第七十五話 触れられる人
無線から男の声が消えても、空席の血は止まらなかった。
救命胴衣の前、何もない空間を赤い一滴が伝い、座面へ落ちる。
「手を貸して」
灯が言った。
「何を持てばいい」
「分からない。まず肩を探す」
空席の後ろへ回り、両手を広げる。指は救命胴衣を通り過ぎる前に、濡れた何かへ触れた。
防水服だった。
目には見えない。触れた指先にも布の色や形は浮かばない。それでも肩らしい丸みと、そこから下がる腕がある。
「いる」
口に出すと、触れている感覚まで少し薄くなった。
離すのが怖くなり、肩をつかみ直す。
相手は動かなかった。
「呼吸は」
灯が胸元へ手を入れる。
救命胴衣の内側を探り、首へ指を滑らせた。
「脈がある。遅いけど、生きてる」
エイダは艇の無線機を外した。
「聞こえるなら、二回叩け」
一度。
空席の床が鳴る。
長く間が空き、もう一度鳴った。
「私を知ってる?」
二回。
エイダの顎が少しだけ上がる。
「私は、あなたを知ってた?」
返事はすぐに来なかった。
見えない右手が持ち上がったらしい。俺がつかんでいた肩が動き、エイダの手首へ何かが触れた。
二回。
「名前は」
音がない。
質問を変えるべきだと灯は言っていた。
それでもエイダは待った。
男は答えられない。声を失ったのではない。さっき、無線でエイダと呼んだ。
自分の名前だけを出せないのかもしれなかった。
「傷を見る」
灯が救命胴衣の留め具を外す。
何もない場所から血が増えた。銛は左の胸脇を掠めたらしく、裂けた防水服の中へ指二本ほどの傷がある。
灯は《生命縫合》を使わなかった。
出血量と深さを触れて確かめ、洗浄液を流し、圧迫材を当てる。
「ここを押さえて」
俺は言われた位置へ手を置いた。
圧迫材も、包帯も見えなくなる。
持ち込んだ物が消えたわけではない。灯が引けば端は手元へ戻る。傷へ重なり、男の一部になった範囲だけを、目が拾えなくなっていた。
「痛ければ一回。大丈夫なら二回」
一回鳴った。
「どっちの質問に答えたの」
灯が眉を寄せる。
床が二回鳴る。
「そういう返しはできるんだ」
灯の口元が少しだけ動いた。
治療が終わると、男は救命胴衣の中へ戻った。
重量表示は六人分のまま。
レオンが浮いた分だけ減り、見えない男の数字は変わっていない。
「第一艇の三人目です」
レオンが言う。
「断定しない」
エイダが返した。
「あなたを知っていて、第一艇と同じ防水服を着ている」
「それでも違うものなら、決めた瞬間に見落とす」
「あなたらしい判断です」
「私の名前は」
レオンは黙った。
エイダ・モーガンという音は、さっき無線から聞いた。
覚え直したのではない。目の前の本人へ結びつかないまま、単語だけが口に残っている。
灯がレオンの二本目の救命索を屋上の鉄骨へ固定した。
「今は一人で歩かないで」
「私は歩けます」
「浮くことを歩くとは言わない」
レオンの靴底は床についている。
ただ、足へ力を入れているというより、索に引かれて下へ留まっていた。
屋上の中央には、灰色の水が溜まっていない。
小艇が乗り上げた範囲から海面がゆっくり退き、給水塔と階段室の扉まで濡れたコンクリートが露出していた。
海は屋上の縁で垂直に切れている。
高さ二メートルほどの水の壁が建物を囲み、その向こうをサハギンの影が一度横切った。
「艇に残る方が危ない」
千紘が水の壁へ顔を向ける。
「下に二体。さっきのが戻ってる。建物の中にも音がある」
「人?」
「小さい音。機械かもしれない」
エイダは小艇の固定索を二本、屋上設備へ別々に取った。
空席へ向かって手を出す。
「立てる?」
二回。
「私の肩を持て」
何もない手がエイダの肩へ置かれた。
