第六十話 帰る場所
六時五十七分の赤い数字が、黒い鱗の上を流れていく。
吹き抜けは七階分あった。各階の縁に環状の通路があり、時環竜の胴が中央を下から上へ貫いている。同じ鱗が一階を通過するたび、上の階では一秒前の位置へ戻っていた。
竜が進んでいるのか、建物の方が巡っているのか分からない。
「赤いのだけ、表面が違う」
岩瀬が短槍を向けた。
ほかの鱗は古い傷も道路の汚れも同じ場所へ戻る。今の時刻を示す一枚だけは、橋の破片を擦った白い跡が消えていなかった。
「まだ一周してないからですね」
八代が円形通路の制御盤へ駆け寄る。蓋へハンマーを入れ、鍵ごとこじ開けた。
「戻される前なら壊せる?」
「壊せるかも、は俺に聞かないでください」
「誰に聞けばいい」
「今から調べます」
八代は端末を床へ置き、制御盤の中から太い配線を引き出した。七色ではない。全部同じ灰色だった。
時環竜の背が一階分せり上がる。
岩瀬はもう階段へ向かっていた。
「下で止めます。上まで来たら遅いんで」
「一人で行くな」
「四人で同じ階にいたら、まとめて戻されますよ」
言い終える前に、一つ下へ降りていく。八代は止めず、引き出した配線を床へ並べた。
千紘が吹き抜けへ小型金属球を落とす。
球は下の通路へ当たり、さらに二階分落ちた。硬い音が七回返ってくる。千紘は手すりを握ったまま、途中で右耳のイヤホンを外した。
「音界地図」
下を向いた顔が、ゆっくり竜の進行と逆へ動く。
「一つだけ、先に擦れてる。ほかの六つは、その音を追いかけてる」
「赤い鱗か」
「たぶん。でも、次はもう少し早い」
地の底から低い振動が上がった。
俺は赤い鱗が通路へ最も近づいた時に、左手を伸ばした。熱はない。乾いた路面へ触れた感触の奥で、七本の筋が同じ場所へ集まっている。
どれが最初か分からない。
千紘が言った擦過音を待つ。
耳では拾えなかった。ただ、俺の手の下が先に震え、六本が遅れて重なった。
最初の一本へ意識を押し込む。
灰色の線が鱗の表面を横切った。
断つ。
右目の奥へ釘を入れられた。
指が鱗から弾かれ、片膝をつく。線は半分まで走っていたが、後ろから来た六本に縫い合わされて消えた。
「駄目ですか」
「一つ切っても、後ろが戻す」
千紘へ答えた声が、自分のものより遠く聞こえた。
岩瀬の短槍が一階下で赤い鱗へ突き立つ。穂先は浅く入っただけだったが、柄を手すりへ噛ませ、身体ごと押さえ込んだ。
「じゃあ、戻る方を止めます!」
竜の胴が持ち上がり、環状通路が傾いた。
俺の身体は吹き抜け側へ滑る。通路の縁へ踵を当て、落下の衝撃を足元へ逃がした。床が割れて膝まで沈み、右の脇腹には残った揺れが突き上がる。
息を吐けないまま、割れ目から脚を抜いた。
「在真、上!」
千紘の声で顔を上げる。
六時三十分の鱗が天井側から落ちてきた。前後が逆になっている。角も首もなく、道路の一部だけが巨大な刃のように通路を削った。
千紘は俺の方へ来なかった。
八代が開けた制御盤へ走り、垂れた配線を二本まとめて引く。
「これ、一つだけ鳴るのが早い!」
「左から三本目!」
八代が迷わず三本目をハンマーの柄へ巻いた。制御盤の金属枠へ通し、体重をかけて引く。
「岩瀬、今そっちで何か止まったか!」
「槍が折れそうです!」
「止まってるかだけ答えろ!」
「止まってます!」
環状通路の回転が、一階と二階の間だけずれた。
落ちてきた鱗を避ける場所はない。俺は手すりへ片足を置き、空へ踏み込んだ。
一歩目で鱗の側面へ乗る。
二歩目は置かなかった。
足場が消えるまでの三秒で、白樫の短棒を鱗の隙間へ差し込む。ミミックにつけられた裂け目が一気に開き、短棒が中央から折れた。
それでも隙間は残った。
鱗の内側で、白いものが脈打っている。
「千紘!」
「今のが最初。次が来る前、四秒!」
下から岩瀬の声が重なった。
「槍、抜きます!」
