第七十二話 名前を忘れた男
スヴァールバルから戻って十八日で、胸の痣は黄色くなった。
息を深く吸っても痛みはない。右肩は前と同じ高さで止まり、左掌の傷も薄い線だけになっている。
帰国までの移動中に、俺は未配分の百六十を筋力へ四十、耐久へ二十、敏捷へ四十、器用、感覚、精神へ二十ずつ振った。千紘も筋力へ二十、耐久へ四十、敏捷と器用へ三十ずつ、感覚と精神へ二十ずつ配分した。
増えた最大値まで戻るには、そのあと十日ほどかかった。
――――――――――
名前:大月在真
種族:竜人
種族ランク:一次進化種
レベル:36
HP:2,920/2,920
MP:900/900
筋力:700
耐久:880
敏捷:630
器用:260
感覚:210
精神:435
未配分能力値:0
スキルポイント:32
――――――――――
表示を閉じると、縁側に積んだ荷物が見えた。
防寒着は返却済みだったが、洗っても落ちなかった氷の粉を調べるため、下に着ていた服だけが密封袋に残されている。その隣には石狩の防水ケース、首都環状迷宮で使った安全帯、千紘の耳当てが二組。
攻略ごとに道具が増え、祖父の家へ戻す場所がなくなっていた。
「これ、私の部屋にも同じくらいある」
千紘が耳当ての袋を持ち上げた。
「持って帰る?」
「今から?」
「置くなら棚を増やす」
「棚を増やしたら、私の物がここにあるのが普通になるけど」
嫌なのかと思って顔を見ると、千紘は袋を持ったまま俺の返事を待っていた。
エルフへ進化した耳は、髪を下ろしていても先だけが見える。帰国してから帽子を被る回数は減ったが、近所の人が来るとまだ髪を触って確かめていた。
「もう普通だろ」
「着替えと装備だけならね」
「ほかも持ってくる?」
「そういう聞き方する?」
「何て聞けばいい」
千紘は耳当てを元へ戻した。
「そこから考えて」
怒っているわけではない。少し口元が緩んでいる。けれど助け舟を出す気もないらしい。
ガルが庭から上がり、二人の間へ鼻先を入れた。密封袋を嗅いで、すぐに顔を背ける。
「それは嫌なんだ」
千紘が袋を遠ざける。
ガルは代わりに彼女の手首を嗅ぎ、縁側へ伏せた。進化直後のような警戒はもうない。
呼び鈴が鳴った。
門の前には雨宮灯が立っていた。
救急の制服ではなく、黒いシャツと動きやすそうなパンツ姿だった。左肩に大きな医療鞄を掛け、右手には透明な保冷容器を持っている。
「久しぶり。上がっていい?」
「どうぞ」
灯は靴を脱ぐ前に、俺の胸を指した。
「先に診せて」
「もう治ってます」
「誰が言ったの」
「病院」
「ならあとで記録見る」
居間へ入った灯は、座布団より先に保冷容器を卓上へ置いた。
中には灰色の粉が入った小瓶が三本あった。
燃えた木や紙の灰とは違う。細かい粒が瓶の底へ落ちず、薄い水の中を上へ漂っている。
「灰海のもの?」
千紘が聞いた。
「もう名前を知ってるの」
「世界迷宮地図に出た。場所だけだけど」
六個目の核を収めた翌日、第零迷宮の地図へ北大西洋の一点が増えた。
海面の下に広がる灰色の空間。
表示名は《灰海迷宮》。等級はA。世界杭線はスヴァールバルのものより太く、今のところ縮んではいなかった。
灯が小瓶を一つ取り出す。
「最初は四国の沿岸迷宮。溺れかけた人の肺から出た。入口は瀬戸内で、中は普通の石造り。海もない」
次の瓶には北海道、その次にはポルトガルの地名が書かれていた。
場所も採取日も違う。
「北海道とポルトガルでも同じものが出た。燃えたものでも鉱物でもない」
「《毒性分離》にも?」
「ほとんど反応しなかった。少しだけ、白いものが分かれた」
灯は自分の端末を卓上へ置いた。
病室の映像が再生される。
ベッドに座った四十代くらいの男が、透明な板へ文字を書いていた。手首には藤堂健一と印刷された患者帯が巻かれている。
『これは読めますか』
画面の外から灯が聞く。
『藤堂。健一』
『ご家族は』
男はペンを止めた。
枕元には、小学生くらいの女の子と並んだ写真がある。
『娘さんのお名前は』
唇が何度か動いた。
声は出ない。
『顔は分かりますか』
『娘です』
『名前だけ?』
『名前だけ、何でか』
映像の灯が、小瓶へ手を置いた。
『分けられるものがあるか試します。嫌なら止めます』
男は頷いた。
次の場面では、ガーゼの上に灰色と白色の粒が分かれていた。灯が《毒性分離》を使ったあとらしい。
『藤堂さん』
男は顔を上げなかった。
