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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第十四章 雪原の世界杭

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第六十六話 世界迷宮地図

 B-11へ戻った時、久保田の担架はもう四人で持ち上げられていた。


 真鍋は別の担架で横になり、酸素マスクの下から何度も咳をしている。自分で歩けると言ったらしいが、高城が返事をしなかった。


 俺が久保田の足側へ手を伸ばすと、柴田に手首を押さえられた。


「その手で持つ気か」


 左の掌はガーゼを当てても血が滲んでいた。右腕も脇腹を庇うと肩より上へ動かない。


「後ろを見るくらいならできる」


「じゃあ、それ。担架には触るな」


 黄色い誘導索を渡された。軽いはずの索が、右脇腹を通して背中まで響く。持てないと言われたことより、持ってみれば分かったことの方が腹立たしかった。


 千紘が久保田の頭側へ回る。


「私、代わります」


「そっちも顔色悪いぞ」


「顔色は前からです」


 柴田が一度だけ千紘を見て、担架の横を空けた。持たせたのは取っ手ではなく、久保田の首が揺れないよう支える役だった。


 十二人で、上がった隔壁を戻る。


 七環クラーケンが止まっても、水はすぐには引かなかった。太腿まで残った場所では、一歩ごとに誰かの装備が鳴る。さっきまで九秒ごとに消えていた音が、今は多すぎるほど耳へ入った。


 三つ目の隔壁を抜ける直前、床が横へずれた。


「止まれ」


 尾崎の声と担架の傾きが重なる。


 久保田の足側が、半分閉じた隔壁へ寄っていく。四人が踏ん張ったが、水の中では靴底が滑った。


 俺は誘導索を離し、担架の脚へ左手を当てた。


「係留」


 指の下から、冷たい線が床へ沈む。


 担架は止まらなかった。


 横へ押されながら、それでも隔壁の方へ流れる速さだけが落ちる。


「今」


 尾崎たちが担架を引き戻した。


 床のずれが終わるより先に、指の下の冷たさが切れた。三秒もなかったと思う。二秒か、それより短い。


――――――――――


《係留》Lv.1を使用しました。


対象重量と空間干渉により、係留時間が短縮されました。


現在MP:490/800


――――――――――


 止める能力ではない。説明に書いてあった通りなのに、担架が動いた瞬間は失敗したと思った。あの短い遅れがなければ、久保田の脚は隔壁へ挟まれていた。


「使える?」


 千紘が担架の向こうから聞く。


「三秒もたない」


「でも、間に合った」


 それ以上は話さず、また歩いた。


 地上へ出たのは、十五時三十七分だった。入口前の照明が、水面へ白く滲んでいる。外の音が戻った途端、発電機と無線と車の扉が一度に鳴り、頭の奥まで振動した。


 久保田と真鍋は、そのまま救急車へ運ばれた。


 真鍋が担架から右手を上げる。高城がつかむと、何か言おうとしてまた咳き込んだ。扉が閉じても、高城はしばらく手を上げたままだった。


 俺たちも仮設の医療所へ入れられ、左の掌を洗われ、膝裏の吸盤痕を数えられた。右脇腹へ超音波の器具を当てられた時は息が止まったが、今すぐ搬送するほどではないと言われた。


「今すぐじゃないだけですからね」


 看護師はそう言って、診療所で撮影を受けるよう紙へ時刻を書いた。


 隣の区画では、尾崎が東條と電話していた。


 石狩湾港迷宮核は第零迷宮から取り出せない。今は移動も破壊もせず、共同攻略記録を確定するまで現状を保つ。その言葉だけが、薄い仕切り越しに何度か繰り返された。


 誰のものかは決まっていない。


 けれど、もう俺の家の裏にある。


 決める順番が逆になったことを、誰も簡単には飲み込めないらしい。


 レオンは簡易椅子へ座り、透明な袋へ入れられた端末を膝に置いていた。


「送ってないのか」


「条件でしたから」


「守るんだな」


「守らない条件は、自分で選びます」


 紙の地図は濡れて角が丸まり、黒いペンの線も滲んでいた。それでも七つ目だけは読める。能力が切れたあと、自分の手で残した線だ。


 俺が見ていることに気づくと、レオンは紙を裏返した。


「これは、まだ尾崎さんの記録です」


 勝手に公開した男が言うので、少し笑いそうになった。


 向かいの長椅子で、千紘が耳の後ろへ指を入れていた。


「痛いのか」


「候補を見てる」


「ここで?」


「ここだから。何かあったら人がいるし」


 救助中には選ばなかった。外へ出た途端に選ぶのも、千紘らしいのかどうか分からない。


 俺が隣へ座ると、千紘は三つの候補をこちらにも見せた。


――――――――――


進化候補:


