第六十六話 世界迷宮地図
B-11へ戻った時、久保田の担架はもう四人で持ち上げられていた。
真鍋は別の担架で横になり、酸素マスクの下から何度も咳をしている。自分で歩けると言ったらしいが、高城が返事をしなかった。
俺が久保田の足側へ手を伸ばすと、柴田に手首を押さえられた。
「その手で持つ気か」
左の掌はガーゼを当てても血が滲んでいた。右腕も脇腹を庇うと肩より上へ動かない。
「後ろを見るくらいならできる」
「じゃあ、それ。担架には触るな」
黄色い誘導索を渡された。軽いはずの索が、右脇腹を通して背中まで響く。持てないと言われたことより、持ってみれば分かったことの方が腹立たしかった。
千紘が久保田の頭側へ回る。
「私、代わります」
「そっちも顔色悪いぞ」
「顔色は前からです」
柴田が一度だけ千紘を見て、担架の横を空けた。持たせたのは取っ手ではなく、久保田の首が揺れないよう支える役だった。
十二人で、上がった隔壁を戻る。
七環クラーケンが止まっても、水はすぐには引かなかった。太腿まで残った場所では、一歩ごとに誰かの装備が鳴る。さっきまで九秒ごとに消えていた音が、今は多すぎるほど耳へ入った。
三つ目の隔壁を抜ける直前、床が横へずれた。
「止まれ」
尾崎の声と担架の傾きが重なる。
久保田の足側が、半分閉じた隔壁へ寄っていく。四人が踏ん張ったが、水の中では靴底が滑った。
俺は誘導索を離し、担架の脚へ左手を当てた。
「係留」
指の下から、冷たい線が床へ沈む。
担架は止まらなかった。
横へ押されながら、それでも隔壁の方へ流れる速さだけが落ちる。
「今」
尾崎たちが担架を引き戻した。
床のずれが終わるより先に、指の下の冷たさが切れた。三秒もなかったと思う。二秒か、それより短い。
――――――――――
《係留》Lv.1を使用しました。
対象重量と空間干渉により、係留時間が短縮されました。
現在MP:490/800
――――――――――
止める能力ではない。説明に書いてあった通りなのに、担架が動いた瞬間は失敗したと思った。あの短い遅れがなければ、久保田の脚は隔壁へ挟まれていた。
「使える?」
千紘が担架の向こうから聞く。
「三秒もたない」
「でも、間に合った」
それ以上は話さず、また歩いた。
地上へ出たのは、十五時三十七分だった。入口前の照明が、水面へ白く滲んでいる。外の音が戻った途端、発電機と無線と車の扉が一度に鳴り、頭の奥まで振動した。
久保田と真鍋は、そのまま救急車へ運ばれた。
真鍋が担架から右手を上げる。高城がつかむと、何か言おうとしてまた咳き込んだ。扉が閉じても、高城はしばらく手を上げたままだった。
俺たちも仮設の医療所へ入れられ、左の掌を洗われ、膝裏の吸盤痕を数えられた。右脇腹へ超音波の器具を当てられた時は息が止まったが、今すぐ搬送するほどではないと言われた。
「今すぐじゃないだけですからね」
看護師はそう言って、診療所で撮影を受けるよう紙へ時刻を書いた。
隣の区画では、尾崎が東條と電話していた。
石狩湾港迷宮核は第零迷宮から取り出せない。今は移動も破壊もせず、共同攻略記録を確定するまで現状を保つ。その言葉だけが、薄い仕切り越しに何度か繰り返された。
誰のものかは決まっていない。
けれど、もう俺の家の裏にある。
決める順番が逆になったことを、誰も簡単には飲み込めないらしい。
レオンは簡易椅子へ座り、透明な袋へ入れられた端末を膝に置いていた。
「送ってないのか」
「条件でしたから」
「守るんだな」
「守らない条件は、自分で選びます」
紙の地図は濡れて角が丸まり、黒いペンの線も滲んでいた。それでも七つ目だけは読める。能力が切れたあと、自分の手で残した線だ。
俺が見ていることに気づくと、レオンは紙を裏返した。
「これは、まだ尾崎さんの記録です」
勝手に公開した男が言うので、少し笑いそうになった。
向かいの長椅子で、千紘が耳の後ろへ指を入れていた。
「痛いのか」
「候補を見てる」
「ここで?」
「ここだから。何かあったら人がいるし」
救助中には選ばなかった。外へ出た途端に選ぶのも、千紘らしいのかどうか分からない。
俺が隣へ座ると、千紘は三つの候補をこちらにも見せた。
――――――――――
進化候補:
《エルフ》
感覚、器用、MPとの適合が高い。
環境情報の精密な受容に適性を持つ。
《獣人》
敏捷、感覚、回復との適合が高い。
追跡と危険察知に適性を持つ。
《魔人》
精神、MP、複数技能との適合が高い。
異層環境と技能の並行使用に適性を持つ。
選択した進化は変更できません。
――――――――――
「獣人も合いそうだけど」
「うん。傷が治りやすいのは、ちょっと迷った」
「魔人は?」
「知らない場所に馴染みすぎるの、たぶん私には怖い」
言い終えてから、千紘は《エルフ》へ指を置いた。
「耳なら怖くないのか」
「怖いよ。今でも聞きたくないものまで聞こえるし」