『藤堂さん、聞こえますか』
『聞こえてます』
『お名前を言えますか』
患者帯を見た。
読もうとしたまま、男の目が止まる。
『これは、俺のですか』
そこで映像は終わった。
灯が端末を伏せる。
「私が悪化させた。白い方を分けたあと、自分の名前は戻った。でも娘さんの名前はまだ出ない」
灯は伏せた端末から手を離さない。
「写真を見れば娘だと分かる。好きだった食べ物も、朝に機嫌が悪いことも覚えてる」
「文字だけ消えるのか」
「私たちは最初そう考えた。でも、ポルトガルの人は自分が教師だったことを忘れた。学校の場所と、生徒の顔は覚えてる」
名前から始まり、その人を説明するものが少しずつ抜ける。
レオンの《観測》の代償を思い出した。
人間を名前より、数値や記録で見るようになる。
「レオンにも昨日見せた」
灯は一度、瓶へ目を落とした。
「私を見て、二十四歳、救急救命士、毒性分離って言った」
本人なら、雨宮灯という名前を知っている。
「すぐ戻ったけどね。観測は使ってないって言ってた」
千紘が白いイヤホンを外した。
「灰の近くにいただけで、名前が抜けた?」
「三十分くらい。だから保冷容器に入れた。これでも完全に遮断できてるかは分からない」
ガルが容器から離れ、庭へ下りた。
写真の時と同じだった。嫌な匂いを見つけた時、吠えずに距離を取る。
「灰海へ行くんですか」
俺が聞くと、灯は頷いた。
「明日の朝、北大西洋へ向かう調査船が出る。私は今夜の便で行く。呼ばれる前に申請した」
「症状を悪化させた側として?」
「そう。神崎さんと東條さんが、別々に同じ推薦を出した」
灯は小さく息を吐いた。
「二人とも先に言ってほしかったけど」
「戻れる経路は」
「船まで。迷宮内は未確認。先行した無人艇は二隻とも戻った」
灯が三つの救命胴衣を映した画面を開く。
「有人艇は三人のうち二人だけ。戻った二人は、残った一人が誰だったか思い出せない」
人数だけは三人だと記録に残っている。
映像にも、三つの救命胴衣があった。それでも氏名欄は最初から空白だったように、船の記録から一人分だけ消えていた。
灯は容器を鞄へ戻した。
「私は止めないよ。二人とも来るなら、一緒に申請する。でも、治療役がいるから大丈夫とは思わないで。今度は、私が触るほど悪くなるかもしれない」
「それでも行くんですね」
千紘が聞いた。
「行く。治せないって分かったところで、患者の横からいなくなるのは違うから」
玄関へ向かう途中、灯は縁側の荷物を跨ぎかけて止まった。
「これ、片づけないと誰か転ぶ」
「棚を増やします」
「棚の前に部屋を決めたら?」
千紘が灯を見る。
「何も言ってないです」
「そう」
灯はそれ以上聞かずに靴を履いた。
門の外へ出る前、今夜の集合場所と検査項目だけを俺たちの端末へ送る。来るかどうかは確認しなかった。
車の音が遠ざかってから、千紘は縁側の袋を一つずつ分け始めた。
「灰海、行くよ」
「俺も申請する」
「私が決める前から予定に入れてない?」
「今は聞いた」
「ぎりぎり」
耳当てとイヤホンは残す側へ置かれた。
俺の家へ。
「さっきの話だけど」
「棚?」
「違う」
言葉にしてから、帰れなかった時の約束に聞こえる気がした。
それは嫌だった。
「灰海から戻ったらじゃなくて、戻ったあとも、ここで暮らすか」
「同じじゃない?」
「戻るための約束にはしない。大学も行くし、仕事をどうするかも決める。ガルの場所も空ける」
庭でガルが顔を上げた。
「ガルはもう住んでるでしょ」
「じゃあ、俺たちの場所を決める」
千紘はすぐに頷かなかった。
押し入れを開け、祖父の布団と、俺が突っ込んだままの段ボールを見る。隣の六畳間には使っていない机が一つある。
「私、大学は卒業するよ」
「俺も、そのつもり」
「遠征に合わせて全部休む気もない」
「それも分かってる」
「家賃は」
考えていなかった。
「取るの?」
「取らないのも変でしょ」
「じゃあ決めよう」
「あと、私の家にも二人で言う」
「分かった」
「在真のお父さんにも」
そこだけ返事が遅れた。
千紘が笑う。
「今の間、覚えてるから」
端末が二台、ほとんど同時に鳴った。
灯からではない。
レオンが北大西洋の観測記録を共有していた。
音声ファイルの題名には、採取した船員三人の名前が並んでいる。
再生すると、波の音の向こうで男が点呼をしていた。
一人目。
二人目。
最後は名前を呼ばず、長く息を吸う音だけが残っていた。




