第七十一話 六本目の楔
青い光は靴底で止まらなかった。
足首を囲み、薄い氷のように脛を上がってくる。冷たくはない。それなのに、光へ覆われた足だけが床より下へ沈んで見えた。
俺は左足を引いた。靴は動いたが、青い足の像が半歩遅れて床へ残る。
「踏んでないのに始まったぞ」
「入口から後に入った人だけ」
生きたイングリッドが周囲を見回した。先行隊七人の足元には何もなく、青い光は俺とマティアス、それに追加班の警備員だけを選んでいる。
床下から千紘の声が返った。
『こっちも。私たち三人に出てる』
「動ける?」
『今は。でも、足音が二つする』
千紘の靴音に重なって、少し遅れた同じ音が無線へ入った。
俺の足元にもあった。踵を浮かせると、床の下からもう一度、硬い靴底が離れる音がする。
退去処理。
外へ戻すなら、こんな遅れ方はしない。
「青い線を踏んだ時、何が見えた」
マティアスがイングリッドへ聞いた。
「入口よ。ただし、基地がなかった」
「いつの入口だ」
「分からない。雪しかなかった。空も暗かった」
白夜の外とは違う。
トロールの指がまた床を掻いた。黒い爪が石へ食い込み、左腕を通していた環が少しずつ抜けていく。
押し戻しかけた楔も、白い肉に持ち上げられていた。
「話はあとだ」
マティアスが楔へ肩を入れる。
「これを戻す。ほかの四本も押さえろ」
先行隊はすぐには動かなかった。
イングリッドが床の図を蹴り、銀色の楔を一本ずつ指した。
「同時じゃないと駄目。一つだけ押せば、その力で向こうが抜ける」
「工具は」
「油圧スプレッダーが二つ。ねじ式が一つ。残りはロープ」
「足りないな」
「最初から足りてない」
マティアスが歯を見せたが、笑ってはいなかった。
トロールの肩が盛り上がる。裂けていた皮膚の奥から新しい肉が伸び、黒い環を押し開いた。
警備員が俺の前へ槍を出した。
「下がれ!」
白い腕が環の隙間から振られた。
槍の柄が折れ、警備員の身体が俺の右側へ消える。見えないまま肩をつかみ、左へ引いた。次の瞬間には、トロールの拳が胸へ当たっていた。
息が潰れた。
背中から床へ落ちる直前、左手を石につく。
「衝撃分散」
胸へ入った重さが腕を抜け、床へ逃げた。
石の下で歯車が一つ回る。
使ってから気づいた。
振動を床へ渡せば、環が上がる。
右奥の楔が指一本分浮いた。
――――――――――
《衝撃分散》Lv.1を使用しました。
現在HP:2,560/2,680
現在MP:750/800
地表固定環:3/6
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「悪い」
「生きてから謝れ!」
イングリッドが怒鳴り、浮いた楔へロープを回した。
胸骨の奥が息をするたび痛んだ。起き上がろうとすると、右側の床だけが一瞬遅れて近づく。
警備員は折れた槍を捨て、自分で立った。左肩を押さえているが、指は動いている。
『在真』
無線から聞こえた千紘の声は小さかった。
『次、床に流さないで』
「今分かった」
『遅い』
それだけ言って、向こうで息を吸う。
『音界地図、使う。こいつの音なら叩かなくていい』
止める間はなかった。
トロールの胸が膨らみ、傷の内側で水を吸うような音が鳴る。千紘はその音を拾った。
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三枝千紘が《音界地図》Lv.1を使用しました。
現在MP:560/600
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返事はすぐに来なかった。
トロールの呼吸が二度続く。床下では、低い場所を水が流れるような音が長く伸びた。
『六本、別じゃない』
「何が見えた」
『環の下。全部、胸の真下でつながってる。古い方の腕も、その中に入ってる』
生きたイングリッドが膝をつき、図へ線を引いた。六つの楔穴から中央へ伸ばした線が、トロールの胸骨の下で重なる。
「再生組織が、楔を順番に押してる」
「そこを切れば止まるか」
「今切ったら三本とも抜ける。六本目に荷重がない」
無線の向こうで、エリサが何か言った。
『古い人が楔を入れようとしてる。でも手が抜けない』
「抜こうとするな」
声が強くなった。
『私じゃない。あの人が自分で――』
砂をこぼす音がした。
