第六十五話 五つ目の核
久保田へ伸びた灰色の線を、高城が素手で払った。
指は線を抜ける。半透明の筋は揺れもせず、安全帯の金具へ入っていった。
「帯を外せ」
尾崎が言う。
呼吸を補助している隊員は手を止めない。柴田が久保田の身体を横向きに支え、高城が安全帯の留め具を一つずつ外した。
最後の金具が離れる。
灰色の線は久保田を追わなかった。
空になった安全帯へつながったままだ。
「人じゃなく装備を登録してる?」
千紘が線の先を見る。
「最初は装備です」
レオンが訂正した。
「その後、中にあるものを搬送対象へ含めています。服と身体を分けていない」
高城は外した安全帯を床へ置かなかった。近くのコンテナに回し、二つの金具を固定する。
「こいつを久保田だと思うなら、持っていけ」
灰色の線が濃くなる。
立った水面の奥で、白い触手が動いた。安全帯ごとコンテナを引こうとしている。
床へ固定された箱は、すぐには動かない。
「真鍋の索も引くぞ」
高城はさっき手を挙げた隊員の隣へ座った。二人で白い安全索を握る。
「久保田側は箱が持ってる。こっちだけ引けば水が上がる」
「同じ重さは無理です」
レオンが透明板を見る。
固定時間は残り二分もない。八本の線のうち、一番下だけが細かく震えていた。
「長さじゃなく、搬送側が認識した荷重を合わせる必要があります」
「何キロだ」
「久保田さんの装備込み記録は八十四・六」
レオンは人の名前を先に言った。
「真鍋さんは六十二・一。差は二十二・五キロです」
「今それをどう合わせる」
高城が苛立った声を出す。
千紘は安全索へ触れず、コンテナの方へ近づいた。耳を寄せ、灰色の線が金具へ入る音を聞く。
「重さは同じじゃなくていいかもしれません」
「どういうこと」
「さっき二人で引いた時、音が揃ったから上がった。今も、箱を引く音に合わせて真鍋さんの索を引けば」
高城が尾崎を見る。
尾崎は許可を出す代わりに、自分でコンテナの固定具へ手をかけた。
「一段だけ外す。箱が動き始めたら言え」
柴田も反対側へ回り、床の固定金具を緩める。
コンテナが数センチ滑った。
「今」
千紘の声で、高城たちが真鍋の安全索を引く。
二つの金具が同時に鳴った。
立った水面が横へ広がり、床から天井までの大きな長方形になる。
水中の金属台が上がってきた。
久保田がいた台より深い。七つの輪のうち最下部を通り、その裏側に人の脚が見えた。
「真鍋!」
高城が呼ぶ。
返事はない。
脚は動いた。膝が一度曲がり、白い触手の陰へ消える。
「生きてる」
千紘が言った。
七環クラーケンの触手が、コンテナへつながる灰色線を巻き取る。箱が床の固定を引きちぎり、長方形の水面へ近づいた。
「離れろ!」
尾崎が箱から手を放す。
コンテナの角が持ち上がり、横倒しになった。
その下から、解体用バールが滑ってくる。俺は左足で止め、拾い上げた。
白い触手が水面を越える。
水に濡れた吸盤が床へ貼りつき、埋め込まれた金具から灰色線を何本も伸ばす。一本は空の安全帯へ、一本は搬送布へ、残りは隊員たちの腰金具へ向かった。
尾崎は後退しなかった。
盾を横にして触手へ押し当て、線が自分の安全帯へ届く前に留め具を外す。
「金属の登録具を捨てろ! 久保田と負傷者は奥へ!」
全員が同時には動かなかった。
呼吸補助をしていた隊員は久保田のそばに残る。副木を当てた負傷者へ肩を貸していた二人は、自分たちの帯だけ外し、負傷者の固定は解かなかった。
柴田が搬送布の金属棒を抜き、布だけで久保田を包む。
高城は真鍋の索を離さない。
「こっちを離したら、また下がる!」
「そのまま持て!」
尾崎は触手へ盾を押しつけたまま答えた。
灰色線が盾の把手へ集まり始める。金属なら何でもいいわけではない。人が身につけ、搬送に使っていたものを選んでいる。
レオンの透明板から、固定されていた白線が消えた。
八層の図が一枚ずつ重なり、原図の六層へ戻ろうとする。
レオンは再使用しなかった。
板を水へ落とし、消えかけた線を黒いペンでなぞる。能力が消していく端から、自分の手で七つ目と八つ目だけを残した。
「最下部の輪が、ほかの六つと接続していません」
「どれだ」
「真鍋さんの上です。後から追加された七つ目」
長方形の水面の奥で、金属輪が回る。
