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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第十五章 灰海迷宮

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第七十六話 名前で動く階

 点灯した名前札は、下から六枚目で止まった。


 文字はどれも消えている。


 ただ、一番上の札にだけ引っかいたような傷があった。エイダが第一有人艇から外した記録板にも、同じ位置に傷がある。


「あの人の?」


 千紘が小さく聞いた。


「分からない」


 エイダはそう答えてから、見えない男の手が載っている肩へ触れた。


「でも、あいつなら目印を傷で残す。油性ペンをすぐなくすから」


 何もない場所で、水滴が一度落ちた。


 エレベーターが着く。


 到着音は鳴らなかった。四枚の扉のうち、傷のある札の下だけが左右へ開く。


 籠の中は狭かった。


 壁も床も乾いている。操作盤には数字がなく、横一列に並ぶ六つの丸い窪みだけがあった。


 レオンが入口で足を止める。


「乗る前に《観測》を使います」


「やめて」


 灯が彼の救命索をつかんだ。


「まだ灰が残ってる。能力を通した時に、何を持っていかれるか分からない」


「何も見ずに入る方が危険です」


「分かってる。でも、今のあなたは人の名前と自分の能力を結びつけてる。使って、それまで抜けたら困る」


 レオンはすぐには引かなかった。


 腰の索が張り、靴底が床を擦る。自分が浮き始めていることに、言われるまで気づいていなかった。


「では、記録固定だけは」


「それも同じ」


「戻ったあと、私の証言が使えなくなります」


「戻らないよりはいい」


 灯の声が少し強くなった。


 レオンが黙る。


 納得したようには見えなかった。それでも操作端末から手を離し、自分で二本の索を確かめた。


「使用しません。ただし、私が忘れたことは隠さないでください」


「隠さない」


「気遣って言い換えるのも不要です」


「それは約束できない。言い方くらい選ぶ」


 灯は索を離さなかった。


 エイダが先に籠へ入った。


 肩に触れていたはずの男は動かない。彼女だけが一歩進み、濡れた袖が途中で引かれた。


「乗りたくない?」


 床が一度鳴る。


「じゃあ、知ってる場所?」


 二回。


「下に何がある」


 返事はない。


 答えられないのか、一回と二回では足りないのか分からなかった。


 エイダは籠から戻った。


「行きたくないなら行かない。別の階段を探す」


 今度は床が三回鳴った。


 これまでにない返しだった。


 見えない手がエイダの肩を離れる。濡れた足跡が一つだけ籠へ入り、六つの窪みの前まで続いた。


 一番左の窪みが沈む。


 傷のある名前札が消えた。


「嫌なんじゃなくて、先に行くってことか」


 エイダが息を吐く。


 足跡は増えない。


 男はもう籠の中にいる。それだけは、救命胴衣の留め具が何もない場所で揺れていることで分かった。


「私たちが降りなければ、あの人だけ動く」


 千紘は耳を籠へ向けた。


「機械の音、まだしない。下から引かれてる」


「道標は」


 エイダに聞かれ、目を閉じる。


 入口へ置いた印はまだある。


 遠い。方向は分かるが、屋上から建物へ入った時より輪郭が薄い。共有している千紘たちも、同じ曖昧さを感じているはずだった。


「残ってる。けど、長くは持たない」


 十分間の有効時間は、もう半分以上過ぎている。


 更新すればまた六十消費する。戻り道が変わった時のために残したかった。


「先に入る」


 俺は籠へ足を置いた。


 床がわずかに沈む。


 二つ目の窪みが押し込まれ、消えていた名前札の隣に、新しい札が点く。


 そこにも文字はなかった。


 千紘が俺の横へ来る。


 三つ目が沈んだ。


「大月在真」


 不意に名前を呼ばれ、千紘を見る。


「何だ」


「今は、それだけ」


 俺も彼女の名を呼んだ。


「三枝千紘」


「うん」


