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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第十四章 雪原の世界杭

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第七十一話 六本目の楔

 青い光は靴底で止まらなかった。


 足首を囲み、薄い氷のように脛を上がってくる。冷たくはない。それなのに、光へ覆われた足だけが床より下へ沈んで見えた。


 俺は左足を引いた。靴は動いたが、青い足の像が半歩遅れて床へ残る。


「踏んでないのに始まったぞ」


「入口から後に入った人だけ」


 生きたイングリッドが周囲を見回した。先行隊七人の足元には何もなく、青い光は俺とマティアス、それに追加班の警備員だけを選んでいる。


 床下から千紘の声が返った。


『こっちも。私たち三人に出てる』


「動ける?」


『今は。でも、足音が二つする』


 千紘の靴音に重なって、少し遅れた同じ音が無線へ入った。


 俺の足元にもあった。踵を浮かせると、床の下からもう一度、硬い靴底が離れる音がする。


 退去処理。


 外へ戻すなら、こんな遅れ方はしない。


「青い線を踏んだ時、何が見えた」


 マティアスがイングリッドへ聞いた。


「入口よ。ただし、基地がなかった」


「いつの入口だ」


「分からない。雪しかなかった。空も暗かった」


 白夜の外とは違う。


 トロールの指がまた床を掻いた。黒い爪が石へ食い込み、左腕を通していた環が少しずつ抜けていく。


 押し戻しかけた楔も、白い肉に持ち上げられていた。


「話はあとだ」


 マティアスが楔へ肩を入れる。


「これを戻す。ほかの四本も押さえろ」


 先行隊はすぐには動かなかった。


 イングリッドが床の図を蹴り、銀色の楔を一本ずつ指した。


「同時じゃないと駄目。一つだけ押せば、その力で向こうが抜ける」


「工具は」


「油圧スプレッダーが二つ。ねじ式が一つ。残りはロープ」


「足りないな」


「最初から足りてない」


 マティアスが歯を見せたが、笑ってはいなかった。


 トロールの肩が盛り上がる。裂けていた皮膚の奥から新しい肉が伸び、黒い環を押し開いた。


 警備員が俺の前へ槍を出した。


「下がれ!」


 白い腕が環の隙間から振られた。


 槍の柄が折れ、警備員の身体が俺の右側へ消える。見えないまま肩をつかみ、左へ引いた。次の瞬間には、トロールの拳が胸へ当たっていた。


 息が潰れた。


 背中から床へ落ちる直前、左手を石につく。


「衝撃分散」


 胸へ入った重さが腕を抜け、床へ逃げた。


 石の下で歯車が一つ回る。


 使ってから気づいた。


 振動を床へ渡せば、環が上がる。


 右奥の楔が指一本分浮いた。


――――――――――


《衝撃分散》Lv.1を使用しました。


現在HP:2,560/2,680


現在MP:750/800


地表固定環:3/6


――――――――――


「悪い」


「生きてから謝れ!」


 イングリッドが怒鳴り、浮いた楔へロープを回した。


 胸骨の奥が息をするたび痛んだ。起き上がろうとすると、右側の床だけが一瞬遅れて近づく。


 警備員は折れた槍を捨て、自分で立った。左肩を押さえているが、指は動いている。


『在真』


 無線から聞こえた千紘の声は小さかった。


『次、床に流さないで』


「今分かった」


『遅い』


 それだけ言って、向こうで息を吸う。


『音界地図、使う。こいつの音なら叩かなくていい』


 止める間はなかった。


 トロールの胸が膨らみ、傷の内側で水を吸うような音が鳴る。千紘はその音を拾った。


――――――――――


三枝千紘が《音界地図》Lv.1を使用しました。


現在MP:560/600


――――――――――


 返事はすぐに来なかった。


 トロールの呼吸が二度続く。床下では、低い場所を水が流れるような音が長く伸びた。


『六本、別じゃない』


「何が見えた」


『環の下。全部、胸の真下でつながってる。古い方の腕も、その中に入ってる』


 生きたイングリッドが膝をつき、図へ線を引いた。六つの楔穴から中央へ伸ばした線が、トロールの胸骨の下で重なる。


「再生組織が、楔を順番に押してる」


