第七十七話 呼ばない名前
エイダ・モーガン。
鎖の指から下がる名札に、その文字だけが戻っている。
人型は一歩も動かず、腕を差し出したまま、エイダが受け取るのを待っている。
「触らないで」
灯が言うより先に、エイダは首を横へ振った。
「分かってる」
そう言いながら、見えない男を背中へ隠している。
名札が揺れ、錆びた鎖の中からかすかな声がした。
『エイダ・モーガン』
エイダ自身の声だった。
第一有人艇の記録より若い。落ち着いた船長の声でもない。
『本日から実習に参加します』
名札を結ぶ鎖が一本ずつ伸びる。壁から剥がれた白い札が床へ落ち、音を立てずに滑った。エイダの足元を囲い、靴へ細い鎖を巻きつける。
「下がれ」
彼女は動かなかった。
背中へ手を回し、見えない男の胸を押す。
「あんたが下がれ」
返事は一回だった。
「言うこと聞け」
また一回。
声だけなら、少し笑っているようにも聞こえた。
見えない男がエイダの横へ出て、濡れた足跡が並んだ。
人型の手にある名札へ向かって、何もない腕が伸びる。治療した胸脇から血が滲み、包帯の端だけが一瞬見えた。
「触るな!」
エイダが腕を振る。
男の手は名札へ届かなかった。
代わりに鎖が跳ねた。
右から来た一本を見落とす。
千紘に防水服を引かれ、首の前を細い金属が通り過ぎた。
「壁も動いてる」
名札の広間全体から鎖が外れていく。
人型が一体いるんじゃない。
床から天井までつながった鎖の一部が、人の形に盛り上がっている。
「扉を閉めます」
レオンがエレベーターの間へ残っていた腕を引いた。
開閉ボタンはない。扉の縁を両手でつかみ、体重をかける。
身体が軽くなっているせいで、足が床から離れた。
灯が腰の索を踏む。
「閉めなくていい。逃げる時に使う」
「背後からも来ています」
籠の天井を鎖が擦った。
さっき扉の外まで来ていた足音だ。
白い名札が隙間へ差し込まれる。何も書かれていない札の先に、細い指の骨がついていた。
レオンは手を離さなかった。
「なら、半分だけ閉じます」
「どうやって」
「これを使います」
腰の二本目の索を外す。
自分を留めていた索だった。
一本を灯へ残し、もう一本を扉の取っ手と籠内の手すりへ回す。結び終えるまでに足がさらに浮いたが、灯へ支えを求めなかった。
扉が人一人分を残して止まる。
骨の指が挟まり、折れた。
床へ落ちた指から、札だけが滑ってくる。
文字が浮かんだ。
雨宮灯。
灯が踏みつける。
「拾わない」
レオンが名札を見た。
「私には読めません」
「読まなくていい」
「あなたの名前ですか」
「違う。今は足元のゴミ」
灯は索を握ったまま、靴底をずらさなかった。
広間側では、エイダの足へ巻きついた鎖が膝まで上がっている。切断用の鉈を抜く。
普通の鎖なら、刃の方が負ける太さだった。
それでも名札同士をつなぐ輪は細い。
一つへ刃を入れると、金属音が広間へ走り、鎖の人型がこちらを向いた。
顔に当たる部分から何十枚もの札が開く。
書かれていたのは、俺の名前ではなかった。
大学の名前。
父と母の名前。
祖父の名前。
神崎、村瀬、ガル。
千紘の札だけがない。
ないことに気づいた瞬間、喉が狭くなった。忘れたのではないかと疑っただけで、頭の中にある彼女の顔まで一度遠ざかる。
「見なくていい」
隣から千紘の手が伸び、札の顔を防水布で覆った。
「私の名前は?」
「三枝千紘」
「そっちは」
「大月在真」
「なら、切って」
鉈を振り下ろす。一つ目の輪が潰れた。
エイダの足を巻く鎖は緩まない。壁から別の一本が伸び、切れた場所をつなぎ直した。
