第六十八話 雪の下の八人
飛行機を降りた時、太陽はまだ沈んでいなかった。時計は二十二時を過ぎている。
明るさと身体の時間が合わず、雪面へ足を置いた瞬間に少し眩暈がした。乾いた冷気が鼻の奥へ刺さり、息を吐いても白さが風に持っていかれる。
千紘は帽子の下へ薄い耳当てを二枚重ねていた。
「聞こえる?」
「聞こえすぎてはない」
「飛行機は」
「もう乗りたくない」
「帰りもあるぞ」
「今、言わなくていい」
後ろから降りてきたレオンは、滑走路へ片足を置いたところで転んだ。鞄だけは胸へ抱えたままだった。
「大丈夫か」
「人間のまま来たことを後悔しています」
起き上がる前に、雪へ落ちた眼鏡を探す。千紘が指した場所とは反対へ手を伸ばし、もう一度手袋を雪へ沈めた。
空港から観測基地までは、小型機を乗り継いだ。
窓の下に建物はない。
氷河の筋と黒い岩だけが続き、その途中に、赤い灯を並べた基地が見えてくる。写真にあった五棟のうち、一棟は屋根まで雪を被っていた。
円形遺構は、その奥にある。もう半分ではない。
黒い石の輪が地表から二メートル近くせり上がり、周囲の雪を円形に押し退けていた。輪の内側は暗く、黄色いロープが風に揺れている。
機体が止まる前に、外から一人が近づいてきた。
防寒具の襟から灰色の毛が見える。帽子の脇には人間より小さく丸い耳が出ていた。
男は俺の前を通り、先にレオンの胸を両手で押した。
「遅い」
翻訳機を通さない英語だった。
レオンも英語で何か返す。二人とも声を上げたが、殴り合う様子はない。千紘が俺の袖を引いた。
「知り合いみたい」
「仲がいいようには見えないけどな」
「あれで心配してた音」
男はレオンをもう一度押してから、こちらを向いた。
胸の名札には《マティアス・ベルグ》。現地救助隊の責任者だった。
「オオツキ」
「大月在真」
「マティアスでいい。イングリッドは、私の命令を無視した」
翻訳機の日本語は平らだったが、最後だけ本人の声が低くなった。
「あなたも命令を無視すると聞いている」
「内容による」
「なら、私と同じだ」
握手はなかった。
マティアスは俺の角を一度見ただけで歩き始めた。
基地の作戦室では、七人分の生体反応が一枚の画面へ並んでいた。
イングリッド・ソルベルグ。
救助隊員二人、軍の警備員二人、技術者一人、医療担当一人。最後に通信した位置は、入口から地下四百メートルの《第三環状室》。
全員の心拍はある。八つ目だけ、名前がなかった。
心拍も体温も表示されず、《内部滞在》という文字だけが点いていた。
「最初からあったのか」
「七人が第二環状室へ入った時に増えた」
マティアスが画面を巻き戻す。
七だった数字が、一瞬だけ欠けて八になる。人が境界を通った映像はない。
「迷宮が送った写真は」
「今まで三枚。内部のカメラは全部切れている」
「助けを呼んでる?」
千紘が聞く。
「呼ばれたから入った」
「そうじゃなくて、迷宮の方」
マティアスは答えず、机の上に装備を置いた。
短い救助斧、折り畳み式の槍、白い発光棒。どれも厚い手袋のまま扱える。
「核は持ち出さない」
俺へ救助斧を渡しながら言う。
「ただし、七人を出すために必要なら、私が停止を決める。外から変更はさせない」
「八人目は」
「人なら八人出す」
言い切ったあと、マティアスは画面の名前のない欄を消さなかった。
レオンが鞄から濡れていない紙を出す。
「最深部の共通空白は、第三環状室の下です。前の図では六つの輪が地盤へ接していました」
「今は五つだ」
壁の映像に、地下断面が出る。
黒い輪のうち一つが雪の上へ出ている。最下部の一本は途中で切れ、残る四本も少しずつ上へ動いていた。
「全部抜けるまで」
「今の速度なら十八時間」
マティアスは端末を閉じた。
