第六十二話 七つ目の輪
ガルは、車へ乗らなかった。
出発用の荷物を玄関へ運んでも、縁側から動かない。俺が後部扉を開けると一度だけこちらを見て、また顎を前脚へ載せた。
首輪の写真を見せられた直後だ。無理に引けば乗ったかもしれないが、それでは写真にあった鎖と変わらない。
「慎吾に頼んだ。飯は大丈夫」
千紘が自分の荷物を車へ入れた。
「置いていくって決めたの?」
「ガルが決めた」
「ならいい」
ガルは見送りにも来なかった。
◇
石狩湾港の上空へ入った時、窓の下は灰色だった。
海と雲の境が薄い。貨物船の間を小さな巡視艇が動き、陸側では青いコンテナが何列も積まれている。その一角だけが広く空けられ、白い仮設棟と防護車両に囲まれていた。
千紘は窓を見ず、膝に置いた端末へ指を動かしている。
石狩へ向かう輸送機が離陸してから、ずっと残していた能力値を開いたらしい。
「今から振るのか」
「今まで、何へ振ればいいか分からなかったから」
「六百八十も残ってるだろ」
「知ってる。見る?」
向けられた表示は俺には見えない。千紘が読み上げる数字を、東條から渡された記録用紙へ書いた。
筋力は最低限。耐久と敏捷を多めにし、器用、感覚、精神にも分ける。感覚だけへ入れなかったのは、音が聞こえても身体が間に合わなければ意味がないからだと言った。
全部決めるまでに三度やり直した。
――――――――――
能力値を配分しました。
筋力:60 → 100
耐久:70 → 230
敏捷:90 → 230
器用:100 → 200
感覚:150 → 290
精神:140 → 240
最大HP:1,320 → 1,560
最大MP:420 → 520
現在HP:1,320/1,560
現在MP:420/520
未配分能力値:0
――――――――――
「増えた分は埋まらないんだな」
「怪我した感じはしない。数字だけ、足りない」
千紘は表示を閉じ、水を一口飲んだ。
通路を挟んだ席で、レオンが顔を上げる。
「感覚、二百九十」
「今、見えたんですか」
「聞こえました」
「なら、数字で呼ばないでください」
レオンは手帳へ伸ばしかけた手を止めた。
「努力します」
千紘は返事をせず、窓の下を見た。
レオンの現場同行は、まだ認められていない。東條は石狩へ向かうことだけを許し、迷宮へ入れるかは現地責任者が決めると言った。
それでも本人は、透明板の入った黒い鞄に加え、防水服と自分のヘルメットまで持ってきていた。
◇
十三時四十八分。
石狩湾港迷宮の入口は、閉鎖された冷凍倉庫の中にあった。
外は潮の匂いが強かったのに、倉庫へ入ると濡れた鉄の臭いへ変わる。床へ敷かれた排水ホースが休みなく震え、汲み上げた黒い水を屋外の処理槽へ送っていた。
入口前の仮設卓に、七人分の名前と現在位置が表示されている。
二人は黄色ではなく灰色だった。
「死亡確認ではありません」
北海道広域攻略隊の尾崎という男が、こちらから聞く前に言った。五十歳前後で、左の眉から額へ古い裂傷がある。
「通信、生命反応、位置標識が全部消えた状態です。残り五名は縦穴手前の搬送路へ退避。空気はある。怪我人が一人、歩行可能」
「戻れない理由は」
「帰路側の隔壁が一本ずつ下りています。壊しても、次が下りる」
尾崎が卓上の図面を指で送る。
冷凍倉庫から先は、現実の港にある地下搬送路を使っていた。二百メートル先から迷宮側の構造に変わり、コンテナを積んだ坂道が地下へ続く。
最深部手前で七つの輪を見つけた直後、先行班の後ろへ隔壁が現れた。
「画像を撮った位置まで、通常なら四十五分。今は水位が上がってます」
「魔物は」
「浅層はスライム。搬送路にサハギンがいる。先行班が十五体処理しましたが、奥から補充されてる」
「管理個体は確認してない?」
「してません。二人が消えるまでは、です」
尾崎はそこでレオンを見た。
「あなたは入口までです」
「理由を聞いても?」
「所属機関が権限を止めた。日本の攻略者登録もない。戦闘経験の確認も取れない」
「進入記録は三十一件あります」
「生還記録は」
「三十一件」
「それは結構。ただし、ここで指揮を執るのはうちです」
レオンは反論せず、自分の登録画面を出した。
「レベル十九。種族、人間。固有スキル《観測》。一般スキル《記録固定》。戦闘役として申請していません」
尾崎は画面を一度見ただけで返した。