無線越しでも分かるほど近い。黒い砂が細く流れ続け、その間に金属が少しずつ穴へ入っていく。
『ゴブリンが支えてる。こっちは六本目を入れる。在真たちは上の五本を戻して』
「古い方の腕は」
『まだ入ってる』
「千紘」
『分かってる。でも、離してくれない』
そこで言葉が切れた。
千紘が迷ったのか、古いイングリッドが動いたのかは見えない。
マティアスは無線へ手を伸ばしかけ、その手で腰のカラビナを外した。
「ロープを全部出せ。楔を押すんじゃない。反対の環から引き合う」
先行隊の一人が首を振る。
「一本動けば、ほかも動く」
「だから使う」
マティアスは左奥の楔へロープを掛け、対角の黒環へ回した。
イングリッドも説明を待たず、右奥の楔から別の環へロープを取る。油圧スプレッダーは楔を直接打たず、二本のロープを押し広げる位置へ置かれた。
俺は立ち上がったが、マティアスに胸を押し戻された。
「お前は中央へ行け」
「まだ何も見えてない」
「見えるようにする。切るのは、そのあとだ」
命令されたからではない。
マティアスはもう俺を見ず、先行隊と自分たちの道具だけで五本を戻そうとしていた。
俺が楔へ加われば、誰も中央へ行けない。
救助斧を拾う。刃先には氷がつき、柄は拳の跡で少し曲がっていた。
トロールの背中へ通った環は、床から二メートル近く持ち上がっている。胸の前まで行くには、その下を抜けるしかない。
「次に腕が出たら、三秒止める」
警備員が折れた槍の残りを左手で構えた。
「三秒も要らない」
環の外側を走り、トロールの左腕が床へ落ちる直前に踏み込む。
「空歩」
氷のない空間へ一歩目を置いた。
拳が床を叩き、砕けた石が下を走る。二歩目で黒い環の内側へ入り、トロールの肩を越えた。着地したのは、首と環の間に残る狭い床だった。
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《空歩》Lv.1を使用しました。
現在MP:710/800
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白い皮膚の下で、肉が波打っている。
救助斧の背を当てると、胸骨の下から六方向へ伸びる硬い筋が手へ伝わった。だが《断界》の灰色線は一本にならない。
「まだだ」
イングリッドの声が飛ぶ。
二台のスプレッダーが開き始め、ロープが張る。先行隊員がねじ式の器具を回し、残る二本はマティアスと警備員が体重をかけた。
五つの楔が、ほとんど音を立てず同じ深さへ沈んでいく。
床下からゴブリンの短い声が上がった。
『入る。六本目、入るよ』
千紘が言った。
古いイングリッドの腕がどうなったのかは言わなかった。
トロールが身体を起こそうとした。六本の環が同時に軋み、その巨体を床へ引き戻す。
胸骨の下で、散っていた六本の筋が一つへ重なった。
「今」
千紘と、生きたイングリッドの声が重なる。
俺は斧を捨て、露出した白い筋へ左手を押し込んだ。
「断界」
灰色の線は途中で止まりかけた。
欠けた右目の奥へ、冷たい針が刺さる。指が離れそうになった時、六つの楔がもう一段だけ沈み、線の先まで同じ震えが通った。
切れた。
トロールの再生が止まる。
白い皮膚が崩れたのではない。新しく盛り上がっていた肉だけが色を失い、古い傷の形へ戻った。
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《断界》Lv.1を使用しました。
現在MP:680/800
管理個体《霜環トロール》の再生経路を切断しました。
地表固定環:6/6
退去処理を中断します。
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足を覆っていた青い光が剥がれた。
遅れていた足音も消える。
トロールの胸元で、透明な氷の塊が脈を打った。
核だった。
黒い環は止まったが、氷の奥には細い白線が残っている。六つの楔へつながり、切れた再生経路をまた結ぼうとしていた。
「これを残せば、戻る」
イングリッドが言った。
マティアスは核と、壁際のオーレを見た。折れた脚の固定具には血が滲み、エリサがいない今、持ち直せる余裕は長くない。
「持ち出せば、この迷宮の核はノルウェーからなくなる」
「俺が触れば第零迷宮に入る。ここへは残せない」
「分かってる」
地上へ確認を取る時間はなかった。
