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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第十五章 灰海迷宮

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第七十五話 触れられる人

 無線から男の声が消えても、空席の血は止まらなかった。


 救命胴衣の前、何もない空間を赤い一滴が伝い、座面へ落ちる。


「手を貸して」


 灯が言った。


「何を持てばいい」


「分からない。まず肩を探す」


 空席の後ろへ回り、両手を広げる。指は救命胴衣を通り過ぎる前に、濡れた何かへ触れた。


 防水服だった。


 目には見えない。触れた指先にも布の色や形は浮かばない。それでも肩らしい丸みと、そこから下がる腕がある。


「いる」


 口に出すと、触れている感覚まで少し薄くなった。


 離すのが怖くなり、肩をつかみ直す。


 相手は動かなかった。


「呼吸は」


 灯が胸元へ手を入れる。


 救命胴衣の内側を探り、首へ指を滑らせた。


「脈がある。遅いけど、生きてる」


 エイダは艇の無線機を外した。


「聞こえるなら、二回叩け」


 一度。


 空席の床が鳴る。


 長く間が空き、もう一度鳴った。


「私を知ってる?」


 二回。


 エイダの顎が少しだけ上がる。


「私は、あなたを知ってた?」


 返事はすぐに来なかった。


 見えない右手が持ち上がったらしい。俺がつかんでいた肩が動き、エイダの手首へ何かが触れた。


 二回。


「名前は」


 音がない。


 質問を変えるべきだと灯は言っていた。


 それでもエイダは待った。


 男は答えられない。声を失ったのではない。さっき、無線でエイダと呼んだ。


 自分の名前だけを出せないのかもしれなかった。


「傷を見る」


 灯が救命胴衣の留め具を外す。


 何もない場所から血が増えた。銛は左の胸脇を掠めたらしく、裂けた防水服の中へ指二本ほどの傷がある。


 灯は《生命縫合》を使わなかった。


 出血量と深さを触れて確かめ、洗浄液を流し、圧迫材を当てる。


「ここを押さえて」


 俺は言われた位置へ手を置いた。


 圧迫材も、包帯も見えなくなる。


 持ち込んだ物が消えたわけではない。灯が引けば端は手元へ戻る。傷へ重なり、男の一部になった範囲だけを、目が拾えなくなっていた。


「痛ければ一回。大丈夫なら二回」


 一回鳴った。


「どっちの質問に答えたの」


 灯が眉を寄せる。


 床が二回鳴る。


「そういう返しはできるんだ」


 灯の口元が少しだけ動いた。


 治療が終わると、男は救命胴衣の中へ戻った。


 重量表示は六人分のまま。


 レオンが浮いた分だけ減り、見えない男の数字は変わっていない。


「第一艇の三人目です」


 レオンが言う。


「断定しない」


 エイダが返した。


「あなたを知っていて、第一艇と同じ防水服を着ている」


「それでも違うものなら、決めた瞬間に見落とす」


「あなたらしい判断です」


「私の名前は」


 レオンは黙った。


 エイダ・モーガンという音は、さっき無線から聞いた。


 覚え直したのではない。目の前の本人へ結びつかないまま、単語だけが口に残っている。


 灯がレオンの二本目の救命索を屋上の鉄骨へ固定した。


「今は一人で歩かないで」


「私は歩けます」


「浮くことを歩くとは言わない」


 レオンの靴底は床についている。


 ただ、足へ力を入れているというより、索に引かれて下へ留まっていた。


 屋上の中央には、灰色の水が溜まっていない。


 小艇が乗り上げた範囲から海面がゆっくり退き、給水塔と階段室の扉まで濡れたコンクリートが露出していた。


 海は屋上の縁で垂直に切れている。


 高さ二メートルほどの水の壁が建物を囲み、その向こうをサハギンの影が一度横切った。


「艇に残る方が危ない」


 千紘が水の壁へ顔を向ける。


「下に二体。さっきのが戻ってる。建物の中にも音がある」


「人?」


「小さい音。機械かもしれない」


 エイダは小艇の固定索を二本、屋上設備へ別々に取った。


