第七十話 抜けない楔
目の前のイングリッドは、無線から声が出ている間だけ唇を動かした。
『固定楔を抜かないで』
同じ形に口が開き、閉じる。声は出ない。
「イングリッド」
マティアスが無線へ返す。
『聞こえてる。そっちはどこ』
「第二環状室だ」
目の前の顔から視線を外さない。
『青い線は踏んだ?』
「避けた」
『よかった。あれは私たちを外へ出す線じゃない』
「お前が二人いる」
無線が途切れ、古いイングリッドの唇も止まった。
数秒後、雑音の向こうで生きた方が息を吐いた。
『そっちにも出たんだ』
「知っていたのか」
『第三環状室へ入る前に、一度見た。追うと消えた』
「報告しなかった」
『報告したら、あんたは私を引きずってでも戻した』
「戻ってから殴る」
『一人だけにして』
目の前の同じ顔が、同じ口の動きで言う。
マティアスの耳が伏せる。
「今、二人に増えた」
笑ったのはエリサだけだった。
無線の呼吸が近くなった。
『私たちは第三環状室。七人ともいる。オーレの脚が折れてるけど、止血はできた』
「固定楔は」
『五本。六本目は最初からなかった』
レオンの図では、固定環は六つ。
地上へ出た一つを除けば、残る五つと数は合う。
「楔を打ったから止まってるのか」
『違う。私たちが打ったんじゃない。ここにあった。一本が緩んだ時、床の下のものが動いた』
音が割れ、何か重いものを擦る音がして、無線の向こうで複数の声が上がった。
『来ないで。振動が増える』
「七人でどうやって出る」
『だから、考えてる』
「俺も考える」
マティアスは通信を切らなかった。
古いイングリッドが奥の扉へ歩く。膝が曲がるたび、防寒着の内側で黒い砂が擦れ、ゴブリンたちもその後へ続いた。
一体が振り返り、発光棒を床へ置いた。来るならここを踏めというように、青い溝から離れた場所だ。
「追うの」
警備員が聞く。
「八人目も出す」
マティアスが答えた。
「人じゃなかったら」
「外へ出してから決める」
扉は氷へ半分埋まっていた。
ゴブリンが短い刃を隙間へ入れる。別の二体が細い金属板を上下へ差し、少しずつ氷を剥がした。
叩かない。
削った氷を布へ受け、床へ落とさない。
俺たちより長く、音を出せば何が起きるか知っている。
警備員の一人が槍を畳み、空いている隙間へ刃先を入れた。ゴブリンは一度手を止めたが、追い払わなかった。
人間とゴブリンが左右から力をかけると、扉が音を立てず数センチ開いた。
向こうには二本の道があった。
正面は先行隊の新しい靴跡が続く石の通路。右は青い光と古い足跡が下へ降りている。人間なら腹をつけないと通れない高さだ。
古いイングリッドは右へ入った。
ゴブリンも四体が続く。残る二体は扉を押さえたまま、こちらを見た。
「私は右へ行く」
千紘が言った。
「狭すぎる」
「在真は角が引っかかる。マティアスさんも無理」
マティアスの丸い耳がもう一度伏せる。
「エリサと私なら通れる。あと一人」
警備員のうち、小柄な方が折り畳み槍を背へ回した。
「行く」
「通信が切れたら戻れ」
マティアスが言う。
「戻る道があれば」
千紘が先に返した。
俺を見る。
「そっちに《断界》が要る」
「こっちにも何がいるか分からないだろ」
「だから二人連れていく」
「二人で足りるのか」
「足りないかもしれない。でも、全員こっちに来たら七人の方が間に合わない」
千紘はもう無線から手を離し、二人分のロープをまとめ始めていた。止めても残る動きだった。
「三分ごとに呼べ」
「聞こえなくなる前に呼ぶ」
千紘は腹をつけ、青い道へ身体を入れた。エリサと警備員が続く。
最後尾の靴が見えなくなってから、俺たちも正面へ進んだ。
マティアス、もう一人の警備員、俺。
ゴブリン二体は扉のところに残り、両方の道を見ていた。
第三環状室まで、百メートルもなかった。
それでも途中で床が三度持ち上がった。足を置くたびではない。遠くで何かが動いたあと、遅れて石が数センチ上がる。
「足音じゃない」
警備員が天井を見る。
「下のものだ」
マティアスの声に、無線から返事が来た。
『聞こえてる』
生きたイングリッドだ。
『もう扉の前』
通路の先を白い光が横切った。
第三環状室は第一、第二より広く、六本の黒い環が床から斜めに立ち、中央で一つの檻を作っている。五本の根元には、人間の腕ほどもある銀色の楔が刺さっていた。
その檻の下に巨人がいた。白い皮膚。長い腕。背中から腰へ凍りついた灰色の毛。
人間をそのまま三倍にしたような身体が、六つの環を背中へ通され、床へうつ伏せに縫い留められている。
トロール。
裂けた皮膚の端では、薄い肉がゆっくり塞がり続けていた。
先行隊の七人は環の外側にいた。一人が壁際で脚を固定され、残る六人がロープと工具を持っている。橙色の防寒着を着た女が、こちらを見て顔を歪めた。
「遅い」
翻訳機を通さない英語だった。
「レオンにも言われた」
マティアスが近づき、イングリッドの肩を一度だけ抱いた。
殴らなかった。
「楔を見せろ」
「そこ」
五本のうち、左奥だけが半分浮いていた。
楔の下から、白い肉が押し返している。
「トロールが再生するたびに押される。打ち直すと別の環が上がる」
イングリッドが床へ図を広げる。
「六本目があれば均等に止められる。でも、最初から空だった」
無線が鳴る。
『在真、聞こえる?』
千紘の声だ。
「聞こえる」
『下に着いた。古い方が、何か持ってる』
「何を」
第三環状室の床下で、金属が擦れる。
イングリッドとマティアスが同時に足元を見た。
『大きい楔。たぶん六本目』
浮いていた左奥の楔がさらに一センチ上がり、トロールの左腕が動いた。
指先が床を掻き、黒い環全体が震えた。
「待て、今打つな」
イングリッドが無線へ叫ぶ。
床下の音は止まらない。
『打ってない』
千紘の息が近い。
『古い方が、自分の腕を楔の穴に入れてる』
左奥の楔が抜けた。
銀色の塊が床へ倒れる前に、俺は根元へ手をついた。
「係留」
黒い環と床の間に冷たい線が入る。
環は上がり続けた。腕に体重をかけても止まらない。けれど、さっきまで一気に押し出されていた楔だけが、床すれすれで傾いたまま残る。
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《係留》Lv.1を使用しました。
対象の空間固定力が使用者を上回っています。
係留時間:1.2秒
現在MP:770/800
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「戻せ!」
マティアスが楔へ飛びつく。
警備員と先行隊の二人も加わり、銀色の塊を穴へ押し戻した。
一・二秒が切れ、楔は半分まで入ったところで止まった。
トロールが顔を上げる。目は閉じたまま、口だけが開いて白い息を吐き、床と柱へ霜が走った。
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スヴァールバル氷原迷宮
管理個体《霜環トロール》の活動再開を確認しました。
地表固定環:4/6
退去処理を開始します。
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第三環状室の奥で、地上へ向かうはずの階段が青く光った。
先行隊の七人ではなく、俺たちの足元から順に。




