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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第十六章 退避網

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第八十話 存在しない一人

『未帰還者は存在しません』


 同じ声が繰り返される。開いた引き出しの奥には青い光だけがあり、紙も名札も入っていない。


「三人で入ったんだろ」


 俺が聞くと、見えない男は二回叩いた。


「二人が戻った」


 二回。


「あんたは、ここに残った」


 一回。


 違う。自分から残ったわけではない。


 エイダが男の腕をつかんだ。


「引かれた?」


 二回。


「艇から?」


 二回。


「私たちは見てた?」


 男は答えなかった。肘まで戻った腕が、エイダの指から少しずつ透けていく。青い引き出しが「存在しない」と繰り返すたび、皮膚の色が水へ溶けるように薄くなった。


 白い名札を引き出しへつないでも、記録の方が男を拒んでいる。声を止めるだけで、この処理まで止まるのかは分からない。


「そこを閉じて」


 灯が言った。


「声を止める」


 エイダが蓋へ手をかける。


 男は一回叩き、腕を差し込んだ。


「何かあるの?」


 二回。


「でも、消えてる」


 返事は二回だった。


 見えない指が、空の引き出しの底をなぞる。爪が触れた場所だけ青い光が途切れ、細い溝が浮かんだ。


 三本の溝は、入口側で二本がまとまり、途中から一本だけが水柱へ曲がっている。


 第一艇の航路だった。二人が帰還した線は、同じ入口へ戻っている。


 三人目だけが途中で切れたのではない。水柱の内側へ移され、その先で記録から消されていた。戻らなかった人間を記録から引いたから、帳尻の上では未帰還者がいなくなる。


「これを残します」


 レオンが引き出しの前へ出る。


 灯が彼の手首をつかんだ。


「何をする気」


「《記録固定》です」


「使わないって言った」


「上では」


「場所の話じゃない」


「分かっています」


 レオンは手を振りほどかなかった。


「この記録は、読み上げるたびに彼を消しています。閉じても別の棚で同じ処理が続く。三本ある今の形を止めます」


「使ったら、今度は何を忘れるか分からない」


「使わなくても忘れています」


 言い方は冷静だったが、樹脂板を持つ指が震えている。


「さっきの食事を二度失いました。三度書いても、また消えるでしょう。なら、残せる十分を別のものへ使います」


「あなた自身は替えが利かない」


「この人にも替えはありません」


 灯は黙った。納得したわけではない。つかんだ手首を離す代わりに、レオンの救命索を自分の腰へもう一周巻いた。


「使ったあと、全部確認する」


「お願いします」


 レオンが空の引き出しへ触れると、青い三本の溝が止まった。


 繰り返していた声が途中で途切れる。


『未帰還者は、そん――』


 それまで薄れていた男の腕が、肘を越えて肩まで戻った。


 濡れた皮膚の上に傷がいくつもある。防水服だけは見えないため、腕が途中から宙へ生えているように見える。姿は戻っても、服や名を含む記録全部が同じ速さで戻るわけではなかった。


「固定できました。十分です」


 レオンが言う。


「数値は」


「MP五百八十。想定どおりです」


 灯が彼の目を見る。


「自分の名前」


「レオン・ハルトマン」


「年齢」


「三十四」


「私」


「二十四歳、救急救命士。《生命縫合》と《毒性分離》」


「ほかに」


 レオンは答えようとして、口を閉じた。


「何を忘れた」


「分かりません」


「分からないで済ませない」


「では、質問してください」


 灯は樹脂板を見た。


 文字にあることを聞いても意味がない。灯は板から顔を上げた。


「私と最初に会った場所」


「スヴァールバルの観測基地です」


「違う」


 レオンの顔が止まった。知らない出来事を否定する言葉さえ、すぐには出てこない。


「二年前。ベルリンの講習会。あなたが救助動線を勝手に直して、講師と喧嘩した」


「記録にありません」


「書いてないから聞いた」


 灯は油性ペンを取った。


 レオンの樹脂板へ、ベルリン、雨、壊れた自動ドアと書く。


「どうして自動ドアが壊れたかは、帰ってから教える」


「今ではなく?」


「今教えて、また取られたら腹が立つ」


 レオンは止めなかった。


 固定された引き出しの下で別の棚が開き、男の青い線がそこへ続いた。螺旋通路をさらに二周下りた位置にある。


 水柱の鯨が頭を持ち上げた。白い肋骨の前で顎らしい骨が開き、貼りついていた名札が逆立って一斉にこちらを向いた。


 低い声が来る。


「耳を塞いで!」


 千紘が叫んだが、間に合わない。胸の内側へ音が入る。


 祖父の家の玄関が浮かび、消えた。形は覚えているのに、帰った時に最初に何をするのかが出てこない。


 靴を脱ぐ。その次だ。何かが待っている。黒い毛の、四本脚の。それなのに名前がない。


 息を吸えなくなる。


「ガル」


 千紘が言った。


 鎖の人型がいない今は、呼んでも札は飛んでこない。


「家で待ってる。水皿をひっくり返して、慎吾が怒ってる」


 映像が戻り、玄関の床へ爪を鳴らす音まで出てきた。


「ガル」


 自分でも言う。


 完全には消えていない。ただ、一度つまずいた。


「今の音、止められる」


 千紘が水柱を見た。


 耳を塞がなかったのは、聞くためだった。


「どこから出てる」


「口じゃない。名札全部。骨の周りで順番に鳴って、一つの声にしてる」


「技能は使うな」


 俺が言っても、千紘は水柱から目を外さなかった。


「使わないと、次も一人ずつ抜かれる」


「耳当てもない」


「だから、短くする」


 許可を待たず、破損したイヤホンの袋を俺へ押しつけて通路へ片膝をついた。


「一回だけ。聞こえたら止める」


 水柱の表面へ指を鳴らす。小さな音から《音界地図》が広がる。


 水柱の内側を、鯨の骨と何千枚もの名札が別々の輪郭になって返った。


 千紘の肩が跳ねた。それでも耳を押さえない。


「七か所」


 途切れた息を吐く。


「名札を束ねてる場所が七つある。喉じゃない。留め具みたいな音」


 鯨が二度目の声を出す前に、千紘は技能を切った。


 鼻の下へ血が一筋落ちる。


 灯がすぐ顔を向けた。


「座って」


「もう座ってる」


「横になって」


「それは無理」


 千紘は袖で血を拭かず、灯へ顔を向けた。俺が代わりに防水袋からガーゼを出したが、左手ではうまく開けない。


 千紘が自分で袋を破り、鼻へ当てた。


「七つを外せば、声は止まる」


「鯨を殺すことになる?」


 エイダが聞く。


「分からない。骨と名札をまとめてるだけかもしれない」


「外した名札は」


「たぶん、落ちる」


 水柱の上へ消えていった何万枚もの札を思う。全部がこの空洞へ戻れば、通路ごと埋まる。


 固定された引き出しから青い線が伸び、下の棚を開いた。


 中には古い地球儀が二つ並んでいた。一つは見慣れた大陸の形をしている。もう一つは、海岸線が途中から黒く潰れていた。


 二つの間を七本の金属線がつないでいる。線の下に残る文字は、固有名ではなかった。


 世界退避記録。


 鯨の七つの留め具と同じ数だった。

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