第六十七話 門を通る
世界迷宮地図の雪原から、白い線がまた少し短くなった。最初に見た時は壁の目地二つ分あったものが、翌朝には一つ半まで減っている。
「六時間で十一パーセント」
レオンが壁へ透明な定規を当てた。
「画像の拡大率は固定しました。表示自体が縮んでいます」
「抜けたらどうなる」
「分かりません」
答えは早い。
「ただ、三年前の資料では世界杭を《地表層の固定》と訳しています。固定がなくなるなら、地表側に何か起きる」
「何か、ね」
父が座布団の上で胡坐を組み直した。
核保管室へ持ち込んだ折り畳み机には、ノートパソコンが三台並んでいる。東條は東京から画面越しに参加し、千紘は壁際でイヤーマフの位置を直していた。
進化から三日。
食事中に冷蔵庫の作動音で箸を止めることは減った。代わりに、俺が聞こえない音へ顔を向ける回数が増えている。
俺も千紘も、HPとMPの数値だけは最大まで戻った。右脇腹を捻ればまだ痛み、千紘の耳も休めば治るというものではない。
「現地から来た位置情報は、スヴァールバル諸島北東部の氷河観測基地でした」
レオンが地図を切り替えた。
白い地形の中央に、赤い円がある。円の脇には低い建物が五棟と、雪へ半分埋まった円形遺構。映像で見た入口だった。
「送信者はイングリッド・ソルベルグ。地質調査官で、私が共有した資料を最初に保存した一人です」
『連絡は』
東條の声がスピーカーから少し割れた。
「三時間前に切れました。最後の文章は《下の輪が地面から離れた》」
画面に短い英文と翻訳が出る。
その下には、基地側が独自につけた名簿があった。地上待機十六人。迷宮内部七人。負傷者一人。
「中へ入った七人に、ソルベルグさんも?」
千紘が聞く。
「はい」
「何で地質調査官が」
「入口を三か月測った人だからです。入るなとは伝えました」
「聞く人なら、あなたの資料を保存してないんじゃない」
レオンは否定しなかった。
東條の画面へ、新しい参加者が入る。
ノルウェー側の担当者だった。名前の下へ日本語字幕が出るまで少し間があり、その間にも男は話し続けた。
『大月氏の協力は求めます。ただし、迷宮核の国外移送は認めません』
「救助が先だ」
『承知しています。攻略後の核は現地政府が管理します』
「持って帰らないと、帰路を作れない場合がある」
『石狩で使った能力については報告を受けています。核を第零迷宮へ送る以外の方法を検討してください』
「検討してる間に線が短くなる」
通訳字幕が追いつく前に、相手の表情が硬くなった。
レオンが横から口を挟む。
「条件を一つ変えましょう。回収を許可するのではなく、現場指揮官に緊急停止手段を選ぶ権限を渡してください」
『あなたには発言権がありません』
「知っています。だから提案だけです」
東條が額を押さえた。
『大月君。日本政府として、核を必ず持ち帰るとは約束できない』
「俺も、必ず持ち帰るとは言ってない」
『なら、行くのか』
地図の白線を見る。
中には七人いる。地上の十六人も、固定が外れた時に安全とは限らない。
「行く。ただし、向こうの指揮官が退けと言ったら退く。核を使わないと全員帰れない時は、その場で決める」
ノルウェー側の男は何か言いかけ、口を閉じた。
『現地責任者へ伝えます』
話がまとまったわけではない。
それでも画面から男が消えると、東條は輸送計画を開いた。
『羽田を今夜出る。国内移動は車両を回すが――』
「門を試す」
俺が言うと、父が黒い門を見た。
『人でか』
「最初は荷物」
『誰の許可で』
「こっちの入口は俺の家。向こうは第三換気坑の管理区域だろ。両方で立ち会えばいい」
東條は十秒ほど黙った。
『試験用の箱を送る。人の通過は、その結果を見てからだ』
「分かった」
通話が終わる。
ガルは核保管室の入口に伏せたまま、雪原の映像を見ていなかった。北海沿岸の首輪写真を出してからは、レオンの端末へも近づかない。
「ガル」
片耳だけが動いた。
「今回は行かない。ここにいてくれ」
顔は上がらない。
行かないと自分で決める前に、俺が決めた。
言い直そうとすると、ガルが立ち上がった。門ではなく、世界迷宮地図の北側へ歩く。
雪原の点を嗅ぎ、そのまま北海沿岸の別の点へ鼻先を移した。
二つは離れている。