六つは同じ中心を持っていた。最下部の一つだけが左右へ動き、真鍋のいる台を別の層へ合わせている。
「あれを止めれば台も止まる?」
千紘が聞く。
「止まるのは移動だけです。本体は残ります」
「十分」
千紘は水面の前へ打音器を投げた。
金属の塊が水へ入り、沈んでいく。
「音界地図」
反響が七つの輪へ当たった。
千紘の顔が下から上へ動く。白い触手が盾を押し退けても、そちらを見なかった。
「一番下、次に左へ来る。三秒後」
高城が真鍋の索を強く引く。
七つ目の輪が台ごと左へ動いた。
俺は長方形の水面へ走る。
一歩目を水の中へ置いた。
空中の足場から七つ目の輪へ飛び移る。靴底が濡れた金属へ当たり、身体が横へ持っていかれた。
右側から触手が来る。
見えない。
千紘の「下」という声で、バールを頭上ではなく腰の高さへ寝かせた。
触手が柄へ当たる。
両腕が押され、右肩の奥で古い傷が引きつった。バールを離さず、そのまま輪の内側へ先端を入れる。
触手の力で、柄が深く噛んだ。
七つ目の輪が左へずれたまま止まる。
ほかの六つだけが回転を続けた。
白い胴が水底から浮く。
八つ目の無音の移動をしようとして、身体の半分だけが別層へ引かれている。黒い目の下に、青白い脈が露出した。
「今なら真鍋を上げられる!」
高城と隊員が安全索を引く。
金属台が七つ目の輪へぶつかった。
真鍋の上半身が見える。腹へ白い触手が巻きつき、口元を透明な膜が覆っていた。
尾崎が盾を捨て、長方形の水面へ腕を入れる。
柴田もその腰をつかむ。
俺は輪から足を外せない。バールが抜ければ、七つ目が戻る。
触手の一本が真鍋から離れ、俺の左脚へ巻きついた。
鱗のない膝裏へ吸盤が食い込む。
身体が水底へ引かれた。
輪に挟んだバールが曲がる。握っていた左手の皮がずれ、熱い痛みが走った。
足場は消えている。
もう一歩だけ、空へ置く。
右足の下に硬い面ができた。
踏みとどまり、左脚を引く。触手は離れず、吸盤の金具から灰色線を俺の安全帯へ伸ばした。
「在真、その線、目の下へつながってる!」
千紘の声が届く。
俺を収容する線と、露出した青白い脈は同じ場所へ入っていた。
バールから左手を離す。
七つ目の輪が戻り始める。
その前に、灰色線をつかんだ。
断つ。
線だけではない。
黒い目の下へ集まっていた七本が、一つの切断候補として灰色に変わる。
左手を振り抜くと、青白い脈が横へ裂けた。
七環クラーケンの胴が膨らむ。
水中で九秒分の音が一度に鳴った。
七つの輪がばらばらの向きに止まり、真鍋を載せた台が長方形の水面へ突き出す。
尾崎と柴田が真鍋の肩をつかんだ。高城たちも安全索を引き、透明な膜ごと床へ引き上げる。
俺は輪から落ちた。
腰の短い救助索が張り、身体が水面の縁へぶつかる。右脇腹へもう一度痛みが走ったが、今度は床側から何人もの手が伸びた。
左腕、背中の帯、上着。
どれを誰がつかんだか分からないまま、濡れた床へ引き戻される。
長方形の水面が崩れた。
大量の黒い水が通路へ流れ込み、膝を越える。白い触手は力を失い、コンテナの下へ沈んだ。
表示が開く。
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石狩湾港迷宮管理個体《七環クラーケン》の停止を確認しました。
石狩湾港迷宮の搬送処理が停止しました。
攻略評価により、レベルが上がりました。
レベル:30 → 32
最大HP:2,500 → 2,620
最大MP:740 → 780
未配分能力値を80獲得しました。
スキルポイントを2獲得しました。
現在HP:2,360/2,620
現在MP:580/780
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真鍋は自分で水を吐いた。
咳き込むたび身体を丸め、高城の腕を押し返そうとする。力は弱いが、意識はある。
久保田も補助換気の合間に一度だけ喉を鳴らした。
俺は濡れた床へ座り、左手を開いた。掌の皮が裂け、細く血が流れている。左脚の膝裏には吸盤の丸い跡が並んでいた。
千紘が隣へ来る前に、自分の表示を見て止まった。
「二十になった」
「進化候補は」
「出てる。今は選ばない」
真鍋の咳がまだ続いている。千紘は表示を閉じ、そちらへ防水シートを持っていった。
