を出す前に、千紘は技能を切った。
鼻の下へ血が一筋落ちる。
灯がすぐ顔を向けた。
「座って」
「もう座ってる」
「横になって」
「それは無理」
千紘は袖で血を拭かず、灯へ顔を向けた。俺が代わりに防水袋からガーゼを出したが、左手ではうまく開けない。
千紘が自分で袋を破り、鼻へ当てた。
「七つを外せば、声は止まる」
「鯨を殺すことになる?」
エイダが聞く。
「分からない。骨と名札をまとめてるだけかもしれない」
「外した名札は」
「たぶん、落ちる」
水柱の上へ消えていった何万枚もの札を思う。全部がこの空洞へ戻れば、通路ごと埋まる。
固定された引き出しから青い線が伸び、下の棚を開いた。
中には古い地球儀が二つ並んでいた。一つは見慣れた大陸の形をしている。もう一つは、海岸線が途中から黒く潰れていた。
二つの間を七本の金属線がつないでいる。線の下に残る文字は、固有名ではなかった。
世界退避記録。
鯨の七つの留め具と同じ数だった。