 空席へ向かって手を出す。


「立てる?」


 二回。


「私の肩を持て」


 何もない手がエイダの肩へ置かれた。


 防水服の袖も指も見えない。それでも彼女の上着だけが少し沈み、歩くたび隣の水滴が動く。


 五人と、触れなければ数えられない一人で階段室へ向かった。


 扉には押し込まれた跡があった。


 鍵は壊れている。


 内側へ開くと、階段が下へ続いていた。


 水は入っていない。


 屋上の外では水面下にある一階下も、扉の向こうだけは湿った空気で満たされている。


「気圧差なし」


 灯が計器を見る。


「酸素は?」


「二〇・七。今のところ吸える」


 エイダは先頭へ行かなかった。


 見えない男の手を肩に置いたまま、二番目に入る。先頭は俺、後ろに千紘、灯とレオンが続いた。


 階段を降りると、水の壁が窓の外へ立っていた。


 魚も泡もない。


 灰鰭サハギンが一体、窓ガラスの向こうを歩くように通る。水中を泳いでいるのに、足は建物の外壁へついていた。


「こっちの中へ入れる?」


 レオンが聞く。


「割れば入る」


 千紘が短く答えた。


 それで十分だった。


 廊下には事務机が倒れ、濡れていない紙が床へ散らばっている。印刷された文章は複数の言語が重なり、固有名詞らしい箇所だけ白く抜けていた。


 レオンが一枚を拾う。


「国際共同――避難、海上中継――」


「読めるところだけ」


 灯が横から言う。


「分かっています」


「私の名前は」


 返事はなかった。


 レオンは紙を戻した。


 廊下の奥から、金属が二度鳴る。


 エイダの肩を持っていた男が立ち止まった。


「知ってる音?」


 彼女が聞く。


 二回。


 もう一度、金属音がした。


 千紘が壁へ耳を近づける。


「下。階段じゃない。縦に動いてる」


「エレベーター?」


「たぶん。でも、電気の音がしない」


 音を追って廊下を曲がる。


 エレベーターホールには扉が四つ並び、その前へ小型の救助艇が横倒しになっていた。


 第一有人艇だった。


 船首は潰れ、座席は三つとも空になっている。二人が外へ戻ったあと、艇だけがここへ引かれたのか。それとも同じ艇が二か所にあるのかは分からない。


 エイダが近づく。


 自分の肩へ載った手を忘れたわけではない。速度を合わせ、男も一緒に艇の横へ立たせた。


「これは私が整備した」


 船底の小さな傷を指でなぞる。


「右の継ぎ目、修理材の色を間違えた。出る前に直すつもりだった」


 座席の下へ、防水データケースが残っていた。


 留め具には細いロープが二重に回されている。


 エイダの指が止まる。


「この結び方を知ってる」


「誰の?」


 千紘が聞いた。


「分からない」


 エイダはロープを解かなかった。


「でも、毎回こうする人がいた。余った端を短く切りすぎて、手袋だとほどけなくなる」


 隣で水滴が一度落ちた。


 男がデータケースへ手を伸ばしたらしい。二重の結び目がひとりでに緩み、蓋が開いた。


 中の記録端末は動いた。


 第一艇が灰海へ入る直前の映像が残っている。


 画面に映る座席は二つだけだった。


 一人が操船し、もう一人が後ろで計器を見ている。


 音には三人分あった。


 防水服が擦れる音。床を踏む靴。二人の声が止まったあと、別の男が小さく笑う。


『モーガン船長なら、ここまで来る』


 空席の隣で聞いた声と同じだった。


 エイダは映像を止めない。


『来たら怒るぞ』


 操船している男が言う。


『来なくても怒る』


 三人目が返す。


 声を聞いても、誰も名前を思い出せなかった。


 エイダだけが、次の言葉を映像より先に口にした。


「コーヒーを甘くするなって言う」


 端末の男も同じことを言った。


『それと、俺のコーヒーに砂糖を入れるな』


 エイダは何もない隣へ手を伸ばした。


 指が見えない頬へ触れたのか、途中で止まる。


「知ってる」


 名前は続かなかった。


 エレベーターの一つが下から上がってくる。


 階数表示には数字がない。


 代わりに、文字の消えた名前札が一枚ずつ点灯していた。

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