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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第十三章 世界杭の原図

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第六十三話 安全索の先

 安全索には、久保田と刻まれていた。


 応答を失った二人のうち一人だ。


 白い索は床の中央から三十センチほど出ている。コンクリートに穴はなく、水泡だけが細い糸のように上がっていた。


 尾崎がしゃがみ、金具へ触れない位置からライトを当てる。


「本人の腰側だ」


 索の端には、自動で外れない二重金具がついている。だが安全帯も服もない。金具の内側には、黒い繊維が数本だけ挟まっていた。


「切れたんじゃないんですか」


 柴田が聞く。


「切断面はない。開いた形跡もない」


 尾崎は手を伸ばしかけ、止めた。


「大月さん、触って何か出ますか」


「やってみます」


 左手で金具をつかむ。


 表示は出なかった。


 冷たい金属の奥に、境界らしい引っかかりもない。少し引くと、床からもう十センチ出た。


「重さは?」


「軽い。人はついてないと思う」


「なら、いったん回収を」


「待って」


 千紘が俺の手首へ触れた。


 安全索が震えている。


 俺の指には、床へ擦れた振動しか分からなかった。千紘は片耳を床へ近づけ、白い索をたどるように視線を奥へ動かす。


「下じゃない。前から鳴ってる」


「索は床へ入ってます」


 柴田がライトの角度を変えた。水泡の下に白い線は見えない。


「見えてる通りならね」


 千紘は立ち上がり、通路の先へ打音器を一度鳴らした。


 返ってきた音は弱い。水とコンテナに散らされ、二十メートル先で途切れる。


 それでも安全索だけは、もっと遠くで金具を引きずる音を返した。


 尾崎が無線を上げる。


「高城班、こちら尾崎。久保田の個人索を発見。そちらで接続を確認できるか」


 雑音が長く続いた。


 先行班の残る五人は、ここからさらに三百メートル近く先にいる。隔壁が下りるたび中継器を一つ失い、今は九秒の減音が終わった直後しか声が届かない。


『尾崎隊長……索は、こっちにあります』


 途切れた男の声が返る。


「どんな状態だ」


『床に入ってる。久保田と真鍋、二人分。引っ張るな。さっき真鍋の方を引いたら、水が――』


 無線が切れた。


 足首を覆っていた水が、急に膝まで上がった。


 波ではない。通路全体へ、同じ高さで黒い水が増えている。


「索から手を離せ!」


 尾崎に言われる前に離した。


 水位はそこで止まった。安全索は床へ戻らず、濡れたまま残っている。


「向こうでも同じ索が見えてる」


 柴田の声が低くなる。


「複製か、途中を二か所へ出してるか」


「記録が二つあります」


 レオンが透明板を一枚取り出した。


 水が入らないよう胸の高さで持ち、距離計の光を床、壁、天井へ順に当てる。板には今いる通路の輪郭が細い白線で増えていった。


「現在の床面。先行班が午前七時に記録した床面。それと、原図にない位置が六つ」


「六つ?」


「現在を含めて八層です」


 尾崎がレオンの板をのぞき込む。


「海外資料は六輪、現地画像は七輪だろ」


「輪と層が同じ数だとは、誰も確認していません」


 レオンは床の白線へ指を置いた。


 透明板の上で、八本の輪郭が少しずつずれていく。最も下の一本だけが、通路の前方へ続いていた。


 ほかの七本は、同じ場所を上下に重なっている。


「次の九秒で変わります。固定します」


「何を」


「この記録を」


 レオンの指先から薄い青色が広がった。


 板に刻まれた八本の線が硬くなり、揺れが止まる。


「《記録固定》です。十分間だけ、今見た構造を上書き前の状態で残します。消費は四十。物理的な床は止まりません」


「残りは」


「五百八十です」


 最大値までは聞かなかった。


 尾崎が腕時計を見る。


「次まで四十秒。進める道は」


「原図では正面です。でも八層目だけ、右へ一・八メートルずれています」


 右の壁には何もない。


 海水で濡れたコンクリートと、錆びた配管が二本。叩いても硬い音が返る。


