第六十九話 同じ顔
古い靴跡は、先行隊のあとを追っていた。
歩幅は狭く、右足だけが外へ開き、踵の跡が深い。凍って薄くなっているのに、白い柱の継ぎ目を越えるたび同じ形で残っていた。
「三年前の足跡が、どうして消えない」
警備員の一人が靴先で縁を確かめる。
「日付が三年前なだけだ」
マティアスは保存食の袋を返さなかった。胸のポケットへ折って入れ、先へ進む。
世界震動の前からここに誰かいたのか。それとも、向こう側から来た袋なのか。どちらにしても、足跡は入口から始まっていない。
第二環状室へ下りる石段の手前で、床の細い溝が青く光った。
光は俺たちの足元を避け、古い靴跡だけを追っている。
「退去経路?」
千紘がしゃがんだ。
青い光は入口と反対へ伸びていた。
「外へ出す道じゃないのか」
エリサが翻訳機を見直す。
「この迷宮にとっての外が、地上とは限らない」
千紘は指を溝へ近づけ、途中で止めた。
「音が二つある」
「光の?」
「光ってる場所の下。薄い板が重なってる」
「音界地図、使えそうか」
口にしてから、千紘の耳当てが目に入った。
千紘は俺を一度見て、耳当てを片方だけ外した。
「狭くできるか試す」
白い発光棒を石段へ横たえる。打音器ではなく、指先で一度だけ叩いた。
「音界地図」
小さな音が段の下へ落ちる。
返ってきた反響の途中で、千紘の肩が強く上がった。柱の亀裂音まで一緒に拾ったらしい。それでも耳を塞がず、発光棒をもう一度押さえた。
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《音界地図》Lv.1を使用しました。
現在MP:580/600
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「下に同じ階段がある。今の石段より、少し左」
「二重か」
「二つじゃない」
千紘は目を閉じた。
「途中から一枚増えてる。足跡が通るところだけ」
説明を待たず、マティアスが腰のロープを外した。先端の金具を石段へ置き、軽く蹴る。
金具は三段目で止まった。次に古い靴跡の上へ置くと、同じ三段目から先へ滑り、光の下へ半分沈んだ。
「道は使わない」
マティアスがロープを引き戻す。
「青い線の外を下りる」
警備員が先に動こうとしたが、エリサがその肩を引いた。
「私が先。落ちた時、一番軽い」
「医療担当だ」
「だから最後にして、全員が落ちたあと誰を診るの」
エリサはロープを自分の腰へつなぎ、青い光から右へ二歩ずれた。
マティアスは反対しなかった。
半身だけ下へ出し、石段が動かないことを確かめてから全身を移す。続いて警備員二人、千紘、俺、最後にマティアスが下りた。
第二環状室には、誰もいなかった。
先行隊の新しい足跡は中央を横切り、奥の扉へ続いている。古い一人分だけは、青い溝に沿って右へ曲がっていた。
その先に、小さな灯が六つあった。
ゴブリンが座っている。
防寒布を頭と足へ巻き、白い柱の陰へ身体を寄せていた。細い腕に金属棒や短い刃を持っているが、こちらへ向けてはいない。
六体の中央には、人間用の橙色の防寒着があった。
人が背を向けて座っているように見える。
フードは白く凍り、両腕を膝へ載せたまま動かない。
「八人目」
警備員が槍を上げた。
一番近いゴブリンが立つ。
叫ばず、金属棒で柱を一度叩く。残る五体が、それぞれ別の陰へ散った。
「構えろ」
もう一人の警備員が声を出した瞬間、頭上で氷が割れた。
銃声ではない。最初の金属音に遅れて、柱の上から白い塊が落ちてくる。
俺は千紘の腕を引いた。マティアスはエリサを押し、警備員二人は左右へ跳ぶ。
氷塊が中央へ落ちた。
床が割れ、青い溝の光が一度消える。
ゴブリンは落下前から柱の間へ逃げていた。
「警告したのか」
マティアスが救助斧を下げる。
最初の一体は答えず、氷塊の向こうへ金属棒を向けた。
崩れた床の下で、歯車のようなものが回っている。氷塊が乗るたび、黒い輪が少し上へ動いた。
「振動で上がる」
千紘が俺に引かれた腕を戻す。
「さっきの打音も」
「俺たちが動かした?」
「少しだけ」
音界地図を使えば分かることが増える。
その音で固定環も上がる。
千紘は耳当てを戻した。
柱の陰から、別のゴブリンが出てくる。腕には基地の発光棒を何本も抱えていた。
警備員が槍を下げきれないまま、マティアスへ何か言う。
翻訳機が拾う前に、ゴブリンが発光棒を一本投げた。
俺たちの前ではない。
橙色の防寒着の足元へ落ちる。
座っていた人間の右手が、ひどくゆっくり動いた。
凍りついた手袋を床へつき、立ち上がろうとする。一度失敗すると、二体のゴブリンが左右から腕を支えた。
助けている。
「武器を下げろ」
マティアスが警備員へ言う。
「生体反応がありません」
エリサが端末を向けた。
「体温も」
「それでも立ってる」
橙色の人間が、こちらを向く。
フードの内側へ雪は入っていない。
白くなった睫毛。頬へ残る細い傷。唇も皮膚も色を失っているのに、目だけが開いていた。
基地で見た名簿の写真と同じ顔だった。
「イングリッド」
マティアスの声が低くなる。
先行隊にいるはずの女だ。
胸にも同じ名札がついていた。
古い方のイングリッドは、マティアスを見ても何も言わない。
右手を持ち上げ、奥の扉を指す。
手袋の指が途中から破れ、内側にあるものが見えた。
骨ではない。黒い砂が、人の指の形を保っていた。
ゴブリンの一体がその手を隠すように、破れた防寒布を巻き直した。
「これは人間じゃない」
警備員が言う。
「迷宮は一人に数えてる」
千紘が返した。
「数えたから人間とは限らない」
「人間じゃないから撃つの」
二人の間で槍先が揺れた。
古いイングリッドが、もう一度奥を指す。
その向こうから、別の声がした。
『マティアス』
無線だった。雑音の間に、女の荒い息が入っている。
『聞こえるなら、固定楔を抜かないで』
生きている方のイングリッドの声だった。
目の前の同じ顔も、音に合わせて唇を動かした。