「なお悪い。C級の最深部へ、十九の非戦闘員を連れていく余裕はない」
「七つ目の輪は、写真からでは奥行きを確定できません」
「だから人を一人増やす?」
「私が行かなければ、撮影方法を指定します」
レオンは黒い鞄から、小さな金属製の距離計を出した。
「ただ、隔壁が撮影者の後ろへ下りるなら、記録を持ち帰れる保証がない」
言い方は静かだった。自分が戻れない可能性も、同じ数字の一つとして置いている。
尾崎は俺を見た。
「大月さんは、彼が必要だと思いますか」
「分かりません」
レオンの眉が少し動く。
「まだ一緒に入ったことがない。必要だとは言えない」
「では置いていきます」
「でも、七つ目を見て止められる可能性があるのもレオンだけです」
尾崎は鼻から長く息を抜いた。
「前へ出さない。勝手な送信をした時点で外す。本人もそれでいいですね」
「はい」
「返事だけは早いな」
千紘が床へ置かれた装備箱から、小型の打音器を二つ取った。
「私は?」
「三枝さんは音響要員として申請が通ってます。ただし、大月さんと同じ班だから入れるわけじゃない」
「分かってます」
千紘は片方の打音器を戻し、防水ケースへ一つだけ入れた。
俺には角へ合わせたヘルメットと、一メートル弱の解体用バールが貸された。白樫の短棒より重い。左手で中央を持ち、右肩を上げすぎずに振れる位置を探す。
入口へ向かうのは、尾崎、同じ隊の柴田、俺、千紘、レオンの五人になった。救助用の空担架は入口近くへ残し、折り畳み式の搬送布だけを柴田が背負う。
黒い入口の向こうから、水滴の音が続いていた。
「九秒の音は、まだある?」
俺が聞くと、千紘はイヤホンを外した。
「ずっとじゃない。一分くらいの間に一回。近づくと変わるかも」
尾崎が時刻を読み上げ、先に境界へ入る。
冷気が顔へ当たった。
最初の通路は、倉庫の地下と変わらない。壁に霜がつき、天井の配管から黒い水が垂れている。足元だけがわずかに傾いていた。
百メートルほど進んだところで、コンテナの陰から水音がした。
尾崎が片手を上げる。
濁った水面から、青緑色の頭が三つ出た。魚に似た口の両脇へ鰓が開き、片手には折れた荷役フックを持っている。
サハギンだった。
一体目は尾崎の盾へ飛びついた。二体目がその背を使って越え、俺の見えない右へ消える。
首を向ける前に、千紘が言った。
「右、低い!」
バールの端を床へ落とす。
硬い感触が柄を上がり、滑った鉤爪が長靴の外側を掠めた。俺はバールを立てたまま踏み込み、左肩で相手の胸を壁へ押しつける。
右腕を大きく振れない。短い側を握り直し、顎の下へ二度突いた。
二度目で手応えが変わった。
サハギンの身体が崩れ、胸の内側から青い魔石が床へ転がる。
柴田は三体目へ網を投げた。魚の頭ではなく両腕をまとめ、尾崎が盾の縁で膝を払う。倒れた個体のフックを千紘が靴で遠ざけた。
レオンは戦わなかった。
壁際へ寄り、俺たちではなくサハギンが出た水面の高さを距離計で測っていた。
「今、何を見てる」
「水位です。先行班の映像より十四センチ高い」
「上がってる速度は」
「まだ一回しか見ていません」
断定しなかった。
尾崎と柴田が残る二体の魔石を壊し、死体を通路脇へ寄せる。俺たちは止まらず先へ進んだ。
通路は三度曲がり、そのたび床の傾斜がきつくなる。
壁の霜は消え、代わりに波打つ水面の反射が天井へ映った。海の下へ降りているはずなのに、頭上から波の音がする。
千紘が足を止めた。
「来る」
何が、と聞く前に音が遠のいた。
水滴も、装備の擦れも、五人の呼吸も薄くなる。
九秒間。
床の下で、巨大な金属が一つずつ噛み合った。
一回、二回、三回。
数え切る前に周囲の音が戻る。
同時に、後方で重いものが落ちた。
さっき通った曲がり角へ隔壁が下りている。隙間はない。尾崎が触れると、表面を海水が上へ流れていた。
「先行班と同じです」
レオンは隔壁を見ず、床へ膝をついた。
距離計を当て、何もない場所へ指を滑らせる。視線が床の一点から通路の奥へ、数字を追うように動いた。
「七回ではありません」
「何が」
「今の接続音です。八つありました」
千紘が首を振る。
「聞こえたのは七つ。最後の一つは音じゃない」
二人が同じ床を見る。
俺には、濡れたコンクリートしか見えない。
その中央から細い水泡が上がり、白い安全索がゆっくり押し出された。
先端の金具には、灰色表示になった二人のうち一人の名前が刻まれていた。