 俺がバールの平たい先を継ぎ目へ入れようとすると、尾崎が手で止めた。


「今壊すな。九秒を見てからだ」


 後ろの隔壁は閉じたまま。前へ行けば、先行班へ近づく。


 ただし、八層目がどこへ続くかは誰も知らない。


 千紘が打音器を握った。


「次は使います。聞こえない一つが、どこを動かすか見たい」


「残りは」


「四百二十。使ったら四百」


「使え」


 尾崎が決めた。


 千紘は右壁の配管へ打音器を当てる。一度だけ鳴らし、音が通路へ残っている間に目を閉じた。


「音界地図」


 耳では拾えない輪郭を追うように、顔が少しずつ右へ向く。


 やがて、水滴の音が遠くなった。


 九秒が始まる。


 一つ目で、後ろの隔壁が沈んだ。


 二つ目で、床の水が右へ傾く。


 三つ目から七つ目まで、コンクリートの内側を金属が順に通った。


 右壁は動かない。


 八つ目は聞こえなかった。


 代わりに、俺の身体が壁へ近づいた。


 足は動かしていない。壁が来たわけでもない。右側の距離だけが一・八メートル分なくなり、肩がコンクリートへ触れる。


「今!」


 千紘の声と同時にバールを差し込む。


 さっきまでなかった継ぎ目へ、平たい先が入った。


 尾崎と柴田が左右から柄を押す。右肩を上げず、俺は下から体重をかけた。


 壁の一部が扉のように開く。


 向こう側にも、同じ通路があった。


 ただし床は俺たちの胸の高さにあり、海水が薄い滝になって落ちてくる。


「八層目が横へ来た」


 レオンが言う。


「あと何秒」


「固定したのは記録だけです。接続は分かりません」


 尾崎は舌打ちし、扉の縁へ短い支柱を噛ませた。


「柴田、先に上がれ。半身だけで向こうを見ろ」


 柴田が胸の高さの床へ両手をかける。頭と肩だけを出し、左右へライトを振った。


「通路です。右は隔壁、左は開いてる。人影なし」


「全員上げる」


 柴田が先に抜け、尾崎が千紘を押し上げる。レオンは黒い鞄を先に渡し、自分で床へ腕をかけた。


 上がり切る直前、噛ませた支柱が曲がった。


 扉が閉じ始める。


 俺はレオンの防水服を左手でつかみ、向こう側へ投げるように引いた。尾崎が続き、最後に俺が胸の高さの床へ足をかける。


 右肩が縁に当たった。


 骨の奥へ鈍い痛みが走る。握りを離すほどではない。


 身体を滑り込ませた直後、扉が閉じた。曲がった支柱の半分と、元いた通路の黒い水だけが向こうに残る。


「肩は」


 千紘が聞く。


「動く」


「痛くないとは聞いてない」


「痛い。でも血は出てない」


 尾崎がこちらを一度見て、進行方向へライトを戻した。


「帰ったら診せる。今は高城たちまで行く」


 移った通路の水位は、足首より低かった。


 同じ場所に見えるのに、壁へ残る番号が違う。さっきは《搬送路B-4》だった。こちらには《B-11》と書かれている。


 レオンの固定した板では、最も下の線が前方へ伸びていた。


 その通りに二つ角を曲がる。


 積まれたコンテナの間から、白い光が五つ見えた。


「止まれ! 所属を言え!」


 銃口がこちらへ向く。


 尾崎が両手を見せ、名前を叫んだ。


 先行班の五人だった。


 一人は左脚を副木で固定され、二人が肩を貸している。残る二人は入口側へ武器を向けたまま動かなかった。


 班長の高城が、尾崎の後ろにいる人数を数える。


「五人だけですか」


「久保田と真鍋は、こっちにもいない」


 高城は奥の床を指した。


 二本の白い安全索が、同じコンクリートへ沈んでいた。


「二人とも、最後尾にいた。九秒のあと消えて、索だけ残った」


「引いたら水が上がったって聞いた」


「真鍋の方を三十センチ。それだけで腰まで来た。離したら膝まで下がった」


 俺たちが見つけた久保田の索は一本だった。ここにも同じ名札がある。


 高城が金具を持ち上げる。


 その内側には、黒い繊維が挟まっていた。


「触るな」


 尾崎が言った時、千紘が全員を黙らせるように手を上げた。


 床の下で、金具が二度鳴った。


 一度間を空け、もう二度。


 高城の顔色が変わる。


「久保田の合図です」


 返そうとした拳を、床へ下ろす前で止める。


 次の九秒まで、あと二十秒もなかった。

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