第七十九話 空白の記録棚
低い声が止むと、名札の雨が降った。
上へ。
引き出しから抜けた白い札が螺旋通路を横切り、中央の水柱へ触れて頭上へ消えていく。エレベーターの扉にも何枚か当たった。
硬い音はするのに、床へ落ちる札はない。
「出るなら今」
エイダが言った。
鯨の骨はまだ下にある。白い肋骨が水柱の中を一周するたび、少しずつ近づいていた。
「この籠、次にどこへ動くか分からない」
俺は扉の外へ左足を出す。
通路は濡れていない。幅は二人が並べるほどあるが、外側に柵はなかった。右へ寄れば引き出しの壁、左には底の見えない空洞と水柱がある。
右目がないせいで、そちらだけが広く欠ける。首を向けるたび足元が遅れた。
「私が左に行く」
千紘が先に通路へ出る。
「耳は」
「聞こえてる。さっきよりまし」
名前を呼ばずに話すのは、思ったほど難しくなかった。誰へ向けた言葉かは、顔と距離で分かる。それでも互いを確かめたい時だけ、口の中に名前が残る。
今は飲み込んだ。
灯とエイダがレオンの救命索を持ち、籠から出す。
彼の身体は立っているだけで軽く浮いた。靴を床へ下ろしても、歩くたび踵が遅れてついてくる。
「引っ張らないでください」
「じゃあ自分で歩いて」
「歩いています」
「浮いてる」
灯が短く返し、索を緩めた。
見えない男は最後に出た。
右手だけが白い名札を持っている。その手が壁へ近づくと、裏の青線が螺旋の下へ向いて曲がった。
「下まで?」
エイダが聞く。
二回。
「歩ける?」
二回。
「傷は」
一回。
「痛い方か」
二回。
「だったら最初からそう言え」
質問が悪いと男は言えない。
灯が見えない胸脇へ手を伸ばす。
包帯はまだ留まっていたが、さっきより湿っている。右手が戻っても、傷や失血まで戻るわけではない。
「下りる前に巻き直す」
男が一回叩く。
「これは聞かない。座って」
二回目はなかった。
灯は壁際へ座らせ、見えない傷を指先で探る。新しい圧迫材を重ねると、その半分がまた目から消えた。
エイダは手伝おうとして、一度しゃがみ、立った。
何を押さえればいいか分からない。
右手だけになった男の前では、肩を貸すことも難しかった。
「ここ」
灯が見えない背中へエイダの手を置く。
「押さえるんじゃなく、動かないように」
「分かった」
エイダの掌が宙で止まる。
男の右手が、その手の甲へ重なった。
白い札は離さない。
治療の間、レオンは壁の引き出しを見ていた。
一段ごとに形が違う。病院で使う紙製の診察券入れ。学校の木製棚。港湾事務所の金属箱。石板を差し込むだけの溝もある。
「年代順ではありません」
「場所でもない」
千紘が言う。
「同じ音の棚が、離れたところにある」
「材質ですか」
「中身。空のところは響かない。入ってるところだけ、声みたいなのが残ってる」
レオンは端末へ手を伸ばしかけた。
《観測》を使わなくても、癖だけは残っている。
途中で気づき、樹脂板と油性ペンを出した。使わないと決めただけで、能力へ伸びる動きまで消えるわけではない。
「どの棚です」
千紘が指を差す。
レオンは番号の代わりに、通路の継ぎ目と水柱の白い傷を目印に書いた。
技能が使えなくても、記録をやめる気はないらしい。
処置が終わる。
俺たちは一本の救命索でつながった。
先頭は見えない男とエイダ。その後ろに千紘、俺、灯、レオンが続く。男の身体へ索を結ぶことはできた。
結び目は見えなくなったが、引けば重さが返る。エイダは結んだ位置を三度確かめ、余った端をいつもより長く残した。
螺旋通路を下りる。
水柱の中で、白い骨が回っている。
鯨がこちら側へ来るたび、水越しに名札が読めるようになった。顔も知らない人の名が何十枚と重なり、皮膚の代わりに骨へ貼りついている。
低い声が鳴る。
一枚の名札が引き出しから抜け、鯨へ飛んだ。続いてもう一枚。
「呼んでるんじゃない」
千紘が足を止める。
「返事を待ってない。確かめてる」
「何を」
「残ってるかどうか」
鯨の声は、同じ長さではなかった。
短い音のあとに一枚。長く揺れる音のあとには、壁の別々の場所から五枚が抜ける。名前を読んで、まだ棚にあれば回収している。
では、棚から名札を持ち出した男は何になる。
鯨が水柱の内側で向きを変え、白い札を握る右手へ頭を向けた。
「急ぐ」
エイダが男の身体を引く。
その瞬間、通路が傾いた。
レオンの足が浮く。
灯が索を巻き取るより先に、彼の身体が水柱へ滑った。
腰の一本はエイダへつながっている。ただ、全員を結ぶ索が外側へ引かれ、千紘の身体まで左へずれた。一本でつないだことが、今は全員を巻き込む。
右側だった。見えない水柱の縁へ首を向ける。
レオンの手が通路から離れていた。
俺は索を踏み、左手でつかむ。
前腕の傷が開き、防水服の内側へ熱が走った。
「壁へ!」
誰への指示かは言わなかった。
エイダは見えない男を壁へ押し、千紘は引き出しの取っ手をつかむ。灯がレオンの二本目の索を自分の安全帯へ回した。
通路の傾きが増す。
水柱へ落ちるのではない。俺たちの身体が軽い方へ向かっている。
鯨の声を聞くたび、何かを失っている。
「確認しろ!」
今度は全員に言った。
名前ではない。今朝食べたもの。船で交わした言葉。ここへ来ると決めた理由。
樹脂板にないことを、一人ずつ口にする。
「豆のスープ」
レオンが言った。
さっき灯から聞き、書いたばかりの記憶だ。
「味は」
灯が索を引きながら聞く。
答えが出ない。また消えている。
水柱から白い尾が浮かび上がった。
鯨は声を出すたび、俺たちから抜けたものを名札にして身体へ貼りつけている。
見えない男が壁を三回叩いた。
右手の名札を、一番近い引き出しへ押し当てる。
青い線が壁の中を走った。
通路の傾きが戻り、代わりに三十メートルほど下の引き出しが一つ開いた。
中で青い光が点く。
男の手首から、腕が肘まで戻った。
防水服は見えないまま、濡れた皮膚だけが空中へ現れている。
その腕は下の棚を指していた。
「あそこに何がある」
エイダが聞く。
男は壁を二回叩く。
それから、自分の胸を一回叩いた。
下の引き出しから、声がした。
『第一艇、三名。帰還記録、二名』
男の腕が震える。
『未帰還者は存在しません』
エイダが索を握り直した。
「いる」
記録へ言い返す。
「ここにいる。私が触ってる」
水柱の鯨が、もう一度口を開いた。




