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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第十五章 灰海迷宮

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第七十七話 呼ばない名前

 エイダ・モーガン。


 鎖の指から下がる名札に、その文字だけが戻っている。


 人型は一歩も動かず、腕を差し出したまま、エイダが受け取るのを待っている。


「触らないで」


 灯が言うより先に、エイダは首を横へ振った。


「分かってる」


 そう言いながら、見えない男を背中へ隠している。


 名札が揺れ、錆びた鎖の中からかすかな声がした。


『エイダ・モーガン』


 エイダ自身の声だった。


 第一有人艇の記録より若い。落ち着いた船長の声でもない。


『本日から実習に参加します』


 名札を結ぶ鎖が一本ずつ伸びる。壁から剥がれた白い札が床へ落ち、音を立てずに滑った。エイダの足元を囲い、靴へ細い鎖を巻きつける。


「下がれ」


 彼女は動かなかった。


 背中へ手を回し、見えない男の胸を押す。


「あんたが下がれ」


 返事は一回だった。


「言うこと聞け」


 また一回。


 声だけなら、少し笑っているようにも聞こえた。


 見えない男がエイダの横へ出て、濡れた足跡が並んだ。


 人型の手にある名札へ向かって、何もない腕が伸びる。治療した胸脇から血が滲み、包帯の端だけが一瞬見えた。


「触るな!」


 エイダが腕を振る。


 男の手は名札へ届かなかった。


 代わりに鎖が跳ねた。


 右から来た一本を見落とす。


 千紘に防水服を引かれ、首の前を細い金属が通り過ぎた。


「壁も動いてる」


 名札の広間全体から鎖が外れていく。


 人型が一体いるんじゃない。


 床から天井までつながった鎖の一部が、人の形に盛り上がっている。


「扉を閉めます」


 レオンがエレベーターの間へ残っていた腕を引いた。


 開閉ボタンはない。扉の縁を両手でつかみ、体重をかける。


 身体が軽くなっているせいで、足が床から離れた。


 灯が腰の索を踏む。


「閉めなくていい。逃げる時に使う」


「背後からも来ています」


 籠の天井を鎖が擦った。


 さっき扉の外まで来ていた足音だ。


 白い名札が隙間へ差し込まれる。何も書かれていない札の先に、細い指の骨がついていた。


 レオンは手を離さなかった。


「なら、半分だけ閉じます」


「どうやって」


「これを使います」


 腰の二本目の索を外す。


 自分を留めていた索だった。


 一本を灯へ残し、もう一本を扉の取っ手と籠内の手すりへ回す。結び終えるまでに足がさらに浮いたが、灯へ支えを求めなかった。


 扉が人一人分を残して止まる。


 骨の指が挟まり、折れた。


 床へ落ちた指から、札だけが滑ってくる。


 文字が浮かんだ。


 雨宮灯。


 灯が踏みつける。


「拾わない」


 レオンが名札を見た。


「私には読めません」


「読まなくていい」


「あなたの名前ですか」


「違う。今は足元のゴミ」


 灯は索を握ったまま、靴底をずらさなかった。


 広間側では、エイダの足へ巻きついた鎖が膝まで上がっている。切断用の鉈を抜く。


 普通の鎖なら、刃の方が負ける太さだった。


 それでも名札同士をつなぐ輪は細い。


 一つへ刃を入れると、金属音が広間へ走り、鎖の人型がこちらを向いた。


 顔に当たる部分から何十枚もの札が開く。


 書かれていたのは、俺の名前ではなかった。


 大学の名前。


 父と母の名前。


 祖父の名前。


 神崎、村瀬、ガル。


 千紘の札だけがない。


 ないことに気づいた瞬間、喉が狭くなった。忘れたのではないかと疑っただけで、頭の中にある彼女の顔まで一度遠ざかる。


「見なくていい」


 隣から千紘の手が伸び、札の顔を防水布で覆った。


