第七十八話 青い線の下
男の右手は、名札を離すと消えた。
握り直せば戻る。
手首から先だけが宙に浮かび、白い札をつかんでいる。その指には古い傷が二本あり、小指の爪が途中から潰れていた。
エイダが自分の小指を見る。
「ロープを巻き込んだ時の傷」
男の手が一度閉じる。
「一緒にいた?」
二回。
「私がやった?」
一回。
「じゃあ、止められなかった」
返事はすぐに来なかった。
名札を持つ指が開き、エイダの手首を軽く叩く。
二回。
「何が二回なんだよ」
エイダは怒ったように言ったが、その手を振り払わなかった。
エレベーターは止まったまま動かない。
操作盤の六つの窪みは、全員が乗った時より浅く戻っている。白い名札の裏から出た青線だけが床を通り抜け、下へ垂れていた。
「入口の方向は、もう分からない?」
灯が聞く。
「消えた」
「かけ直せないの」
「印を置いた場所を感じ取れない。今いる場所から入口へは無理だ」
同じ迷宮でも、経路が完全に切れれば《道標共有》は通らない。
屋上まで戻れば、もう一度届く可能性はある。ただ、この籠をそこへ動かす方法がない。
レオンが樹脂板を裏返した。
「現在地からの帰還手段は二つです。先ほどの階へ戻って別経路を探すか、この青線が示す先へ進む」
「三つ」
エイダが言った。
「ここを壊す」
壁を拳で叩く。
金属らしい響きはしなかった。乾いた板の奥に、深い水が詰まっている音がする。
「壊したら泳ぐことになります」
「分かってる。選ばないのと、選べないのは違う」
エイダは腰の工具入れから小さなハンマーを出し、扉の隙間へ差し込んだ。
開く幅は指一本にもならない。それでも柄を残し、完全には閉じないようにする。
逃げ道にはならない。
けれど、何もせず箱の中へ閉じ込められるのが嫌なのだと思った。
灯は千紘の耳下を見ていた。
「こっち向いて」
「今?」
「血が乾く前」
首元に残っていたイヤホンを外し、耳の下を洗う。千紘は名札の人型が追ってこないか扉へ顔を向けたまま、消毒の痛みに片目だけ細めた。
「浅い。貼るほどじゃない」
「イヤホンは?」
「直せるかも」
「片方だけでも使う?」
千紘は少し迷い、残った側も外した。
「今は、ない方がいい。聞こえすぎても困るけど、聞こえないより怖い」
コードを丸め、防水袋へ入れる。
その横で、レオンが新しい一文を書いていた。
雨宮灯。昨日の夕食で辛い豆を残し、私が食べた。本人の証言。自分では思い出せない。
「それ、書くんだ」
灯が手元を覗く。
「忘れた事実を隠さない約束です」
「もっと短くていい」
「後であなたが話を変えるかもしれません」
「変えない」
「辛さは主観です」
灯は何か言い返しかけて、やめた。
「じゃあ、帰ったら同じの出す」
「検証ですか」
「嫌がらせ」
レオンは、その言葉も書こうとして手を止めた。
口元だけが少し緩む。
覚えていない出来事でも、今ここで増えたものまで最初から空白になるわけではない。
それがどれくらい残るのかは分からなかった。
見えない男の手が操作盤へ伸びる。
白い名札を一番左の窪みへ重ねた。
形は合っていない。それでも札は沈み、青い線が六つの窪みを順につないでいく。
「動かすの?」
千紘が聞く。
二回。
「下に行ったことがある?」
二回。
「戻れる?」
手が止まった。
一回。
エイダが息を吐く。
「正直で結構」
彼女は男の手から名札を取り上げなかった。
「そこに、あんたの残りがある?」
二回。
「なら行く。帰り方はそのあと探す」
「船長判断?」
灯が聞いた。
「違う。私が行きたい」
誰もすぐには賛成しなかった。
籠の外には名札の人型がいる。上へ戻る操作は分からず、入口を示す感覚も切れた。見えない男の記憶を拾うことが、俺たちの帰路につながる保証はない。
それでも、ここへ置いていくという選択だけはなかった。
「下で足場がなければ、籠から出ない」
俺が言う。
「水が入ったら?」
「扉を閉める」
「そのハンマー、抜かないと閉まらないよ」
灯に言われ、エイダが扉の隙間を見る。
「その時は抜く」
白い名札を押し込む。
籠が下がった。
上がった時より速い。
胃が一拍遅れ、足裏が床から離れかける。レオンは浮力のせいで天井へ寄り、残した一本の救命索を灯とエイダが同時につかんだ。
「重りが要ります」
「私を使え」
エイダが自分の腰へ索を回す。
「落下した場合、二人とも――」
「その時に考える」
「今考えるべきです」
言い合っていても手は止まらない。
灯が余った索を俺の安全帯へ通す。千紘は見えない男の足音を確かめ、籠の隅を指した。
「そこ。壁をつかんでる」
右手は見える。
左手も、身体も見えない。白い名札を右手で握ったまま、どこかへ力を入れているらしい。扉横の手すりがわずかに沈んでいた。
階数表示の名前札が、今度は上へ流れていく。
白い札ばかりだった。
途中に、文字の残るものが混じる。
知らない人名。
国名。
病院、学校、港、避難所。
人につける名前と、場所につける名前が同じ列を流れていく。
どれも最後まで読めない。目で追うほど文字の一部が薄れ、読めなかったことだけが残った。
「見ない方がいい」
千紘が表示から目を逸らす。
「音は?」
「下に水がある。広い」
「海?」
「海より、容器みたいな反響」
籠が減速する。
エイダが扉のハンマーを抜き、腰へ戻した。
止まる直前、腹の底を揺らす低い音が来た。
声にも聞こえた。
遠雷より長く、船の下を通る大型魚より深い。耳からではなく、胸骨の内側へ直接入ってくる。
千紘が膝をついた。
「大丈夫か」
名前を呼びかけて止める。
彼女は俺の手を取った。
「聞こえた。たぶん、向こうも」
「何が」
「私たちを」
エレベーターの扉が開く。
外は円筒形の空洞だった。
底は見えない。
中央を灰色の水が柱になって立ち、その周囲を細い通路が螺旋状に下っている。壁には引き出しが並び、開いた隙間から白い名札がゆっくり浮き出していた。
何万枚もの札が水柱へ吸われていく。
表面へ触れると沈むのではなく、上へ落ちた。
「あれ」
灯が水柱の下を指す。
暗い水の中に、白い線が並んでいる。
肋骨だった。
建物より大きな何かが身体を曲げ、水柱の内側をゆっくり昇ってくる。
男の右手から、白い名札が引かれた。
指が開きかける。
エイダがその上から握った。
「これは返さない」
水の中の骨が、こちらへ頭を向けた。
低い声がもう一度、空洞全体を満たす。
今度は音の中に、誰かの名を呼ぶ形があった。
聞き取れなかったのに、見えない男だけが肩を震わせた。




