第六十四話 二人分の索
次の九秒までに、返事はしなかった。
久保田の合図は二回、間を空けて二回。だが本人のものだと確かめるには、それだけでは足りない。
「応答は三回だ」
高城が床へ拳を置いたまま言う。
「出発前に決めた。遭難側が二、二。見つけた側は三回。向こうが続けて一回返せば本人だ」
「床を叩いて水位は変わったか」
尾崎が聞く。
「まだ試してません。索を引いた時だけです」
九秒の減音が始まった。
全員が床から手を離す。
七つの金属音が、今いる搬送路の上下を通った。最後に身体だけがわずかに横へずれ、積まれたコンテナの角が十センチ近づく。
音が戻っても隔壁は下りなかった。
高城が床を三回叩く。
返事はすぐには来ない。
負傷者の左脚を見ていた隊員が、濡れた副木を締め直した。水位は足首ほどだが、体温を奪うには十分だった。
レオンの透明板では、固定された八層の線が白く残っている。残り時間は六分を切っていた。
床の下で、一度だけ金具が鳴る。
高城が息を吐いた。
「久保田です」
「真鍋の合図は」
「同じです。どっちが返したかまでは」
二本の安全索は並んで床へ沈んでいる。名札も残っていた。左が久保田、右が真鍋。
俺は通路の壁へ触れ、《座標記録》を開いた。
首都環状迷宮の第三換気坑は、もう別の迷宮だ。ここから帰る指定先には使えない。
今いる搬送路B-11を記録する。
前の点が消え、濡れた壁の位置に淡い印が残った。記録だけならMPは減らない。
「今、何をしたの」
千紘が聞く。
「帰る場所をここに変えた」
「開けるのはあと?」
「迷宮側に帰着経路ができれば。今は何も開かない」
それでも、通ってきたB-4より、十人がいる場所を残す方がいい。
高城が二本の安全索を見比べる。
「さっきは真鍋だけを引きました。久保田も同時なら」
「水が倍になるかもしれない」
「だから、二人で十センチずつです」
止められるのを待たず、高城は久保田側を取った。もう片方へ手を伸ばした隊員を、尾崎が下がらせる。
「そっちは俺がやる。同じ速さで引くぞ」
二人が金具の根元を持つ。
千紘は索の間へ打音器を置いたが、能力は使わなかった。耳だけを向ける。
「少し」
高城と尾崎が同時に引く。
二本とも十センチ出た。
水位は上がらない。
代わりに、床の下から重いものが近づいた。金属ではない。濡れた布を台へ落としたような音だった。
「もう一回。同じだけ」
千紘が言う。
「高さは?」
レオンが板をのぞく。
「八層目が二十八センチ上がりました」
「十センチ引いて、二十八?」
「索の長さと移動距離は一致していません」
二度目。
床の継ぎ目から泡が出た。
三度目で、二本の索の間に四角い縁が浮かぶ。搬送用の床板に見えたが、取っ手はない。
高城がさらに引こうとした時、久保田側だけが重くなった。
「止めて」
千紘がすぐに言う。
二人の手が止まる。
「片方に何か引っかかった?」
「違う。久保田さんの方は近い。真鍋さんの方だけ、まだ下へ続いてる」
尾崎は索を離さず、高城を見る。
「近い方を先に上げる。真鍋の索は固定」
「俺が残ります」
副木を締めていた隊員が、自分から真鍋側へ膝をついた。安全索を腰へ回さず、両手で持つ。
「真鍋は俺の後ろにいた。これ以上ずらさない」
高城は一度だけその顔を見て、久保田側を引いた。
四角い床板が持ち上がる。
下にあったのは空洞ではない。
水で満たされた、縦に長い搬送路だった。
こちらの床を境に、向こう側の水面が壁のように立っている。白い安全索はその中を下へ伸び、五メートルほど先の金属台へつながっていた。
久保田が横たわっている。
ヘルメットはなく、右手が安全帯の金具を握ったまま動かない。口元から小さな泡が出ていた。
「息がある!」
高城が身を乗り出す。
水は床の縁から流れ出してこない。透明な壁の向こうに閉じ込められている。
俺が手を入れると、指先だけが沈んだ。境界の抵抗はないのに、腕を入れた分だけ身体が下へ引かれる。
「水圧じゃない」
背中の安全帯を尾崎がつかむ。
「一人で入るな。届くのか」
「普通には無理です」
《空歩》なら二歩だけ、足場を作れる。
俺は解体用バールを床へ置き、短い救助索を腰へ足した。尾崎、高城、柴田がその端を持つ。
千紘は久保田ではなく、立った水面のさらに下へ顔を向けていた。
「真鍋さんの金具、もっと奥で動いてる。その近くに大きい音がある」
「生き物?」
「水が多すぎて分からない。でも、呼吸より遅い」
待っても久保田の泡は減っていく。
「行く」
床の縁を蹴った。
立った水面を抜けると、上下が変わった。
足が床から離れ、身体が縦の搬送路へ落ちる。水の中なのに沈む速さが速い。肺の空気を鼻から少し抜き、一歩目を何もない場所へ置いた。
足裏へ硬い面ができる。
もう一歩で久保田の台へ届く。
二歩目を踏み、左手で安全帯をつかんだ。
久保田の身体は台から離れない。
背中の下へ、半透明の膜が張りついている。膜から灰色の線が伸び、台の奥へ続いていた。
境界へ触れる。
切断候補は一本だけだった。
断つ。
右目の奥に熱が走り、膜が裂ける。
久保田の身体が浮いた。
同時に、搬送路の底で何かが動く。
白いものが、暗い水を横切った。
腕より太い触手だった。表面へ荷役用の黄色い線が巻かれ、吸盤の一つ一つに金属金具が埋まっている。
触手は久保田ではなく、切れた灰色の線へ伸びた。
避ける場所がない。
俺は久保田を胸へ抱え、二歩目の足場を蹴る。空中の面はもう消えていた。
触手が右脇腹へ当たった。
衝撃を、腰の救助索へ逃がす。
身体が上へ引かれ、索を持つ三人が床を滑った。
残った重みが肋骨へ食い込む。息が抜け、久保田の身体を離しかけた。
「在真、左!」
千紘の声が水越しに届く。
左手を伸ばすと、柴田が差し出した搬送布の端へ触れた。
久保田を先に押し込み、高城と尾崎が引き上げる。俺も縁へ腕をかけ、立った水面から床へ転がった。
久保田は咳をしなかった。
隊員が顎を上げ、口を開く。呼吸を確認すると、胸骨圧迫ではなくバッグバルブを取り出した。
「脈あり。自発呼吸、弱い」
俺は右脇腹を押さえた。
数値が遅れて落ちる。
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《空歩》Lv.1を使用しました。
現在MP:700/740
《断界》Lv.1を使用しました。
現在MP:670/740
《衝撃分散》Lv.1を使用しました。
現在MP:650/740
現在HP:2,440/2,500
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立った水面の奥で、白い触手が戻っていく。
先には、もう一本の安全索が続いていた。
真鍋の姿は見えない。
代わりに七つの金属輪が、縦の搬送路を囲むように一つずつ灯る。その中央で巨大な白い胴が向きを変え、黒い目がこちらを見た。
表示が開く。
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石狩湾港迷宮管理個体
《七環クラーケン》
搬送対象の欠損を確認。
再収容を開始します。
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久保田の安全帯から、切ったはずの灰色の線がまた伸び始めていた。




