第七十三話 五人で乗った艇
北大西洋へ向かう調査船には、名前を書く場所が多かった。
乗船名簿。船室の扉。救命胴衣。防水服の胸と背中。手首へ巻く樹脂板。
俺の左腕には《大月在真》と三か所に書かれている。文字だけでは足りないという灯の判断で、その下へ《十九歳、竜人、右眼欠損》まで追加された。
「年齢は要るんですか」
「名前が抜けた次に、何が抜けるか分からないから」
「右目は見れば分かる」
「忘れたら、失った理由まで分からなくなるかもしれない」
灯は油性ペンの蓋を閉めた。
自分の樹脂板には、名前と年齢の下へ《藤堂健一の処置をした》と書いている。救命士やスキルより、今回ここへ来た理由を残したかったらしい。
千紘の板には《在真の恋人》が増えていた。
「誰が書いた」
「私」
「大学一年とかじゃなくて?」
「それも裏にある」
板を返すと、《音を聞く。自分で決める》と書かれていた。
調査船はフェロー諸島を出てから六時間、灰海迷宮の周囲を一定距離で回り続けていた。
外は曇っている。風は強いが、波は船体へ当たっている。
前方にだけ、波のない場所があった。
直径一キロほどの海面が、灰色の膜に覆われている。雨雲の影ではない。周囲の青黒い海が盛り上がっても、その内側だけは水平なまま動かない。
中央へ近づく無人艇が一隻あった。
白い船体が境目へ入ると、船首から順に色を失った。映像は途切れず、艇は灰色になったまま膜の向こうへ進み、最後にはアンテナだけが残って消える。
「接続は安定。戻し信号を送る」
操舵室の女が言った。
エイダ・モーガン。
三十九歳。北大西洋で沈没船の捜索をしていた民間船長で、世界震動後は海上迷宮の救助へ移った。Lv.33の人間だが、本人は登録証を胸ポケットへ入れたまま見せなかった。
短く切った赤茶色の髪へ、眼鏡のつるを差している。
「戻ってこなければ?」
レオンが聞く。
「次を入れない」
「戻れば、有人艇を入れる」
「私が決める」
「共同計画です」
「だから、私の船では私が決める」
レオンは反論せず、画面へ顔を近づけた。
スヴァールバルから戻ってから、彼は《観測》を一度も使っていない。
使っていないと本人が言っているだけで、確かめる方法はなかった。灯を名前で呼べなかった時間についても、灰の影響だと決まったわけではない。
それでも、手帳の最初のページには以前なかった一覧がある。
大月在真。
三枝千紘。
雨宮灯。
名前の横に、本人が知っている短い事実を書き足していた。
俺の欄には《右目を説明に使わない》とある。
千紘が見つけて書かせたらしい。
「戻ります」
通信担当の声が上がった。
灰色の海面から、無人艇のアンテナが現れる。
船体は白に戻らなかった。
灰色の塗装をしたような姿で波へ押し出され、牽引線が張った。遠隔操作には反応している。
「内部時間、二分十一秒。外は二分九秒」
「映像は」
「継続しています。ただ、最後の十九秒だけ――」
画面に灰色の海が映る。
波はなかった。
水面の下へ、ビルの屋上が並んでいる。道路標識らしい青い板、折れた鉄塔、窓を失った建物。そのすべてが、海底ではなく水面から数メートル下に浮かんでいた。
艇が戻る直前、映像の右端に人の腕が映った。
防水服の袖。
灰色の手袋が無人艇の縁をつかみ、すぐに離れる。
「先行艇の一人か」
俺が聞くと、エイダは映像を戻した。
「かもしれない。違うかもしれない」
「服の型は」
レオンが拡大する。
「第一有人艇と同じです」
「三人目?」
「そう呼ぶしかありません」
名前はない。
帰ってきた二人の装備記録には同じ防水服が三着ある。映像にも三人が乗っていた。ところが顔へ焦点を合わせようとすると、圧縮が崩れたように灰色の四角が重なる。
記録を見た誰も、その人物について文章を作れなかった。
「入る」
エイダが画面を止めた。
レオンが顔を上げる。
「条件は変わっていません」
「腕が映った。生存の可能性が上がった」
「魔物による擬態の可能性も」
「だから私が操船する」
エイダは椅子から立ち、壁の名簿へ自分の札を差した。
灰海へ入るのは五人。
エイダ、灯、千紘、レオン、俺。
ガルは祖父の家に残った。
灰の瓶を嫌がったこともある。海上では自分の足で退路を選べず、人間用の小艇へ乗せても動ける場所がない。
俺が置いていくと決めたのではなく、装備を並べた朝、ガルは一度も玄関へ来なかった。
「最終確認をする」