「私の名前は?」


「三枝千紘」


「そっちは」


「大月在真」


「なら、切って」


 鉈を振り下ろす。一つ目の輪が潰れた。


 エイダの足を巻く鎖は緩まない。壁から別の一本が伸び、切れた場所をつなぎ直した。


 物を壊しても終わらない。


 鎖の内側を黒い筋が走っている。人型からエイダの名札へ続き、さらに彼女の胸元へ伸びていた。


 迷宮が作った境界なら切れる。鉈を捨てて黒い筋へ左手を伸ばすと、左前腕の傷が引きつった。


「エイダ、名札から手を離せ」


「触ってない」


「分かってる。自分の名前だと思うな」


 彼女の目が一瞬だけ細くなる。


 名前を捨てろと言われたように聞こえたはずだ。それでも聞き返さなかった。


「私は船長だ。こいつの札がなくても変わらない」


 黒い筋へ指が触れる。


 硬い。


 何かを囲う境界ではなく、名札と本人を同じものとして結ぶ線だった。


 その一点へ《断界》を通す。切るのはエイダの名ではなく、迷宮が勝手に同じものだと決めた接続だけだ。


――――――――――


《断界》Lv.1


消費MP:30


――――――――――


 音はしなかった。エイダの名札から文字だけが剥がれる。


 黒い一筋となって俺の指へ絡み、途中で千切れた。


 名札は白へ戻った。


 エイダの足を締めていた鎖が止まる。


「引くぞ」


 彼女の救命索をつかむ。


 俺が引く前に、エイダは自分で片膝を抜いた。残る鎖を靴で踏み、後ろへ倒れ込むように外れる。


 その肩を見えない男が支えた。


 今度は男の方が一歩遅れた。


 人型の腕が振り下ろされる。


 千紘が俺の左肩を押した。


 右へ避けさせるのではなく、自分が右側へ入る。


 白い札が彼女の耳を掠め、首元へ下げていたイヤホンの片側のコードまで切った。外れた一方が床へ転がる。


「千紘」


「怪我はない」


 耳の下に細い赤い線がある。本人は触らず、鎖の次の動きを見ていた。


「引く前に、一回止まる。札を選んでる」


 人型の指が壁へ向かい、無数の札から一枚を取る。


 俺たちの知っている名を出して、それへ意識を向けさせてからつなぐ。名前を呼ぶこと自体が悪いんじゃない。呼んだ瞬間に生まれる結びつきを、向こうが拾っている。


「呼ばなければ遅くなる」


 千紘が言った。


「名前を確認するな。顔だけ見て」


 さっきまで互いの名を呼び続けた。


 忘れていないことを確かめるために必要だった。ここでは、それが鎖へ渡す目印になる。


 レオンが半分閉じた扉の奥から手を出す。


「こちらへ」


 灯は彼の名を呼ばず、索を二度引いた。


 俺たちも下がる。


 鎖の人型が一歩進んだ。床の名札が足裏へ集まり、歩くたび別の身体へ組み替わる。


 エイダが籠へ戻る直前、見えない男は止まった。


 濡れた手形が白い名札の壁へつき、一枚が外れた。男はそれを持っている。


「捨てろ」


 エイダが手を伸ばす。


 男は一回叩いた。


 名札の文字は見えない。それでも彼が握った周りだけ、手の輪郭が戻っていた。


 骨張った指と、潰れた爪。


 第一有人艇の映像には映らなかった手だった。


 男は名札を胸へ押し当て、鎖の人型が崩れた。


 全部ではない。こちらへ伸びていた腕だけが、支えを失って床へ落ちる。


 千紘が見えない男の手首をつかんだ。


「今、戻った?」


 二回。


「何が」


 返事はできなかった。


 エレベーターへ全員が入り、レオンが索をほどくと扉が閉じた。


 鎖は追ってこない。


 籠の中で、男の右手だけが見えている。防水服の袖も腕もなく、手首から先だけが宙に浮いていた。


 握った名札は真っ白だった。


 その裏に、青い線が一本刻まれている。


 入口を示していた《道標共有》が消えた。時間切れだった。


 代わりに、男の名札から伸びる青い線が、エレベーターの下へ続いていた。

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