「そこを切れば止まるか」


「今切ったら三本とも抜ける。六本目に荷重がない」


 無線の向こうで、エリサが何か言った。


『古い人が楔を入れようとしてる。でも手が抜けない』


「抜こうとするな」


 声が強くなった。


『私じゃない。あの人が自分で――』


 砂をこぼす音がした。


 無線越しでも分かるほど近い。黒い砂が細く流れ続け、その間に金属が少しずつ穴へ入っていく。


『ゴブリンが支えてる。こっちは六本目を入れる。在真たちは上の五本を戻して』


「古い方の腕は」


『まだ入ってる』


「千紘」


『分かってる。でも、離してくれない』


 そこで言葉が切れた。


 千紘が迷ったのか、古いイングリッドが動いたのかは見えない。


 マティアスは無線へ手を伸ばしかけ、その手で腰のカラビナを外した。


「ロープを全部出せ。楔を押すんじゃない。反対の環から引き合う」


 先行隊の一人が首を振る。


「一本動けば、ほかも動く」


「だから使う」


 マティアスは左奥の楔へロープを掛け、対角の黒環へ回した。


 イングリッドも説明を待たず、右奥の楔から別の環へロープを取る。油圧スプレッダーは楔を直接打たず、二本のロープを押し広げる位置へ置かれた。


 俺は立ち上がったが、マティアスに胸を押し戻された。


「お前は中央へ行け」


「まだ何も見えてない」


「見えるようにする。切るのは、そのあとだ」


 命令されたからではない。


 マティアスはもう俺を見ず、先行隊と自分たちの道具だけで五本を戻そうとしていた。


 俺が楔へ加われば、誰も中央へ行けない。


 救助斧を拾う。刃先には氷がつき、柄は拳の跡で少し曲がっていた。


 トロールの背中へ通った環は、床から二メートル近く持ち上がっている。胸の前まで行くには、その下を抜けるしかない。


「次に腕が出たら、三秒止める」


 警備員が折れた槍の残りを左手で構えた。


「三秒も要らない」


 環の外側を走り、トロールの左腕が床へ落ちる直前に踏み込む。


「空歩」


 氷のない空間へ一歩目を置いた。


 拳が床を叩き、砕けた石が下を走る。二歩目で黒い環の内側へ入り、トロールの肩を越えた。着地したのは、首と環の間に残る狭い床だった。


――――――――――


《空歩》Lv.1を使用しました。


現在MP:710/800


――――――――――


 白い皮膚の下で、肉が波打っている。


 救助斧の背を当てると、胸骨の下から六方向へ伸びる硬い筋が手へ伝わった。だが《断界》の灰色線は一本にならない。


「まだだ」


 イングリッドの声が飛ぶ。


 二台のスプレッダーが開き始め、ロープが張る。先行隊員がねじ式の器具を回し、残る二本はマティアスと警備員が体重をかけた。


 五つの楔が、ほとんど音を立てず同じ深さへ沈んでいく。


 床下からゴブリンの短い声が上がった。


『入る。六本目、入るよ』


 千紘が言った。


 古いイングリッドの腕がどうなったのかは言わなかった。


 トロールが身体を起こそうとした。六本の環が同時に軋み、その巨体を床へ引き戻す。


 胸骨の下で、散っていた六本の筋が一つへ重なった。


「今」


 千紘と、生きたイングリッドの声が重なる。


 俺は斧を捨て、露出した白い筋へ左手を押し込んだ。


「断界」


 灰色の線は途中で止まりかけた。


 欠けた右目の奥へ、冷たい針が刺さる。指が離れそうになった時、六つの楔がもう一段だけ沈み、線の先まで同じ震えが通った。


 切れた。


 トロールの再生が止まる。


 白い皮膚が崩れたのではない。新しく盛り上がっていた肉だけが色を失い、古い傷の形へ戻った。


――――――――――


《断界》Lv.1を使用しました。


現在MP:680/800


管理個体《霜環トロール》の再生経路を切断しました。


地表固定環:6/6


退去処理を中断します。


――――――――――


 足を覆っていた青い光が剥がれた。


 遅れていた足音も消える。


 トロールの胸元で、透明な氷の塊が脈を打った。


 核だった。


 黒い環は止まったが、氷の奥には細い白線が残っている。六つの楔へつながり、切れた再生経路をまた結ぼうとしていた。


「これを残せば、戻る」


 イングリッドが言った。


 マティアスは核と、壁際のオーレを見た。折れた脚の固定具には血が滲み、エリサがいない今、持ち直せる余裕は長くない。


