第五十九話 七つの時刻
窓が割れるより先に、千紘がしゃがんだ。
「伏せて!」
俺も考えず床へ落ちる。遅れてガラスが内側へ弾け、赤い空を黒い腹が横切った。
竜、と呼ぶしかない形だった。
太さは大型バスよりある。黒い鱗の隙間に白線や路面の継ぎ目が入り、腹側では橙色の照明が一定間隔で流れていた。首の付け根から伸びた二本の角は、高速道路の分岐標識に似ている。
頭が通り過ぎてから、咆哮が来た。
最初は遠く、次は耳元、その後も少しずつ場所を変えて五回続く。同じ一声を、七つの場所で聞かされたようだった。
「今の、何回です」
岩瀬が耳を押さえたまま言う。
「七回。最初の一つは窓が割れる前」
千紘は廊下ではなく、壁に隠れたロビーの方を見た。
時計の秒針が走っている。規則正しく一周していた動きではない。進んでは戻り、別の時計へ移っていた。
「ここにいたら、もう一度来る」
八代が探査機を計画記録室の奥へ向ける。曲がったアームは胸元へ畳み、車体だけを先へ出した。
部屋の奥には資料搬入用の扉があった。入ってきた廊下を使わずに済む。
俺たちは棚の間を抜けた。八代は《第七次世界退避計画》を持ち出さず、端末で表紙と読める頁を撮ってから追ってくる。
「紙の方が証拠になりませんか」
「持ったまま時間を越えたら、いつの紙になるか分からない」
「探査機は惜しむのに」
「機械は今の俺が直せる」
岩瀬が何か言い返しかけ、やめた。扉の向こうから風が入ったからだ。
資料搬入口は屋外の連絡路へ続いていた。
二本の塔の間に、幅の広い歩道橋が渡っている。その下を何層もの高架道路が取り巻き、時環竜の胴が黒い輪になって滑っていた。
車が走っているのではない。
道路そのものが動いている。
灰をかぶった車列も信号も、舗装ごと竜の腹へ吸い込まれ、反対側から同じ並びで出てくる。窓の割れた白い乗用車が二度目に現れた時、割れたはずの窓は元へ戻っていた。
「傷まで戻ってる」
岩瀬が短槍の柄を握り直す。
「一周で、道の状態を戻してるんでしょうね」
八代は探査機を橋へ進めた。画面の時刻と端末の時刻を並べ、車体の後ろへ黄色い塗料で短い線を引く。
「お前まで戻ってきたら?」
「次は壊す」
「自分で言えます?」
「言わせるな」
探査機は橋の中央まで進んだ。塗料の線は床へ残っている。
その先で映像が一瞬だけ乱れ、車体が消えた。
履帯の音は後ろから聞こえた。
振り返りかけた俺の腕を、千紘がつかむ。
「見ないで。まだ同じ場所を踏んでない」
探査機は搬入口の横にいた。俺たちの後ろを通ってきたのではない。塗料の線もなく、曲がったアームだけが同じだった。
八代が端末へ目を落とす。
「残量二十四。映像記録は飛ぶ前から続いてる」
橋の中央で消えたあと、探査機は七分二十二秒分の暗い映像を記録していた。こちらでは一秒も経っていない。
岩瀬が橋へ出しかけた足を戻す。
「渡れないじゃないですか」
「普通には」
千紘が小型金属球を一つ取り出した。床へ落とさず、手の中で二度鳴らす。
「音界地図」
千紘の肩が小さく揺れた。
「橋が七本ある」
見えるのは一本だけだった。
「同じ場所に重なってる。探査機が入ったのは……たぶん一番下。六本上にいる」
「向こうまで届く道は?」
「一番上だけ。でも今は重なってない」
時環竜の頭が、二本の塔の向こうへ回り込む。角の標識に《六時三十分》と白く光っていた。
ロビーにあった最初の時計と同じだ。
頭が高架の継ぎ目を越えるたび、連絡橋の高さがわずかに変わる。七つ目の咆哮が来る直前だけ、手すりの影が向かいの塔まで真っ直ぐ伸びた。
「次の七回目」
千紘が言った。
「その時だけ、一番上がここへ来る」
八代は戻ってきた探査機を足元へ寄せた。切り離すと言わなかったし、先にも出さなかった。
「人から行きます。岩瀬」
「分かってます」
岩瀬が先に橋へ出る。槍の石突きで床を一度叩き、消えないことを確かめてから中央まで走った。
咆哮は二つ目。
三つ目で八代が続く。四つ目、五つ目と橋の床が靴の下で数センチずつずれた。
六つ目。
千紘が俺より先に走った。
「今!」
七つ目の音が身体を抜ける。
橋の中央が透け、その下に六本分の手すりが重なった。右目のない側から黒い首がせり上がる。
逃げる方向を決める前に、千紘が俺の左へ回った。
「右、来る!」
空へ踏み込む。
一歩目で竜の角を越え、二歩目を向かいの橋へ置いた。着地と同時に、尾が連絡橋の側面を打つ。
足場へ逃がす。
衝撃が両脚から橋へ抜け、コンクリートに長いひびが走った。それでも全部は消えず、身体が欄干へ叩かれる。右脇腹が潰れ、息が一度抜けた。
千紘が安全帯の背をつかむ。引き上げようとしているのに、自分の靴も割れた床を滑っていた。
岩瀬が俺の左腕を取り、八代は千紘の腰帯を引いた。四人で橋の反対側へ転がり込む。
直後、中央部分が崩れた。
破片は下へ落ちず、時環竜の腹へ吸い込まれる。黒い鱗の間を一周し、元の橋の形に戻って反対側から現れた。
俺たちが渡った橋だけが、向こう側へ残らない。
「大月、立てますか」
岩瀬に聞かれ、返事より先に膝を起こした。脇腹は痛むが、右肩の縫い目は開いていない。
「歩ける」
「なら今はそれで」
八代の端末から、探査機の映像が途切れた。機体は橋の反対側に置いたままだ。
本人は画面を一度見ただけで、電源を切った。
塔の内部へ続く防火扉が目の前にある。扉の上には《中央接続管制》と書かれていた。
岩瀬が押し開ける。
中は同じ円形の廊下が上下へ七層重なり、吹き抜けの中心を時環竜の黒い背が貫いていた。鱗の一枚一枚に、違う時刻が光っている。
そのうち四枚は知っている時間だった。
残る三枚の一つに、赤い数字が浮かぶ。
六月二日、六時五十七分。
俺たちがここへ来てから、まだ二十七分しか経っていなかった。