《エルフ》

 感覚、器用、MPとの適合が高い。

 環境情報の精密な受容に適性を持つ。


《獣人》

 敏捷、感覚、回復との適合が高い。

 追跡と危険察知に適性を持つ。


《魔人》

 精神、MP、複数技能との適合が高い。

 異層環境と技能の並行使用に適性を持つ。


選択した進化は変更できません。


――――――――――


「獣人も合いそうだけど」


「うん。傷が治りやすいのは、ちょっと迷った」


「魔人は?」


「知らない場所に馴染みすぎるの、たぶん私には怖い」


 言い終えてから、千紘は《エルフ》へ指を置いた。


「耳なら怖くないのか」


「怖いよ。今でも聞きたくないものまで聞こえるし」


 指はまだ離れない。


「でも、聞こえたあとでどうするかは、私が決められるから」


 決定へ触れた。


 千紘の肩が跳ねる。


 耳を押さえようとした手が、途中で止まった。首筋から耳の後ろへ薄い光が走り、髪の間で耳の先が少しだけ伸びる。


――――――――――


一次種族進化を実行しました。


種族:人間 → エルフ

種族ランク:基本種 → 一次進化種


種族特性《精聴》を取得しました。

種族特性《環境同調》を取得しました。


現在HP:1,320/1,680

現在MP:380/560


既存の負傷は回復しません。


――――――――――


 千紘が息を吸ったまま動かなくなった。発電機。酸素ボンベの弁。仕切りの向こうで剥がされるテープ。遠くの岸壁へ当たる波。


 俺にも聞こえる音の間に、何が増えたのかは分からない。


「千紘」


 返事がない。


 肩へ触れると、強くつかみ返された。


「もう一回」


「何を」


「名前」


「千紘」


 指の力が少し抜けた。


「それは前と同じ」


 笑ったようにも見えたが、すぐ眉を寄せた。看護師が持ってきたイヤーマフを両耳へ当てても、完全には消えないらしい。


 進化を選んだことを喜ぶより先に、どの音なら耐えられるかを一つずつ試すことになった。


 未配分の八十は、耐久と器用へ二十ずつ、精神へ四十。


 感覚には一つも入れなかった。


――――――――――


能力値を配分しました。


筋力:100 → 100

耐久:230 → 250

敏捷:230 → 345

器用:200 → 440

感覚:290 → 725

精神:240 → 560


最大HP:1,680 → 1,680

最大MP:560 → 600


現在HP:1,320/1,680

現在MP:380/600


未配分能力値:0


――――――――――


 二日後、俺たちは久世へ戻った。


 久保田と真鍋は入院したままだが、どちらも意識を取り戻したと尾崎から連絡があった。核については《搬出不能のため現状保全》という、何も決めていないのに決まったような文面が届いた。


 祖父の家へ入ると、台所から父が顔を出した。


「おかえり。先に言っとくけど、冷蔵庫の肉、半分ガルだから」


「半分で済んだのか」


「俺の財布は済んでない」


 庭にいたガルは、俺ではなく千紘の前で止まった。


 鼻先を上げ、耳を伏せる。


「私」


 千紘が防音の覆いを片方だけ外した。


「分かる?」


 ガルはすぐには近づかなかった。匂いを確かめるように二度息を吸い、それから千紘の手首へ鼻をつける。父が台所から出てきた時には、もう縁側へ上がっていた。


「何か変わった?」


「種族」


「そうじゃなくて、見れば分かる方」


 千紘が髪を耳へ掛ける。


 父は尖った先を見て、台所へ戻った。


「夕飯、魚にしといてよかった」


「何で」


「エルフって肉食うのか分からん」


「食べるよ」


 返事だけは、進化前と変わらなかった。


 物置の奥では、五つの核がそれぞれ違う光を床へ落としていた。


 右壁に、黒い門が増えている。


 開いた内側に景色はなく、行き先の文字だけが並んでいた。


――――――――――


《国内転移門》


利用可能な接続境界:

 第零迷宮 現実側接続点

 沈降駅迷宮 地表境界

 樹海反転迷宮 地表境界

 首都環状迷宮 第三換気坑接続境界

 石狩湾港迷宮 地表境界


未確認の接続境界、迷宮内部、移動中の空間層は指定できません。


――――――――――


「石狩まで、ここから行けるのか」


 父が門の縁へ顔を寄せる。


「まだ使うな」


「顔近づけただけ」


「それで入ったことがある」


 父は一歩下がった。


 核保管室の反対側には、低い円形の部屋ができていた。


 床へ足を入れると、暗い壁一面に光がつく。日本列島だけを映していた地表接続概況とは違う。曲面の壁が海と大陸をつなぎ、無数の点が地球を覆った。


 青、黄、赤。


 消えかけたものも、同じ場所で二つに分かれているものもある。


 俺たちが止めた石狩湾港迷宮は、消えていなかった。青い点の下へ、細い白線が一本残っている。


「通常迷宮は残る」


 千紘が小さく言った。


 レオンは返事をせず、壁へ近づいた。


 六つの公開資料にあった地点へ、順番に指を置いていく。雪原、海上掘削施設、地下鉱山、赤い峡谷、廃空港、水没都市。


 触れた点の下に細長い影が現れ、六つとも地下の深い場所で同じ方向へ伸びていた。


 そのうち雪原の一点だけが、赤と黄の間で点滅していた。


「昨日は安定判定でした」


 レオンが端末を出す。


 権限は戻っていない。連絡先の一覧を下へ送り、一人の名前で止めた。


「誰だ」


「私の資料を、最初に消さず保存した人です」


 呼び出し音は長く続いた。


 三度目で切れ、代わりに短い文字が届く。


 レオンが翻訳画面を開く前に、千紘が壁の音を聞いていた。


「この点、点滅してるんじゃない」


 雪原の下で、白い線が少しずつ短くなっている。


「抜けかけてる」


 レオンの端末に、二通目が届いた。


 今度は位置情報だけだった。

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