「外の十六人は次の便で離す。私たちはその前に入る」
「あなたも?」
レオンが聞いた。
「イングリッドに、次は殴ると言った」
「それを伝えるためですか」
「生きていれば伝えられる」
作戦室を出ると、入口の周りで二人がロープを外していた。
固定杭が雪ごと持ち上がり、もう役に立っていない。一本を抜いた隊員が、穴へ落とさず自分の腰へ巻き直す。
誰かの指示を待った動きではなかった。
俺たちは六人で入った。
マティアス、現地の医療担当であるエリサ、警備員二人、俺と千紘。
レオンは入口まで来たが、マティアスが胸を押して外へ戻した。
「図は中で変わる。私が必要です」
「生きて戻った七人が、変わった図を持ってくる」
「持ってこなかった時は」
「その時、あなたが次を考える」
レオンは口を固く結び、マティアスから目を逸らさなかった。
それでも、前へ出なかった。
黒い輪の内側へ入る。
雪の斜面が五メートルほど続き、その先で石段へ変わった。壁は黒い石ではなく、氷に埋まった白い柱でできている。
柱の間に、人間の顔ほどの青い塊が動いた。
「スライム」
警備員が槍を構える。
一体ではない。氷の表面が次々に膨らみ、透明な身体が柱から剥がれ落ちる。床へ落ちると平たく広がり、六人の靴を囲むように動いた。
「熱を使うな」
マティアスが先に言った。
警備員が持ちかけた発熱筒を戻す。
「溶けた水が下の輪へ入る」
マティアスは救助斧を逆手に持ち、刃ではなく背を床へ当てた。
青いスライムが集まる前へ、削った雪を押し出す。
冷えた身体が雪を取り込み、動きが鈍った。
「凍らせるのか」
「ここの個体は、液体より雪を食べる」
俺も斧の背で雪を寄せた。
二体がそちらへ流れる。警備員は槍先を深く刺さず、内部の青い魔石だけを横から押し割った。
残る一体が千紘の足へ伸びる。
千紘は後ろへ跳ばなかった。
白い発光棒を床へ落とし、光へ寄った身体の端を踏む。厚い靴底の下で、透明な膜だけが広がった。
「左。核、端にある」
エリサが救助斧を差し込み、魔石を雪ごと掬い出す。
青い身体が崩れた。
「音界地図は?」
俺が聞く。
「まだ使ってない」
千紘は耳当ての上から左耳を押さえた。
「この部屋、使ったら全部入ってきそう」
白い柱の中で、細い亀裂がいくつも鳴っている。
地上で聞く氷河の音より近い。一つが割れるたび、別の柱から遅れて同じ音が返った。
第一環状室の扉は開いていた。
床にゴブリンの足跡がある。
人間用の防寒布を細く裂き、足へ巻いているらしい。壁際には空になった保存食の袋と、噛み切られた発光棒が残っていた。
「先に入った隊が落としたものか」
警備員が袋を拾う。
エリサが首を振った。
「この日付、基地で使ってない。三年前」
世界震動より前だ。
袋の文字はノルウェー語だった。
千紘がしゃがみ、足跡の横へ指を置く。
「ゴブリン、六体くらい。人の足もある」
「七人の?」
「新しいのは七人」
さらに奥には、凍って薄くなった古い靴跡が一人分だけ続いていた。
その靴跡には、入ってきた向きがない。
第一環状室の中央から始まり、先行した七人と同じ方向へ伸びている。
壁の表示が点いた。
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スヴァールバル氷原迷宮
内部滞在者:14
地表固定環:5/6
未登録滞在者を、退去経路へ誘導します。
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「十四?」
警備員が声を上げた。
先に入った七人と、俺たち六人。名前のない八人目を足せば、十四になる。
人数は合う。人間かどうかだけが、表示されていなかった。