灯が五枚の札を卓上へ並べた。
「文字と録音が同時に消える可能性がある。自分の名前だけ読めても、正しい人間に結びついてるとは限らない」
「どう確認する」
エイダが聞く。
「他人のことを一つずつ言う。肩書きや能力じゃないもの」
「随分と曖昧だな」
レオンが言った。
「曖昧なものが残るか確かめるの」
灯は録音を始め、最初に千紘を見た。
「三枝千紘。音を聞きすぎた時、耳を塞ぐ前に周りへ静かにしてって言う」
「雨宮灯。自分が休んでない時ほど、他人に寝ろって言う」
千紘が返した。
灯の指が録音停止の表示へ寄ったが、そのまま戻った。
レオンの番になる。
「エイダ・モーガン。操船中、誰にも椅子の背へ触らせない」
「レオン・ハルトマン。人の記録を勝手に送って、それでも自分の手帳だけは絶対に貸さない」
エイダが言うと、レオンの口が閉じた。
「事実です」
「なら残る」
最後に二人の視線が俺へ来た。
「大月在真」
エイダが一度考える。
「初対面の船長に、戻れる経路があるか最初に聞いた」
「普通では」
「普通なら、船の速さを聞く」
録音した灯が、俺を見た。
「誰か一人」
千紘を見る。
「三枝千紘。俺が決める前に決めてる」
「雑」
「間違ってないだろ」
「もう一個」
言われて、縁側の耳当てを思い出した。
「帰ったら、うちで一緒に暮らす」
エイダの眉が上がる。
レオンは手帳へ書こうとして、千紘に止められた。
「そこは記録しなくていい」
「消失確認に有効です」
「私が覚えるから」
録音には残った。
小艇は調査船の船尾から海へ下ろされた。
硬い船体に六つの座席がある。
操船するエイダが前。灯とレオンが中央。千紘と俺は後方へ並び、一つだけ空席を残した。
「六人乗りを選んだ理由は」
レオンが空席を見る。
「第一有人艇と同型だから」
「残った一人を乗せるためですか」
「見つかればね」
エイダは空席の救命胴衣も外さなかった。
調査船との長い牽引線は使わない。
灰海を越えたあと同じ線が同じ船へ戻る保証がなく、船そのものを引き込む危険がある。境目の手前へ自動浮標を一つ置き、帰路は記録と《道標共有》で確保する。
「能力は中へ入ってから?」
灯が聞いた。
「俺が通った場所しか指定できない。境目を越えて、入口側を道標にする」
「三人までだったね」
「千紘、灯さん、エイダさんに渡す。レオンは灯さんと離れないでください」
「私は構造を記録する人間です」
「だから、帰る方角を持ってる人と組む」
レオンは返事をせず、それでも灯の隣から動かなかった。
小艇が進む。
調査船のエンジン音が遠くなり、代わりに水が船底を叩く音が近くなった。
千紘はイヤホンを入れず、両耳を出している。
「境目の先、音が一つ足りない」
「何が」
「波。こっちは四方向から来てるのに、向こうには正面しかない」
灰色の膜が近づく。
海の上へ立てた壁には見えない。ただ、そこを境に波頭だけが消えていた。
エイダが速度を落とす。
「五人で入る」
誰に確認するでもなく、声に出した。
「五人で戻る。途中で一人拾えば六人だ。順番を変えるな」
船首が膜へ触れた。
色が消える。
エイダの髪も、灯の鞄も、レオンの手帳も、前から順に同じ灰色へ塗られた。
俺の右腕が境目を越え、遅れて胸と顔が入る。
冷たさはなかった。
匂いが消えた。
波音もなくなる。
小艇は、波のない灰色の海へ出た。
空には雲がなく、太陽もない。薄い明るさだけが一面に広がり、水面のすぐ下へ沈んだ都市の屋上を照らしている。
後ろを振り返ると、境目は縦に立った水の膜になっていた。
俺はそこへ左手をつけた。
通ってきた一点を選ぶ。
「道標共有」
千紘、灯、エイダの順に肩へ触れた。
――――――――――
《道標共有》Lv.1を使用しました。
共有対象:3
共有時間:10分
現在MP:840/900
――――――――――
胸の左奥に、後方を示す細い感覚が残る。
「分かる」
灯が振り返った。
「方向だけ。距離は……近い、くらい」
「私も」
千紘は膜を見ず、左耳を少し後ろへ向けている。
エイダは返事をしなかった。
操舵輪を片手で押さえ、もう一方の手を空席へ伸ばす。
「どうした」
「触るな」
空席の救命胴衣から、水が落ちていた。
俺たちが乗る前から乾いていたものだ。
肩ベルトは座面へ垂れていたはずなのに、今は人の胸を囲むように持ち上がり、留め具まで閉じている。
小艇の重量計は、六人分を示していた。