抜かれた瞬間、止まっていた一階分が跳ね上がる。赤い鱗が俺の足元へ追いつき、白い脈を覆おうとした。
八代が配線を手放した。
代わりにハンマーを投げる。
狙いは俺ではなく、鱗の隙間だった。柄が挟まり、閉じる動きが一瞬止まる。
俺が開けた白い隙間は、下の階からも見えたらしい。
岩瀬の短槍が下から飛んできた。穂先は白い脈の横へ刺さり、鱗二枚を内側から押し広げた。
俺は折れた短棒を捨て、露出した一本へ手を入れる。
七つの時刻が、腕の中で別々に震えていた。
最初の一本だけをつかむ。
断つ。
今度は後ろから何も来なかった。
白い脈が切れ、時環竜の全身から道路照明が消える。巨体は落下せず、吹き抜けの途中で止まった。
一階下の岩瀬が手すりへぶつかる。八代は制御盤の前で尻もちをつき、千紘だけが動かない竜へ耳を向けていた。
「まだ一つ、鳴ってる」
白い脈の奥だ。
俺が鱗へ触れると、灰色の筋が一本だけ現れた。時刻を巡らせる線ではない。吹き抜けの底から、二本の塔と外周道路へ広がっている。
短槍を回収した岩瀬が階段を上がってくる。穂先は曲がり、左の手袋が裂けていた。
八代も鱗に挟まったハンマーを引き抜く。柄の中央が深く潰れていた。
「また切るんですか」
「これは切らない」
線の中心へ手を押し当てる。
掌の下で白い殻が割れ、透明な核が露出した。中には、針のない小さな時計が七つ浮いている。
表示が視界へ開いた。
――――――――――
首都環状迷宮管理個体《時環竜》の停止を確認しました。
首都環状迷宮の流出進行が停止しました。
攻略評価により、レベルが上がりました。
レベル:24 → 30
最大HP:1,960 → 2,320
最大MP:580 → 700
未配分能力値を240獲得しました。
スキルポイントを6獲得しました。
現在HP:1,740/2,320
現在MP:150/700
――――――――――
最大値だけが増え、痛みは残った。右脇腹へ手を当てても、息を深く吸えば同じ場所が痛む。
「三十になった」
「私は十八」
千紘は手すりへ背を預けたまま答えた。顔色は悪いが、立っている。
「八代さんたちは」
「あとで。今、数字を見ると吐きそうなんで」
八代が床へ座ったまま言う。岩瀬は破れた手袋を外し、掌の浅い切り傷へ布を巻いていた。
前に残した二百四十と合わせて、未配分は四百八十になっていた。
筋力、耐久、敏捷へ百ずつ。器用へ八十、感覚へ六十、精神へ四十を振る。右側の視界は戻らない。それでも、見える側と動ける身体は要る。
――――――――――
能力値を配分しました。
筋力:400 → 600
耐久:560 → 760
敏捷:405 → 555
器用:160 → 240
感覚:130 → 190
精神:315 → 375
最大HP:2,320 → 2,500
最大MP:700 → 740
現在HP:1,740/2,500
現在MP:150/740
未配分能力値:0
――――――――――
核へ触れたまま、《継承》を開く。
三つの候補が現れた。
――――――――――
首都環状迷宮核から継承可能な能力を確認しました。
《短時間加速》
自身の身体時間を短時間だけ加速する。
《時間抵抗》
時間座標のずれと反復による影響を軽減する。
《座標記録》
同一迷宮内で自分が通過した地点を一つ記録し、帰着経路の接続先に指定する。
一つを選択してください。
――――――――――
速く動ければ、正面から倒せる相手は増える。時間抵抗があれば、俺一人だけなら同じ道を戻れるかもしれない。
今ここにいるのは四人だった。
《座標記録》を選ぶ。
――――――――――
《継承》Lv.4
《座標記録》Lv.1を取得しました。
記録可能数:1
帰着経路固定時の消費MP:60
対象は本人が同一迷宮内で通過した地点に限られます。
他者を直接転移させることはできません。
――――――――――
目を閉じなくても、通ってきた場所が淡い点として浮かんだ。