マティアスは首元の無線を外し、先行隊のイングリッドへ渡した。
「記録しろ。現場指揮官マティアス・ベルグが、十三人の生還経路を守るため核の回収を決めた」
「十四人」
イングリッドが言った。
マティアスの耳がわずかに動く。
「生きて帰るのは十三人だ」
床下から、金属が最後まで入る音がした。
そのあとで、千紘が無線へ戻った。
『六本目、固定。古い方は……いなくなった』
「了解した」
マティアスは目を閉じなかった。
「大月、取れ」
俺は氷の核へ触れた。
掌の下で、冷たさとは別の三つの感覚が開く。
吹雪の中でも体温を失いにくい身体。
傷口から続く再生だけを短時間止める力。
一度通った場所の方角を、触れた相手へ渡す力。
最初の二つも欲しくなった。
胸の痛みは残っている。自分の傷を早く塞げる力が候補にあれば、たぶんもっと迷った。
それでも、次にここより広い迷宮へ入れば、また全員が同じ場所にいられるとは限らない。
「道標共有」
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スヴァールバル氷原迷宮の攻略を確認しました。
レベルが32から36へ上昇しました。
最大HPが2,680から2,920へ上昇しました。
最大MPが800から880へ上昇しました。
未配分能力値を160獲得しました。
スキルポイントを4獲得しました。
現在HP・MPは回復しません。
《継承》がLv.6へ上昇しました。
《道標共有》Lv.1を取得しました。
迷宮核を第零迷宮へ収容します。
保有迷宮核:6
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透明な核が掌から崩れ、冷たい粒になって消えた。
黒い環は残った。トロールも床へ伏せたままだったが、胸も指も動かない。
少し遅れて、千紘の方にも表示が出た。
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三枝千紘のレベルが20から24へ上昇しました。
最大HPが1,680から1,920へ上昇しました。
最大MPが600から680へ上昇しました。
未配分能力値を160獲得しました。
スキルポイントを4獲得しました。
現在HP・MPは回復しません。
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青かった階段の光が白へ変わる。
壁際に新しい表示が出た。
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内部滞在者:13
地表への退去経路を開きます。
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先に戻ってきたのは千紘だった。
膝と肘を濡らし、狭い穴から這い出す。続いてエリサ、警備員が出てきた。三人の後ろにはゴブリンが二体いたが、扉の手前で止まり、それ以上は来なかった。
千紘は俺の胸へ一度だけ手を当てた。
「折れてない?」
「たぶん」
「その返事、信用しないから」
エリサが横から俺を座らせ、胸へ手を入れた。息を吸わされるたび痛みが走ったが、肺の音に大きな左右差はないらしい。
その間に、マティアスたちはオーレを搬送布へ固定していた。
誰からという指示はなかった。先行隊が前を開け、追加班が担架を持ち、イングリッドは壁と床へ耳を当てながら白い階段を選んだ。
俺も立とうとしたが、千紘に防寒着の襟をつかまれた。
「座ってて」
「担架がある」
「持つ人もいる」
言い返す前に、折れた槍の警備員がオーレの足側へ入った。
俺は借りた救助斧だけを拾った。胸へ当てると少し楽だったが、エリサに見つかってすぐ取り上げられた。
地上までの階段は、下りてきた時より短かった。
白い出口を抜けた時、外はまだ薄明るい。腕時計は二十三時を三分過ぎていた。
レオンが入口前まで来て、何かを聞こうとした。
マティアスは答えず、出てきた人数を自分で数える。
十三人。
最後に千紘が手袋を外した。
掌から、割れた金属の名札が落ちる。
拾った覚えはないと言った。
雪の上で裏返すと、三年前の日付と、イングリッド・ソルベルグの名前が残っていた。
生きたイングリッドが胸元から外した名札にも、同じ傷があった。




