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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第十五章 灰海迷宮

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第七十八話 青い線の下

 男の右手は、名札を離すと消えた。


 握り直せば戻る。


 手首から先だけが宙に浮かび、白い札をつかんでいる。その指には古い傷が二本あり、小指の爪が途中から潰れていた。


 エイダが自分の小指を見る。


「ロープを巻き込んだ時の傷」


 男の手が一度閉じる。


「一緒にいた?」


 二回。


「私がやった?」


 一回。


「じゃあ、止められなかった」


 返事はすぐに来なかった。


 名札を持つ指が開き、エイダの手首を軽く叩く。


 二回。


「何が二回なんだよ」


 エイダは怒ったように言ったが、その手を振り払わなかった。


 エレベーターは止まったまま動かない。


 操作盤の六つの窪みは、全員が乗った時より浅く戻っている。白い名札の裏から出た青線だけが床を通り抜け、下へ垂れていた。


「入口の方向は、もう分からない?」


 灯が聞く。


「消えた」


「かけ直せないの」


「印を置いた場所を感じ取れない。今いる場所から入口へは無理だ」


 同じ迷宮でも、経路が完全に切れれば《道標共有》は通らない。


 屋上まで戻れば、もう一度届く可能性はある。ただ、この籠をそこへ動かす方法がない。


 レオンが樹脂板を裏返した。


「現在地からの帰還手段は二つです。先ほどの階へ戻って別経路を探すか、この青線が示す先へ進む」


「三つ」


 エイダが言った。


「ここを壊す」


 壁を拳で叩く。


 金属らしい響きはしなかった。乾いた板の奥に、深い水が詰まっている音がする。


「壊したら泳ぐことになります」


「分かってる。選ばないのと、選べないのは違う」


 エイダは腰の工具入れから小さなハンマーを出し、扉の隙間へ差し込んだ。


 開く幅は指一本にもならない。それでも柄を残し、完全には閉じないようにする。


 逃げ道にはならない。


 けれど、何もせず箱の中へ閉じ込められるのが嫌なのだと思った。


 灯は千紘の耳下を見ていた。


「こっち向いて」


「今?」


「血が乾く前」


 首元に残っていたイヤホンを外し、耳の下を洗う。千紘は名札の人型が追ってこないか扉へ顔を向けたまま、消毒の痛みに片目だけ細めた。


「浅い。貼るほどじゃない」


「イヤホンは?」


「直せるかも」


「片方だけでも使う?」


 千紘は少し迷い、残った側も外した。


「今は、ない方がいい。聞こえすぎても困るけど、聞こえないより怖い」


 コードを丸め、防水袋へ入れる。


 その横で、レオンが新しい一文を書いていた。


 雨宮灯。昨日の夕食で辛い豆を残し、私が食べた。本人の証言。自分では思い出せない。


「それ、書くんだ」


 灯が手元を覗く。


「忘れた事実を隠さない約束です」


「もっと短くていい」


「後であなたが話を変えるかもしれません」


「変えない」


「辛さは主観です」


 灯は何か言い返しかけて、やめた。


「じゃあ、帰ったら同じの出す」


「検証ですか」


「嫌がらせ」


 レオンは、その言葉も書こうとして手を止めた。


 口元だけが少し緩む。


 覚えていない出来事でも、今ここで増えたものまで最初から空白になるわけではない。


 それがどれくらい残るのかは分からなかった。


 見えない男の手が操作盤へ伸びる。


 白い名札を一番左の窪みへ重ねた。


 形は合っていない。それでも札は沈み、青い線が六つの窪みを順につないでいく。


「動かすの?」


 千紘が聞く。


 二回。


「下に行ったことがある?」


 二回。


「戻れる?」


 手が止まった。


 一回。


 エイダが息を吐く。


「正直で結構」


 彼女は男の手から名札を取り上げなかった。


「そこに、あんたの残りがある?」


 二回。


「なら行く。帰り方はそのあと探す」


「船長判断?」


 灯が聞いた。


「違う。私が行きたい」


 誰もすぐには賛成しなかった。


 籠の外には名札の人型がいる。上へ戻る操作は分からず、入口を示す感覚も切れた。見えない男の記憶を拾うことが、俺たちの帰路につながる保証はない。


 それでも、ここへ置いていくという選択だけはなかった。


「下で足場がなければ、籠から出ない」


 俺が言う。


「水が入ったら?」


「扉を閉める」


「そのハンマー、抜かないと閉まらないよ」


 灯に言われ、エイダが扉の隙間を見る。


「その時は抜く」


 白い名札を押し込む。


 籠が下がった。


 上がった時より速い。


 胃が一拍遅れ、足裏が床から離れかける。レオンは浮力のせいで天井へ寄り、残した一本の救命索を灯とエイダが同時につかんだ。


「重りが要ります」


「私を使え」


 エイダが自分の腰へ索を回す。


「落下した場合、二人とも――」


「その時に考える」


「今考えるべきです」


 言い合っていても手は止まらない。


 灯が余った索を俺の安全帯へ通す。千紘は見えない男の足音を確かめ、籠の隅を指した。


「そこ。壁をつかんでる」


 右手は見える。


 左手も、身体も見えない。白い名札を右手で握ったまま、どこかへ力を入れているらしい。扉横の手すりがわずかに沈んでいた。


 階数表示の名前札が、今度は上へ流れていく。


 白い札ばかりだった。


 途中に、文字の残るものが混じる。


 知らない人名。


 国名。


 病院、学校、港、避難所。


 人につける名前と、場所につける名前が同じ列を流れていく。


 どれも最後まで読めない。目で追うほど文字の一部が薄れ、読めなかったことだけが残った。


「見ない方がいい」


 千紘が表示から目を逸らす。


「音は?」


「下に水がある。広い」


「海?」


「海より、容器みたいな反響」


 籠が減速する。


 エイダが扉のハンマーを抜き、腰へ戻した。


 止まる直前、腹の底を揺らす低い音が来た。


 声にも聞こえた。


 遠雷より長く、船の下を通る大型魚より深い。耳からではなく、胸骨の内側へ直接入ってくる。


 千紘が膝をついた。


「大丈夫か」


 名前を呼びかけて止める。


 彼女は俺の手を取った。


「聞こえた。たぶん、向こうも」


「何が」


「私たちを」


 エレベーターの扉が開く。


 外は円筒形の空洞だった。


 底は見えない。


 中央を灰色の水が柱になって立ち、その周囲を細い通路が螺旋状に下っている。壁には引き出しが並び、開いた隙間から白い名札がゆっくり浮き出していた。


 何万枚もの札が水柱へ吸われていく。


 表面へ触れると沈むのではなく、上へ落ちた。


「あれ」


 灯が水柱の下を指す。


 暗い水の中に、白い線が並んでいる。


 肋骨だった。


 建物より大きな何かが身体を曲げ、水柱の内側をゆっくり昇ってくる。


 男の右手から、白い名札が引かれた。


 指が開きかける。


 エイダがその上から握った。


「これは返さない」


 水の中の骨が、こちらへ頭を向けた。


 低い声がもう一度、空洞全体を満たす。


 今度は音の中に、誰かの名を呼ぶ形があった。


 聞き取れなかったのに、見えない男だけが肩を震わせた。

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