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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第十五章 灰海迷宮

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第七十四話 名前の重さ

 六人分の重量を示したまま、小艇は沈まなかった。


 水面は鏡のように平らで、船縁から十五センチ下にある。五人で乗った時と喫水も変わっていない。


 数字だけが増えていた。


「計器の故障は」


 レオンが聞く。


「外で二回校正した」


 エイダは空席へ伸ばした手を戻さない。


 救命胴衣の肩口へ指を近づけ、触れずに止めていた。


「温度は?」


 灯が小型計を向ける。


「周りと同じ。呼吸も取れない」


「音はある」


 千紘が言った。


 全員が空席を見る。


「水が落ちてる。肩の高さから、膝、床。今も」


 見えない水滴が艇の底を叩く。


 一滴。


 少し空いて、もう一滴。


 乾いていた救命胴衣の裾からは、灰色の水が細く流れ続けていた。


「乗っているなら、誰だ」


 レオンが空席へ聞いた。


 返事はない。


「質問を変えて」


 灯が言う。


「名前を聞かれても、ここでは答えられないかもしれない」


 レオンは手帳を開き、言い直そうとした。


 その前にエイダが操舵輪へ戻る。


「九十秒だけ進む。重量が増える、艇が沈む、誰かの確認項目が欠ける。どれか一つで止める」


「戻らないの」


 千紘が聞いた。


「戻る向きにいる保証がない。ここで船首を振るより、無人艇に手が映った位置まで進む」


 俺たちが来たから奥へ行くのではない。


 エイダは進入前から、自分の船と失踪者へ使う九十秒を決めていたらしい。


 小艇が動く。


 プロペラの回転は伝わるのに、後方へ波が立たない。水面だけが船体の形に割れ、閉じたあとには何も残らなかった。


 胸の左奥にある道標は、後ろを示している。


 エイダも同じ方向を感じているはずだが、操舵輪の上の方位計と水中映像を見比べ、能力だけでは針路を決めなかった。


 水面下の都市が近づく。


 最初に見えたのは鉄塔ではなく、横倒しになった信号機だった。


 水深は三メートルほどしかない。灰色の水の下で、信号機が道路ごと沈み、赤、黄、青の灯器をこちらへ向けている。色は失われているのに、三つとも薄く光っていた。


 その奥へビルが並ぶ。


 屋上の看板には文字があった。形は読める。アルファベットと見たことのない文字が同じ板へ重なり、どの都市のものか分からない。


「一つの街じゃない」


 レオンが画面を撮る。


「どうして」


 灯が聞いた。


「建築年代と道路幅が合いません。右は二〇〇〇年代以降、左の路面電車は――」


「観測は」


「使っていません」


 言葉は速かったが、灯の名前を呼ばなかった。


 まだ欠けたとは限らない。


 艇の下で、金属を引っかく音がした。


 千紘が右耳を押さえる。


「下に三つ。船と同じ速さ」


 俺は右側を見た。


 灰色の水面には何もない。


「深さは」


「すぐ下。一つ、空席の方へ上がる」


 灯がレオンの救命索を握り、エイダは速度を上げず船首だけを左へ振った。


 右側の水が割れる。


 灰色の鱗を持つ腕が伸び、空席の船縁へ爪を掛けた。


 サハギンだった。


 石狩で見たものより痩せ、背びれが透明に近い。首へ細い革紐を巻き、そこから文字の消えた金属板を何枚も下げている。


 そいつは俺たちを見なかった。


 空席へ顔を向け、短い銛を突き出す。


 刃は誰もいないはずの救命胴衣の前で止まった。


 布には触れていない。


 何か硬いものへ刺さったように、銛の柄だけが震えている。


「いる」


 千紘の声が掠れた。


 サハギンが銛を引く。


 俺は船縁へ左膝をつき、腕をつかんだ。冷たい鱗が手袋の中で滑り、反対の手に持った短い救助鉤が右から振られる。


 見えなかった。


 刃が左前腕を裂き、温かいものが袖の内側へ流れた。


 サハギンの手首を船縁へ押しつける。救命索をつけたまま身体を起こし、胸元の金属板ごと顎の下を打った。


 一度では砕けない。


 サハギンが口を開き、尖った歯を腕へ向ける。


「頭、下げて!」


 千紘の声に従った。


 後ろから伸びたボートフックが、サハギンの首へ掛かる。


 灯だった。


 引き上げはしない。首の向きだけを変え、俺の腕から歯を外す。


 俺は露出した胸へ拳を入れた。


 灰色の鱗が割れ、その下の小さな魔石が砕ける。


 身体から力が抜けた。