退避庁のロビー。外周道路。ストレッチャーのあった通路。その中で一つだけ、別の色を持つ点がある。
第三換気坑の青い膜があった場所だ。
そこを記録する。
透明な核から細い光が伸び、吹き抜けの壁へ刺さった。コンクリートに、見覚えのある狭い通路の輪郭が開く。
――――――――――
記録座標:
第三換気坑接続境界
帰着経路を固定しました。
現在MP:90/740
――――――――――
同じ道を戻るわけではない。
今までなかった短い通路が、記録した場所へつながっている。
「帰れそう?」
千紘が聞く。
「四人で通れる。俺が先に入る」
「そこは私が先」
八代が立ち上がり、工具袋を背負った。
「その道が消えた時、残るのは後ろです。作った本人は最後」
岩瀬も賛成するように、曲がった短槍で入口の縁を叩く。
俺が決める前に、八代が入った。岩瀬、千紘と続く。
最後に透明な核へ収容の意思を向けると、針のない七つの時計が一つずつ消えた。核は手の中から抜け、第零迷宮へつながる黒い線へ沈んでいく。
時環竜の身体が、灰になった道路と一緒に崩れ始めた。
俺も通路へ入る。
十数歩先で、朝の白い照明が見えた。
現実側は、六月二日七時二十二分だった。
第三換気坑にいた人間が一斉にこちらを向く。東條が無線を上げ、父は規制線の内側まで来ていた。
「四人、帰還!」
誰かの声が通路へ響く。
父は俺の角と脇腹へ置いた手を見て、何か言いかけた。
「先に診てもらえ」
「分かった」
父は通路を空け、待っていた医療班を手で呼んだ。
◇
七月に入っても、祖父の家の居間には大学の書類が残っていた。
首都環状迷宮の報告、診察、仮登録証の更新が先になり、前期の欠席届は何度も締切を延ばしてもらっている。俺はBランクの暫定認定を受け、数値は二人とも上限まで戻った。けれど、右目が戻ったわけでも、右肩が以前の高さまで上がるようになったわけでもない。
千紘は向かいで、自分の書類と次の現地確認の日程を並べていた。
ガルは六月の半ばまで樹海の入口を離れず、ある朝ひとりで物置へ戻ってきた。しばらくは家の中へ入らなかったが、今は縁側で寝ている。金属柵が風で鳴るたび、片耳だけを起こした。
直人からは、入口の内外へ一台ずつ置く記録器の図面が送られてきていた。首都環状迷宮で通信が切れた時間を見て、時刻、気圧、振動を同じ形式で残したいらしい。試作はまだ弁当箱ほどあり、店を閉めて遠征へ持っていく段階じゃない、と説明の最後に書いてあった。
「これ、私も行くことになってる」
千紘が予定表を指で押さえる。
「行かないのか」
「行くよ。自分で聞きたいし」
「なら合ってる」
千紘は予定表を引き寄せたが、ペンを持たなかった。
「毎回、勝手に予定へ入れられるのは違う」
「悪い。次から聞く」
「そこもだけど」
何が残っているのか分からず、顔を見る。千紘は俺を見返したあと、欠席届の端へ視線を落とした。
「在真は、私を何だと思って予定に入れてるの」
「音が聞けるから、じゃない」
「それを聞いてるわけでもない」
一度答えを外した。
開けた窓から風が入り、提出前の紙が一枚だけ畳へ落ちる。拾おうとした千紘と手が重なり、どちらも先に引いた。
「同級生だけだとは思ってない」
「うん」
「千紘が好きだ。付き合ってほしい」
言ったあとで、予定表の話から急に離れすぎた気がした。
千紘は笑わなかった。落ちた紙を拾って角をそろえ、ほかの書類の下へ戻す。
「分かった」
「返事は」
「今のが返事。付き合う」
千紘はようやくペンを取り、現地確認の横へ小さく丸をつけた。
「でも、次から先に聞いて。付き合ってても、行くかは私が決めるから」
「次から聞く」
「今の予定も、聞いてから丸をつけて」
縁側でガルが立ち上がった。網戸へ鼻先を押しつけ、そのまま外れかけた戸を大きく傾ける。
千紘と二人で押さえたが、机の上の欠席届はまた一枚、畳へ落ちた。