「持ち出せば、この迷宮の核はノルウェーからなくなる」


「俺が触れば第零迷宮に入る。ここへは残せない」


「分かってる」


 地上へ確認を取る時間はなかった。


 マティアスは首元の無線を外し、先行隊のイングリッドへ渡した。


「記録しろ。現場指揮官マティアス・ベルグが、十三人の生還経路を守るため核の回収を決めた」


「十四人」


 イングリッドが言った。


 マティアスの耳がわずかに動く。


「生きて帰るのは十三人だ」


 床下から、金属が最後まで入る音がした。


 そのあとで、千紘が無線へ戻った。


『六本目、固定。古い方は……いなくなった』


「了解した」


 マティアスは目を閉じなかった。


「大月、取れ」


 俺は氷の核へ触れた。


 掌の下で、冷たさとは別の三つの感覚が開く。


 吹雪の中でも体温を失いにくい身体。


 傷口から続く再生だけを短時間止める力。


 一度通った場所の方角を、触れた相手へ渡す力。


 最初の二つも欲しくなった。


 胸の痛みは残っている。自分の傷を早く塞げる力が候補にあれば、たぶんもっと迷った。


 それでも、次にここより広い迷宮へ入れば、また全員が同じ場所にいられるとは限らない。


「道標共有」


――――――――――


スヴァールバル氷原迷宮の攻略を確認しました。


レベルが32から36へ上昇しました。


最大HPが2,680から2,920へ上昇しました。


最大MPが800から880へ上昇しました。


未配分能力値を160獲得しました。


スキルポイントを4獲得しました。


現在HP・MPは回復しません。


《継承》がLv.6へ上昇しました。


《道標共有》Lv.1を取得しました。


迷宮核を第零迷宮へ収容します。


保有迷宮核:6


――――――――――


 透明な核が掌から崩れ、冷たい粒になって消えた。


 黒い環は残った。トロールも床へ伏せたままだったが、胸も指も動かない。


 少し遅れて、千紘の方にも表示が出た。


――――――――――


三枝千紘のレベルが20から24へ上昇しました。


最大HPが1,680から1,920へ上昇しました。


最大MPが600から680へ上昇しました。


未配分能力値を160獲得しました。


スキルポイントを4獲得しました。


現在HP・MPは回復しません。


――――――――――


 青かった階段の光が白へ変わる。


 壁際に新しい表示が出た。


――――――――――


内部滞在者:13


地表への退去経路を開きます。


――――――――――


 先に戻ってきたのは千紘だった。


 膝と肘を濡らし、狭い穴から這い出す。続いてエリサ、警備員が出てきた。三人の後ろにはゴブリンが二体いたが、扉の手前で止まり、それ以上は来なかった。


 千紘は俺の胸へ一度だけ手を当てた。


「折れてない?」


「たぶん」


「その返事、信用しないから」


 エリサが横から俺を座らせ、胸へ手を入れた。息を吸わされるたび痛みが走ったが、肺の音に大きな左右差はないらしい。


 その間に、マティアスたちはオーレを搬送布へ固定していた。


 誰からという指示はなかった。先行隊が前を開け、追加班が担架を持ち、イングリッドは壁と床へ耳を当てながら白い階段を選んだ。


 俺も立とうとしたが、千紘に防寒着の襟をつかまれた。


「座ってて」


「担架がある」


「持つ人もいる」


 言い返す前に、折れた槍の警備員がオーレの足側へ入った。


 俺は借りた救助斧だけを拾った。胸へ当てると少し楽だったが、エリサに見つかってすぐ取り上げられた。


 地上までの階段は、下りてきた時より短かった。


 白い出口を抜けた時、外はまだ薄明るい。腕時計は二十三時を三分過ぎていた。


 レオンが入口前まで来て、何かを聞こうとした。


 マティアスは答えず、出てきた人数を自分で数える。


 十三人。


 最後に千紘が手袋を外した。


 掌から、割れた金属の名札が落ちる。


 拾った覚えはないと言った。


 雪の上で裏返すと、三年前の日付と、イングリッド・ソルベルグの名前が残っていた。


 生きたイングリッドが胸元から外した名札にも、同じ傷があった。

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