指はまだ離れない。
「でも、聞こえたあとでどうするかは、私が決められるから」
決定へ触れた。
千紘の肩が跳ねる。
耳を押さえようとした手が、途中で止まった。首筋から耳の後ろへ薄い光が走り、髪の間で耳の先が少しだけ伸びる。
――――――――――
一次種族進化を実行しました。
種族:人間 → エルフ
種族ランク:基本種 → 一次進化種
種族特性《精聴》を取得しました。
種族特性《環境同調》を取得しました。
現在HP:1,320/1,680
現在MP:380/560
既存の負傷は回復しません。
――――――――――
千紘が息を吸ったまま動かなくなった。発電機。酸素ボンベの弁。仕切りの向こうで剥がされるテープ。遠くの岸壁へ当たる波。
俺にも聞こえる音の間に、何が増えたのかは分からない。
「千紘」
返事がない。
肩へ触れると、強くつかみ返された。
「もう一回」
「何を」
「名前」
「千紘」
指の力が少し抜けた。
「それは前と同じ」
笑ったようにも見えたが、すぐ眉を寄せた。看護師が持ってきたイヤーマフを両耳へ当てても、完全には消えないらしい。
進化を選んだことを喜ぶより先に、どの音なら耐えられるかを一つずつ試すことになった。
未配分の八十は、耐久と器用へ二十ずつ、精神へ四十。
感覚には一つも入れなかった。
――――――――――
能力値を配分しました。
筋力:100 → 100
耐久:230 → 250
敏捷:230 → 345
器用:200 → 440
感覚:290 → 725
精神:240 → 560
最大HP:1,680 → 1,680
最大MP:560 → 600
現在HP:1,320/1,680
現在MP:380/600
未配分能力値:0
――――――――――
二日後、俺たちは久世へ戻った。
久保田と真鍋は入院したままだが、どちらも意識を取り戻したと尾崎から連絡があった。核については《搬出不能のため現状保全》という、何も決めていないのに決まったような文面が届いた。
祖父の家へ入ると、台所から父が顔を出した。
「おかえり。先に言っとくけど、冷蔵庫の肉、半分ガルだから」
「半分で済んだのか」
「俺の財布は済んでない」
庭にいたガルは、俺ではなく千紘の前で止まった。
鼻先を上げ、耳を伏せる。
「私」
千紘が防音の覆いを片方だけ外した。
「分かる?」
ガルはすぐには近づかなかった。匂いを確かめるように二度息を吸い、それから千紘の手首へ鼻をつける。父が台所から出てきた時には、もう縁側へ上がっていた。
「何か変わった?」
「種族」
「そうじゃなくて、見れば分かる方」
千紘が髪を耳へ掛ける。
父は尖った先を見て、台所へ戻った。
「夕飯、魚にしといてよかった」
「何で」
「エルフって肉食うのか分からん」
「食べるよ」
返事だけは、進化前と変わらなかった。
物置の奥では、五つの核がそれぞれ違う光を床へ落としていた。
右壁に、黒い門が増えている。
開いた内側に景色はなく、行き先の文字だけが並んでいた。
――――――――――
《国内転移門》
利用可能な接続境界:
第零迷宮 現実側接続点
沈降駅迷宮 地表境界
樹海反転迷宮 地表境界
首都環状迷宮 第三換気坑接続境界
石狩湾港迷宮 地表境界
未確認の接続境界、迷宮内部、移動中の空間層は指定できません。
――――――――――
「石狩まで、ここから行けるのか」
父が門の縁へ顔を寄せる。
「まだ使うな」
「顔近づけただけ」
「それで入ったことがある」
父は一歩下がった。
核保管室の反対側には、低い円形の部屋ができていた。
床へ足を入れると、暗い壁一面に光がつく。日本列島だけを映していた地表接続概況とは違う。曲面の壁が海と大陸をつなぎ、無数の点が地球を覆った。
青、黄、赤。
消えかけたものも、同じ場所で二つに分かれているものもある。
俺たちが止めた石狩湾港迷宮は、消えていなかった。青い点の下へ、細い白線が一本残っている。
「通常迷宮は残る」
千紘が小さく言った。
レオンは返事をせず、壁へ近づいた。
六つの公開資料にあった地点へ、順番に指を置いていく。雪原、海上掘削施設、地下鉱山、赤い峡谷、廃空港、水没都市。
触れた点の下に細長い影が現れ、六つとも地下の深い場所で同じ方向へ伸びていた。
そのうち雪原の一点だけが、赤と黄の間で点滅していた。
「昨日は安定判定でした」
レオンが端末を出す。
権限は戻っていない。連絡先の一覧を下へ送り、一人の名前で止めた。
「誰だ」
「私の資料を、最初に消さず保存した人です」
呼び出し音は長く続いた。
三度目で切れ、代わりに短い文字が届く。
レオンが翻訳画面を開く前に、千紘が壁の音を聞いていた。
「この点、点滅してるんじゃない」
雪原の下で、白い線が少しずつ短くなっている。
「抜けかけてる」
レオンの端末に、二通目が届いた。
今度は位置情報だけだった。