ガルは雪原には反応せず、首輪があった方だけで歯を見せた。
「そっちへ行きたいのか」
低く喉が鳴る。
今度は命令せず、その低い音が途切れるまで待った。
三時間後、第三換気坑側の準備が整った。
国内転移門の前へ、父が園芸用の台車を押してくる。荷台には東條から指定された樹脂箱、水を半分入れた透明容器、温度計、無線機が固定されていた。
「落ちたら弁償、誰?」
「お前」
「押すだけで?」
「家の台車だろ」
父は不満そうに箱の固定帯を引いた。
千紘がイヤーマフを首へずらし、門の前へ立つ。
「向こうの音はまだしない」
「開けてないからな」
「だから、開いた瞬間を聞く」
俺が《首都環状迷宮 第三換気坑接続境界》を選ぶ。
――――――――――
《国内転移門》を起動します。
接続先:
首都環状迷宮 第三換気坑接続境界
接続維持時間:180秒
同一境界への再接続:24時間後
未確認者の通過安全を保証しません。
――――――――――
黒い門の内側へ、物置から百キロ以上離れた換気坑のコンクリート壁が現れた。
向こう側で、白い防護服の人間が三人こちらを見ている。中央に東條がいた。
『見えてる』
門越しの声と、机のスピーカーから届く声が少しずれた。
「私も」
千紘が耳を押さえる。
「二重に来る。通話、切って」
レオンがノートパソコンの音声を止めた。
父が台車を押す。
前輪が黒い境目へ入っても、箱は傾かなかった。透明容器の水面だけが一度揺れ、そのまま換気坑の床へ出る。東條が温度計と封印を確認した。
「戻すぞ」
向こうから押し返された台車は、同じ向きで核保管室へ戻った。
箱の表面温度は一度下がっている。封印、時計、水量に変化はなく、無線機だけが通過した瞬間の記録を失っていた。
「人は」
東條が門の向こうで聞く。
「俺から行く」
「待って」
千紘が俺の上着をつかんだ。
「向こうの発電機、止められる?」
東條が後ろを振り返る。換気坑の送風機が止まり、門の奥の音が減った。
「これなら大丈夫」
「お前はあとでもいい」
「あとで通ったら、誰が違いを聞くの」
俺は先に境目へ左足を入れた。
温度が変わる。
胸と背中だけが一拍遅れて引かれ、次の瞬間には換気坑の床へ立っていた。右脇腹に痛みは出ない。
「問題ない」
振り返る。
門の向こうで、千紘が父にイヤーマフを渡していた。
「持って行かないのか」
「通る音が分からなくなるから」
千紘は自分で門へ入った。
境目の中央で足を止める。
右手はこちら側へ出ているのに、左肩から先はまだ第零迷宮に残っていた。
「千紘?」
「聞こえる」
「何が」
「後ろ」
門の維持時間が減っていく。
「いったん出ろ」
千紘は前へ踏み出した。
全身が換気坑側へ出た瞬間、膝へ手をつく。俺が腕を取る前に、自分で壁へ肩を当てた。
「閉じても、後ろに音が残ってる」
門の中には、まだ核保管室が見えている。
ガルは父の横にいなかった。
世界迷宮地図の北側へ座り、こちらを見ている。
残り二十秒で、レオンが大きな鞄を抱えて門を通った。最後に父が台車だけをこちらへ押し出し、自分は第零迷宮側へ残る。
「留守番、二回目な」
「肉は買い足しとけ」
「財布の話、聞いてた?」
門が狭くなる。
閉じる直前、ガルは俺ではなく地図へ顔を戻した。
黒い面が消え、換気坑の壁になる。
千紘はそこへ耳をつけたまま、しばらく離れなかった。
「まだ聞こえるのか」
「ううん。今、消えた」
答えたあとも、耳は壁についたままだった。
その夜、羽田の格納庫で防寒装備を受け取った。
俺の上着だけ、角と背中の鱗を避けるため縫い目が開け直されている。千紘は厚い帽子を一度被り、耳へ当たる場所を指で押してすぐ脱いだ。
レオンの端末が震えた。
位置情報を送ったイングリッドではなく、現地基地の共用回線からだった。
表示された写真には、雪へ半分埋まっていた円形遺構が写っている。
昨日より高い。入口だけではなく、黒い石の輪が地表へせり上がっていた。その内側に、七人分の安全灯が小さく並んでいる。
レオンが写真を拡大する。
「これは外から撮ったものではありません」
「じゃあ、誰が」
「迷宮が、基地の端末へ送っています」
写真の下に、数字が一つ増えた。
地上待機者十六人。
迷宮内部、八人。