 海へ落ちるより先に、エイダが小艇を右へ切った。船体の側面が浮いてきた二体目へ当たり、細い身体を水中の信号柱へ挟む。


「一体は後ろへ逃げた」


 千紘が言う。


「もう一体、左。船底にいる」


 底から銛の先が突き上がった。


 床板を抜けず、座席の間で止まる。


 レオンが足を上げるより早く、灯が救命索を引いた。彼の身体が中央席へ倒れ、銛は防水服の膝だけを裂いた。


 俺は死んだ一体から救助鉤を外し、床の穴へ差し込んだ。


 手応えはない。


 金属同士が触れる音だけが続き、急に軽くなる。三体目は銛を残して水中へ離れた。


「追わない」


 エイダが言う。


 誰も追うつもりはなかった。


 倒したサハギンの身体が崩れる。


 肉も骨も灰色の水へ変わり、最後に残った金属板が船縁へ当たった。


 灰が沈まない。


 水面から逆向きに舞い上がり、小艇の中へ降るように広がった。


「伏せて、マスク」


 灯が自分の鞄を開き、顔へ密閉マスクを押し当てる。


 全員分は装着していた。


 それでも、レオンの膝を裂いた穴へ灰色の水が入っていた。


 灯が洗浄液を掛ける。


「触らないで。分離もしない」


「記録だけ」


 レオンは濡れた手帳を開こうとした。


「今は閉じて」


 灯が取り上げる。


 レオンの顔が強張った。


「返してください」


「私の名前」


「二十四歳。救急救命士。《生命縫合》《毒性分離》」


「名前」


 口が動く。


 出なかった。


 灯は一度だけ目を閉じ、次にエイダを指した。


「この人は」


「操船責任者」


「名前は」


「エイダ――」


 そこまでは出た。


 名字が続かない。


「エイダ・モーガン」


 本人が言った。


 レオンは手首の樹脂板を見た。エイダの名前は書かれていない。自分の板へ記録した一覧を確かめても、文字と目の前の女がつながらないらしい。


「知っています」


「何を」


「船長。三十九歳。人間。海上捜索――」


「それは私の履歴だ」


 エイダは操舵輪を離さない。


「私が誰か聞いてる」


 レオンの救命索が張った。


 座席へ座っているのに、腰が数センチ浮いていた。


「押さえて」


 灯がレオンの肩へ手を置く。


 艇の重量表示が変わった。


 六人分だった数字が、四・八キロだけ軽くなる。


 レオン一人の身体全部ではない。


 エイダの名前を失った分だけだと考えるには、数字が具体的すぎた。


「灰を吸ったから浮いた?」


 千紘が聞く。


「分からない。先に固定する」


 灯はレオンの胴へ二本目の索を回した。


 俺の左袖からも血が滲んでいた。


「腕を出して」


「浅いです」


「見れば決める」


 灯はレオンを押さえたまま、片手で俺の袖を切った。傷は前腕を斜めに走っているが、筋までは届いていない。


 洗浄液が染みる。


――――――――――


現在HP:2,860/2,920


――――――――――


 エイダが九十秒の計器を止めた。


「戻る?」


 千紘が聞く。


「開けた海で向きを変えたら、あいつらに底を取られる。屋上へ上げる」


「道標はあと二分」


「十分で切れるのか」


「もう八分経ってる」


 俺は入口の感覚を確かめた。


 まだ後ろにある。


 エイダは正面の低い建物へ船首を向けた。水面下に広い屋上があり、端へ錆びた給水塔が立っている。


「同じ三人へもう一度使う」


 灯はレオンから手を離さない。


「私は触れられる」


 エイダと千紘も片手を出した。


 肩へ順に触れる。


「道標共有」


――――――――――


《道標共有》Lv.1を使用しました。


共有対象:3


共有時間:10分


現在MP:780/900


――――――――――


 切れかけていた方向感覚が戻った。


 小艇は屋上の縁へ近づく。


 水の下にあるはずのコンクリートへ船底が触れると、灰色の海面が屋上だけを避けるように下がった。


 濡れた床が水上へ現れる。


 エイダが艇を乗り上げさせ、エンジンを切った。


 空席の救命胴衣は、まだ人の形に閉じている。


 サハギンの銛が止まった位置には、細い裂け目があった。


 中身のない空間から、赤い血が一滴だけ流れていた。


「治療する」


 灯が空席へ手を伸ばす。


 触れたはずの指が、何もない場所で止まった。


 その時、艇の無線が鳴った。


『エイダ』


 男の声だった。


 エイダが顔を上げる。


 レオンも同じ名前を口にした。


「エイダ」


「思い出した?」


「いいえ」


 彼は空席を見ていた。


「今、あれがそう呼びました」

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