第七十六話 名前で動く階
点灯した名前札は、下から六枚目で止まった。
文字はどれも消えている。
ただ、一番上の札にだけ引っかいたような傷があった。エイダが第一有人艇から外した記録板にも、同じ位置に傷がある。
「あの人の?」
千紘が小さく聞いた。
「分からない」
エイダはそう答えてから、見えない男の手が載っている肩へ触れた。
「でも、あいつなら目印を傷で残す。油性ペンをすぐなくすから」
何もない場所で、水滴が一度落ちた。
エレベーターが着く。
到着音は鳴らなかった。四枚の扉のうち、傷のある札の下だけが左右へ開く。
籠の中は狭かった。
壁も床も乾いている。操作盤には数字がなく、横一列に並ぶ六つの丸い窪みだけがあった。
レオンが入口で足を止める。
「乗る前に《観測》を使います」
「やめて」
灯が彼の救命索をつかんだ。
「まだ灰が残ってる。能力を通した時に、何を持っていかれるか分からない」
「何も見ずに入る方が危険です」
「分かってる。でも、今のあなたは人の名前と自分の能力を結びつけてる。使って、それまで抜けたら困る」
レオンはすぐには引かなかった。
腰の索が張り、靴底が床を擦る。自分が浮き始めていることに、言われるまで気づいていなかった。
「では、記録固定だけは」
「それも同じ」
「戻ったあと、私の証言が使えなくなります」
「戻らないよりはいい」
灯の声が少し強くなった。
レオンが黙る。
納得したようには見えなかった。それでも操作端末から手を離し、自分で二本の索を確かめた。
「使用しません。ただし、私が忘れたことは隠さないでください」
「隠さない」
「気遣って言い換えるのも不要です」
「それは約束できない。言い方くらい選ぶ」
灯は索を離さなかった。
エイダが先に籠へ入った。
肩に触れていたはずの男は動かない。彼女だけが一歩進み、濡れた袖が途中で引かれた。
「乗りたくない?」
床が一度鳴る。
「じゃあ、知ってる場所?」
二回。
「下に何がある」
返事はない。
答えられないのか、一回と二回では足りないのか分からなかった。
エイダは籠から戻った。
「行きたくないなら行かない。別の階段を探す」
今度は床が三回鳴った。
これまでにない返しだった。
見えない手がエイダの肩を離れる。濡れた足跡が一つだけ籠へ入り、六つの窪みの前まで続いた。
一番左の窪みが沈む。
傷のある名前札が消えた。
「嫌なんじゃなくて、先に行くってことか」
エイダが息を吐く。
足跡は増えない。
男はもう籠の中にいる。それだけは、救命胴衣の留め具が何もない場所で揺れていることで分かった。
「私たちが降りなければ、あの人だけ動く」
千紘は耳を籠へ向けた。
「機械の音、まだしない。下から引かれてる」
「道標は」
エイダに聞かれ、目を閉じる。
入口へ置いた印はまだある。
遠い。方向は分かるが、屋上から建物へ入った時より輪郭が薄い。共有している千紘たちも、同じ曖昧さを感じているはずだった。
「残ってる。けど、長くは持たない」
十分間の有効時間は、もう半分以上過ぎている。
更新すればまた六十消費する。戻り道が変わった時のために残したかった。
「先に入る」
俺は籠へ足を置いた。
床がわずかに沈む。
二つ目の窪みが押し込まれ、消えていた名前札の隣に、新しい札が点く。
そこにも文字はなかった。
千紘が俺の横へ来る。
三つ目が沈んだ。
「大月在真」
不意に名前を呼ばれ、千紘を見る。
「何だ」
「今は、それだけ」
俺も彼女の名を呼んだ。
「三枝千紘」
「うん」
思い出せることと、口に出せることが同じとは限らない。それでも返事を聞くまで、胸の奥にあった力が抜けなかった。
灯とレオンが入る。