物を壊しても終わらない。
鎖の内側を黒い筋が走っている。人型からエイダの名札へ続き、さらに彼女の胸元へ伸びていた。
迷宮が作った境界なら切れる。鉈を捨てて黒い筋へ左手を伸ばすと、左前腕の傷が引きつった。
「エイダ、名札から手を離せ」
「触ってない」
「分かってる。自分の名前だと思うな」
彼女の目が一瞬だけ細くなる。
名前を捨てろと言われたように聞こえたはずだ。それでも聞き返さなかった。
「私は船長だ。こいつの札がなくても変わらない」
黒い筋へ指が触れる。
硬い。
何かを囲う境界ではなく、名札と本人を同じものとして結ぶ線だった。
その一点へ《断界》を通す。切るのはエイダの名ではなく、迷宮が勝手に同じものだと決めた接続だけだ。
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《断界》Lv.1
消費MP:30
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音はしなかった。エイダの名札から文字だけが剥がれる。
黒い一筋となって俺の指へ絡み、途中で千切れた。
名札は白へ戻った。
エイダの足を締めていた鎖が止まる。
「引くぞ」
彼女の救命索をつかむ。
俺が引く前に、エイダは自分で片膝を抜いた。残る鎖を靴で踏み、後ろへ倒れ込むように外れる。
その肩を見えない男が支えた。
今度は男の方が一歩遅れた。
人型の腕が振り下ろされる。
千紘が俺の左肩を押した。
右へ避けさせるのではなく、自分が右側へ入る。
白い札が彼女の耳を掠め、首元へ下げていたイヤホンの片側のコードまで切った。外れた一方が床へ転がる。
「千紘」
「怪我はない」
耳の下に細い赤い線がある。本人は触らず、鎖の次の動きを見ていた。
「引く前に、一回止まる。札を選んでる」
人型の指が壁へ向かい、無数の札から一枚を取る。
俺たちの知っている名を出して、それへ意識を向けさせてからつなぐ。名前を呼ぶこと自体が悪いんじゃない。呼んだ瞬間に生まれる結びつきを、向こうが拾っている。
「呼ばなければ遅くなる」
千紘が言った。
「名前を確認するな。顔だけ見て」
さっきまで互いの名を呼び続けた。
忘れていないことを確かめるために必要だった。ここでは、それが鎖へ渡す目印になる。
レオンが半分閉じた扉の奥から手を出す。
「こちらへ」
灯は彼の名を呼ばず、索を二度引いた。
俺たちも下がる。
鎖の人型が一歩進んだ。床の名札が足裏へ集まり、歩くたび別の身体へ組み替わる。
エイダが籠へ戻る直前、見えない男は止まった。
濡れた手形が白い名札の壁へつき、一枚が外れた。男はそれを持っている。
「捨てろ」
エイダが手を伸ばす。
男は一回叩いた。
名札の文字は見えない。それでも彼が握った周りだけ、手の輪郭が戻っていた。
骨張った指と、潰れた爪。
第一有人艇の映像には映らなかった手だった。
男は名札を胸へ押し当て、鎖の人型が崩れた。
全部ではない。こちらへ伸びていた腕だけが、支えを失って床へ落ちる。
千紘が見えない男の手首をつかんだ。
「今、戻った?」
二回。
「何が」
返事はできなかった。
エレベーターへ全員が入り、レオンが索をほどくと扉が閉じた。
鎖は追ってこない。
籠の中で、男の右手だけが見えている。防水服の袖も腕もなく、手首から先だけが宙に浮いていた。
握った名札は真っ白だった。
その裏に、青い線が一本刻まれている。
入口を示していた《道標共有》が消えた。時間切れだった。
代わりに、男の名札から伸びる青い線が、エレベーターの下へ続いていた。