防水服の袖も指も見えない。それでも彼女の上着だけが少し沈み、歩くたび隣の水滴が動く。
五人と、触れなければ数えられない一人で階段室へ向かった。
扉には押し込まれた跡があった。
鍵は壊れている。
内側へ開くと、階段が下へ続いていた。
水は入っていない。
屋上の外では水面下にある一階下も、扉の向こうだけは湿った空気で満たされている。
「気圧差なし」
灯が計器を見る。
「酸素は?」
「二〇・七。今のところ吸える」
エイダは先頭へ行かなかった。
見えない男の手を肩に置いたまま、二番目に入る。先頭は俺、後ろに千紘、灯とレオンが続いた。
階段を降りると、水の壁が窓の外へ立っていた。
魚も泡もない。
灰鰭サハギンが一体、窓ガラスの向こうを歩くように通る。水中を泳いでいるのに、足は建物の外壁へついていた。
「こっちの中へ入れる?」
レオンが聞く。
「割れば入る」
千紘が短く答えた。
それで十分だった。
廊下には事務机が倒れ、濡れていない紙が床へ散らばっている。印刷された文章は複数の言語が重なり、固有名詞らしい箇所だけ白く抜けていた。
レオンが一枚を拾う。
「国際共同――避難、海上中継――」
「読めるところだけ」
灯が横から言う。
「分かっています」
「私の名前は」
返事はなかった。
レオンは紙を戻した。
廊下の奥から、金属が二度鳴る。
エイダの肩を持っていた男が立ち止まった。
「知ってる音?」
彼女が聞く。
二回。
もう一度、金属音がした。
千紘が壁へ耳を近づける。
「下。階段じゃない。縦に動いてる」
「エレベーター?」
「たぶん。でも、電気の音がしない」
音を追って廊下を曲がる。
エレベーターホールには扉が四つ並び、その前へ小型の救助艇が横倒しになっていた。
第一有人艇だった。
船首は潰れ、座席は三つとも空になっている。二人が外へ戻ったあと、艇だけがここへ引かれたのか。それとも同じ艇が二か所にあるのかは分からない。
エイダが近づく。
自分の肩へ載った手を忘れたわけではない。速度を合わせ、男も一緒に艇の横へ立たせた。
「これは私が整備した」
船底の小さな傷を指でなぞる。
「右の継ぎ目、修理材の色を間違えた。出る前に直すつもりだった」
座席の下へ、防水データケースが残っていた。
留め具には細いロープが二重に回されている。
エイダの指が止まる。
「この結び方を知ってる」
「誰の?」
千紘が聞いた。
「分からない」
エイダはロープを解かなかった。
「でも、毎回こうする人がいた。余った端を短く切りすぎて、手袋だとほどけなくなる」
隣で水滴が一度落ちた。
男がデータケースへ手を伸ばしたらしい。二重の結び目がひとりでに緩み、蓋が開いた。
中の記録端末は動いた。
第一艇が灰海へ入る直前の映像が残っている。
画面に映る座席は二つだけだった。
一人が操船し、もう一人が後ろで計器を見ている。
音には三人分あった。
防水服が擦れる音。床を踏む靴。二人の声が止まったあと、別の男が小さく笑う。
『モーガン船長なら、ここまで来る』
空席の隣で聞いた声と同じだった。
エイダは映像を止めない。
『来たら怒るぞ』
操船している男が言う。
『来なくても怒る』
三人目が返す。
声を聞いても、誰も名前を思い出せなかった。
エイダだけが、次の言葉を映像より先に口にした。
「コーヒーを甘くするなって言う」
端末の男も同じことを言った。
『それと、俺のコーヒーに砂糖を入れるな』
エイダは何もない隣へ手を伸ばした。
指が見えない頬へ触れたのか、途中で止まる。
「知ってる」
名前は続かなかった。
エレベーターの一つが下から上がってくる。
階数表示には数字がない。
代わりに、文字の消えた名前札が一枚ずつ点灯していた。