エイダが最後だった。
六つの窪みが全部沈むと、開いていた扉が閉じ始めた。
「待って」
千紘が扉の間へ手を出す。
エイダが腕をつかんで引いた。
閉じた扉の向こうから、もう一人分の足音が近づいていた。
一歩。
そこで扉が合わさる。
籠が持ち上がった。
「上がってる」
灯が言う。
「建物の屋上から入ったのに?」
「身体がそう感じるだけかもしれません」
レオンは壁へ掌を当てた。能力は使っていない。
「振動がない。ワイヤも油圧もない」
階数表示の札が一枚ずつ下へ流れていく。
消えた名前が、俺たちの頭上を通り過ぎている。
千紘が息を詰めた。
「在真、何か落とした?」
「何も」
「音が軽くなった」
何のことか聞く前に、レオンの腰から救命索が浮いた。
さっきまで靴底を床へ留めていた索が、今は緩い弧を描いて天井へ寄っていく。
灯が彼の腕を引き下ろした。
「何を忘れた」
「確認します」
レオンは胸元の樹脂板を見た。
自分の名前。二十四歳。救急救命士。固有スキルは《毒性分離》。
灯について書かれた項目を指で追う。
「読めます。意味も分かります」
「私を見て」
顔を上げる。
「あなたは、二十四歳の救急救命士です」
「それ以外」
レオンの視線が止まった。
灯の指が、彼の腕へ食い込む。
「昨日、船で何を食べた」
「スープです」
「私が残したのは」
「……知りません」
「辛い豆。あなたが勝手に食べた」
それは名札にも記録板にも書いていない。
レオンは何も言えなかった。
床から彼の踵が離れた。
灯が抱え込むように引き下ろす。
「名前だけじゃない」
千紘の声が近かった。
扉の向こうを聞こうとしていた耳を、もうこちらへ向けている。
「人と人の間にあるものから取ってる。呼び方が最初だっただけ」
上昇が速くなる。
六つ並んだ窪みのうち、レオンの前だけが少し浅く戻っていた。
軽くなった分だけ、籠が上がる。
考えたくはなかったが、それなら第一艇の三人目が見えなくなった理由もつながる。
名前だけでは足りなかった。
服も、声も、記録も、誰かの中に残る細かな癖まで削られたあとで、あの男は海へ沈めないほど軽くなった。
「止められる?」
灯が聞く。
「試す」
操作盤の窪みへ手を入れた。
押すものはない。冷たい丸みの奥に、紙の端のような薄い感触だけがある。
つまんで引く。
指先へ何かが触れた瞬間、祖父の家の台所が浮かんだ。
流しの横に立つ千紘。開けたままの段ボール。ガルの水皿をどこへ置くかで、まだ話が終わっていない。
一緒に暮らす。
その言葉だけが、急に遠くなった。
俺は手を離した。
「触るな」
声が思ったより大きく出る。
千紘が俺の手首を取った。
「何を取られた?」
「まだ取られてない」
「本当に?」
台所は思い出せる。
段ボールも、ガルの皿も。
ただ、その先を考えた時にあったはずの温度が、一瞬だけ消えた。
「一緒に住むって話は覚えてる」
「それを聞いたんじゃない」
千紘は手を離さなかった。
うまく答えられないまま、籠が止まる。
扉の向こうには水がなかった。
古い病院の受付、学校の昇降口、港の事務所らしい窓口が、同じ広間の中へ継ぎ足されている。
壁一面に名札があった。
数千枚では足りない。
床から天井まで、白く消えた札が隙間なく並んでいる。その一部は錆びた鎖でつながれ、人の形を作って立っていた。
扉のすぐ前に一体いる。
頭に当たる場所へは、船員用の古い名札が結ばれていた。
エイダの隣で、見えない男が後ずさる。
鎖の人型が腕を上げた。
指の代わりに下がる五枚の札のうち、一枚だけに文字が戻る。
エイダ・モーガン。
それを見たエイダが、自分の名前より先に隣の男を庇った。