俺も未配分の八十を開く。
筋力と敏捷へ十ずつ。耐久へ四十、精神へ二十を入れた。
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能力値を配分しました。
筋力:600 → 620
耐久:760 → 840
敏捷:555 → 570
精神:375 → 405
最大HP:2,620 → 2,680
最大MP:780 → 800
現在HP:2,360/2,680
現在MP:580/800
未配分能力値:0
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止まった白い胴の奥から、透明な核が浮かんでくる。
中には小さな金属輪が七つあり、その中心だけが空いていた。
「回収すれば、この迷宮は壊れないんですね」
尾崎が聞く。
「今までと同じなら、流出と管理個体は止まる。内部が全部残るかは分かりません」
「破壊すれば」
「帰る道も崩れるかもしれない」
尾崎は高城を見る。
真鍋を支えていた高城は、こちらへ判断を返さなかった。
「現場責任者は尾崎隊長です」
「そうだったな」
尾崎は濡れた盾を拾わず、核を見た。
「回収してください。所有権の話は、生きて外へ出てからやります」
俺は透明な核へ触れた。
三つの候補が現れる。
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石狩湾港迷宮核から継承可能な能力を確認しました。
《水圧適応》
急激な水圧変化による身体負荷を軽減する。
《係留》
自分または触れた対象一つを、現在の足場または空間層へ短時間つなぎ留める。
《収容索》
触れた物体へ短い牽引索を生成する。
一つを選択してください。
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《係留》を選ぶ。
速く動く手段はある。衝撃を逃がすこともできる。だが、今回のように場所そのものを変えられれば、足場へ戻る前に人が消える。
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《継承》Lv.5
《係留》Lv.1を取得しました。
接触中の対象一つを、現在の足場または空間層へ三秒間係留します。
消費MP:30
移動そのものを停止させる力ではありません。
対象の重量、相手の抵抗、空間干渉の強度によって係留時間は短くなります。
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核を収容する。
透明な球が手の中で細くなり、第零迷宮へ続く黒い線へ沈んだ。
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第零迷宮
保有迷宮核:4 → 5
《国内転移門》を開放しました。
《世界迷宮地図》を開放しました。
新規施設は第零迷宮内で確認できます。
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床と壁の奥で、閉じていた隔壁が一つずつ上がり始めた。
帰着経路も生成されている。
B-11に記録した点へ固定すると、止まった水面の横に狭い通路が開いた。
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帰着経路を固定しました。
記録座標:
石狩湾港迷宮 搬送路B-11
現在MP:520/800
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目の前に開いた先は、同じB-11だった。
遠回りを省いただけで、外へ出たわけではない。久保田と真鍋、左脚を負傷した隊員を運び、上がった隔壁の先を戻る必要がある。
レオンは濡れた透明板を拾っていた。能力で残した線は消え、黒いペンでなぞった二本だけが残っている。
「五つ目ですか」
「そうだ」
「世界迷宮地図は見えましたか」
「第零迷宮へ戻らないと分からない」
尾崎が折り畳み担架を広げる音がした。
話を続ける前に、久保田を誰が持つか決めなければならなかった。




