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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第十六章 退避網

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第七十九話 空白の記録棚

 低い声が止むと、名札の雨が降った。


 上へ。


 引き出しから抜けた白い札が螺旋通路を横切り、中央の水柱へ触れて頭上へ消えていく。エレベーターの扉にも何枚か当たった。


 硬い音はするのに、床へ落ちる札はない。


「出るなら今」


 エイダが言った。


 鯨の骨はまだ下にある。白い肋骨が水柱の中を一周するたび、少しずつ近づいていた。


「この籠、次にどこへ動くか分からない」


 俺は扉の外へ左足を出す。


 通路は濡れていない。幅は二人が並べるほどあるが、外側に柵はなかった。右へ寄れば引き出しの壁、左には底の見えない空洞と水柱がある。


 右目がないせいで、そちらだけが広く欠ける。首を向けるたび足元が遅れた。


「私が左に行く」


 千紘が先に通路へ出る。


「耳は」


「聞こえてる。さっきよりまし」


 名前を呼ばずに話すのは、思ったほど難しくなかった。誰へ向けた言葉かは、顔と距離で分かる。それでも互いを確かめたい時だけ、口の中に名前が残る。


 今は飲み込んだ。


 灯とエイダがレオンの救命索を持ち、籠から出す。


 彼の身体は立っているだけで軽く浮いた。靴を床へ下ろしても、歩くたび踵が遅れてついてくる。


「引っ張らないでください」


「じゃあ自分で歩いて」


「歩いています」


「浮いてる」


 灯が短く返し、索を緩めた。


 見えない男は最後に出た。


 右手だけが白い名札を持っている。その手が壁へ近づくと、裏の青線が螺旋の下へ向いて曲がった。


「下まで?」


 エイダが聞く。


 二回。


「歩ける?」


 二回。


「傷は」


 一回。


「痛い方か」


 二回。


「だったら最初からそう言え」


 質問が悪いと男は言えない。


 灯が見えない胸脇へ手を伸ばす。


 包帯はまだ留まっていたが、さっきより湿っている。右手が戻っても、傷や失血まで戻るわけではない。


「下りる前に巻き直す」


 男が一回叩く。


「これは聞かない。座って」


 二回目はなかった。


 灯は壁際へ座らせ、見えない傷を指先で探る。新しい圧迫材を重ねると、その半分がまた目から消えた。


 エイダは手伝おうとして、一度しゃがみ、立った。


 何を押さえればいいか分からない。


 右手だけになった男の前では、肩を貸すことも難しかった。


「ここ」


 灯が見えない背中へエイダの手を置く。


「押さえるんじゃなく、動かないように」


「分かった」


 エイダの掌が宙で止まる。


 男の右手が、その手の甲へ重なった。


 白い札は離さない。


 治療の間、レオンは壁の引き出しを見ていた。


 一段ごとに形が違う。病院で使う紙製の診察券入れ。学校の木製棚。港湾事務所の金属箱。石板を差し込むだけの溝もある。


「年代順ではありません」


「場所でもない」


 千紘が言う。


「同じ音の棚が、離れたところにある」


「材質ですか」


「中身。空のところは響かない。入ってるところだけ、声みたいなのが残ってる」


 レオンは端末へ手を伸ばしかけた。


 《観測》を使わなくても、癖だけは残っている。


 途中で気づき、樹脂板と油性ペンを出した。使わないと決めただけで、能力へ伸びる動きまで消えるわけではない。


「どの棚です」


 千紘が指を差す。


 レオンは番号の代わりに、通路の継ぎ目と水柱の白い傷を目印に書いた。


 技能が使えなくても、記録をやめる気はないらしい。


 処置が終わる。


 俺たちは一本の救命索でつながった。


 先頭は見えない男とエイダ。その後ろに千紘、俺、灯、レオンが続く。男の身体へ索を結ぶことはできた。


 結び目は見えなくなったが、引けば重さが返る。エイダは結んだ位置を三度確かめ、余った端をいつもより長く残した。


 螺旋通路を下りる。


 水柱の中で、白い骨が回っている。


 鯨がこちら側へ来るたび、水越しに名札が読めるようになった。顔も知らない人の名が何十枚と重なり、皮膚の代わりに骨へ貼りついている。


 低い声が鳴る。


 一枚の名札が引き出しから抜け、鯨へ飛んだ。続いてもう一枚。


「呼んでるんじゃない」


 千紘が足を止める。


「返事を待ってない。確かめてる」


「何を」


「残ってるかどうか」


 鯨の声は、同じ長さではなかった。


 短い音のあとに一枚。長く揺れる音のあとには、壁の別々の場所から五枚が抜ける。名前を読んで、まだ棚にあれば回収している。


 では、棚から名札を持ち出した男は何になる。


 鯨が水柱の内側で向きを変え、白い札を握る右手へ頭を向けた。


「急ぐ」


 エイダが男の身体を引く。


 その瞬間、通路が傾いた。


 レオンの足が浮く。


 灯が索を巻き取るより先に、彼の身体が水柱へ滑った。


 腰の一本はエイダへつながっている。ただ、全員を結ぶ索が外側へ引かれ、千紘の身体まで左へずれた。一本でつないだことが、今は全員を巻き込む。


 右側だった。見えない水柱の縁へ首を向ける。


 レオンの手が通路から離れていた。


 俺は索を踏み、左手でつかむ。


 前腕の傷が開き、防水服の内側へ熱が走った。


「壁へ!」


 誰への指示かは言わなかった。


 エイダは見えない男を壁へ押し、千紘は引き出しの取っ手をつかむ。灯がレオンの二本目の索を自分の安全帯へ回した。


 通路の傾きが増す。


 水柱へ落ちるのではない。俺たちの身体が軽い方へ向かっている。


 鯨の声を聞くたび、何かを失っている。


「確認しろ!」


 今度は全員に言った。


 名前ではない。今朝食べたもの。船で交わした言葉。ここへ来ると決めた理由。


 樹脂板にないことを、一人ずつ口にする。


「豆のスープ」


 レオンが言った。


 さっき灯から聞き、書いたばかりの記憶だ。


「味は」


 灯が索を引きながら聞く。


 答えが出ない。また消えている。


 水柱から白い尾が浮かび上がった。


 鯨は声を出すたび、俺たちから抜けたものを名札にして身体へ貼りつけている。


 見えない男が壁を三回叩いた。


 右手の名札を、一番近い引き出しへ押し当てる。


 青い線が壁の中を走った。


 通路の傾きが戻り、代わりに三十メートルほど下の引き出しが一つ開いた。


 中で青い光が点く。


 男の手首から、腕が肘まで戻った。


 防水服は見えないまま、濡れた皮膚だけが空中へ現れている。


 その腕は下の棚を指していた。


「あそこに何がある」


 エイダが聞く。


 男は壁を二回叩く。


 それから、自分の胸を一回叩いた。


 下の引き出しから、声がした。


『第一艇、三名。帰還記録、二名』


 男の腕が震える。


『未帰還者は存在しません』


 エイダが索を握り直した。


「いる」


 記録へ言い返す。


「ここにいる。私が触ってる」


 水柱の鯨が、もう一度口を開いた。

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