 思い出せることと、口に出せることが同じとは限らない。それでも返事を聞くまで、胸の奥にあった力が抜けなかった。


 灯とレオンが入る。


 エイダが最後だった。


 六つの窪みが全部沈むと、開いていた扉が閉じ始めた。


「待って」


 千紘が扉の間へ手を出す。


 エイダが腕をつかんで引いた。


 閉じた扉の向こうから、もう一人分の足音が近づいていた。


 一歩。


 そこで扉が合わさる。


 籠が持ち上がった。


「上がってる」


 灯が言う。


「建物の屋上から入ったのに?」


「身体がそう感じるだけかもしれません」


 レオンは壁へ掌を当てた。能力は使っていない。


「振動がない。ワイヤも油圧もない」


 階数表示の札が一枚ずつ下へ流れていく。


 消えた名前が、俺たちの頭上を通り過ぎている。


 千紘が息を詰めた。


「在真、何か落とした?」


「何も」


「音が軽くなった」


 何のことか聞く前に、レオンの腰から救命索が浮いた。


 さっきまで靴底を床へ留めていた索が、今は緩い弧を描いて天井へ寄っていく。


 灯が彼の腕を引き下ろした。


「何を忘れた」


「確認します」


 レオンは胸元の樹脂板を見た。


 自分の名前。二十四歳。救急救命士。固有スキルは《毒性分離》。


 灯について書かれた項目を指で追う。


「読めます。意味も分かります」


「私を見て」


 顔を上げる。


「あなたは、二十四歳の救急救命士です」


「それ以外」


 レオンの視線が止まった。


 灯の指が、彼の腕へ食い込む。


「昨日、船で何を食べた」


「スープです」


「私が残したのは」


「……知りません」


「辛い豆。あなたが勝手に食べた」


 それは名札にも記録板にも書いていない。


 レオンは何も言えなかった。


 床から彼の踵が離れた。


 灯が抱え込むように引き下ろす。


「名前だけじゃない」


 千紘の声が近かった。


 扉の向こうを聞こうとしていた耳を、もうこちらへ向けている。


「人と人の間にあるものから取ってる。呼び方が最初だっただけ」


 上昇が速くなる。


 六つ並んだ窪みのうち、レオンの前だけが少し浅く戻っていた。


 軽くなった分だけ、籠が上がる。


 考えたくはなかったが、それなら第一艇の三人目が見えなくなった理由もつながる。


 名前だけでは足りなかった。


 服も、声も、記録も、誰かの中に残る細かな癖まで削られたあとで、あの男は海へ沈めないほど軽くなった。


「止められる?」


 灯が聞く。


「試す」


 操作盤の窪みへ手を入れた。


 押すものはない。冷たい丸みの奥に、紙の端のような薄い感触だけがある。


 つまんで引く。


 指先へ何かが触れた瞬間、祖父の家の台所が浮かんだ。


 流しの横に立つ千紘。開けたままの段ボール。ガルの水皿をどこへ置くかで、まだ話が終わっていない。


 一緒に暮らす。


 その言葉だけが、急に遠くなった。


 俺は手を離した。


「触るな」


 声が思ったより大きく出る。


 千紘が俺の手首を取った。


「何を取られた?」


「まだ取られてない」


「本当に?」


 台所は思い出せる。


 段ボールも、ガルの皿も。


 ただ、その先を考えた時にあったはずの温度が、一瞬だけ消えた。


「一緒に住むって話は覚えてる」


「それを聞いたんじゃない」


 千紘は手を離さなかった。


 うまく答えられないまま、籠が止まる。


 扉の向こうには水がなかった。


 古い病院の受付、学校の昇降口、港の事務所らしい窓口が、同じ広間の中へ継ぎ足されている。


 壁一面に名札があった。


 数千枚では足りない。


 床から天井まで、白く消えた札が隙間なく並んでいる。その一部は錆びた鎖でつながれ、人の形を作って立っていた。


 扉のすぐ前に一体いる。


 頭に当たる場所へは、船員用の古い名札が結ばれていた。


 エイダの隣で、見えない男が後ずさる。


 鎖の人型が腕を上げた。


 指の代わりに下がる五枚の札のうち、一枚だけに文字が戻る。


 エイダ・モーガン。


 それを見たエイダが、自分の名前より先に隣の男を庇った。

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