第五十八話 助手席にいた人
受入側世界からの到着者、四。
電光掲示板の数字は、俺たちが離れても消えなかった。
退避庁のガラス扉を、岩瀬が短槍の柄で押す。割れた隙間から内側へ開き、灰が薄く舞った。
ロビーには受付窓口が十二個並んでいる。
椅子は一脚も倒れていない。床の案内線も残っているのに、人がいた跡だけが抜けていた。飲みかけの容器や落とした鞄どころか、机の上に紙一枚ない。
「片づけてから逃げたようには見えませんね」
岩瀬が窓口の内側を照らす。
「逃げられたなら、外の数字がゼロにはならない」
八代は探査機を先へ入れた。
四輪ではなく履帯が床を擦る。別の東京へ来てから聞き続けた音なのに、屋内では少しだけ安心した。
壁には時計が七つ掛かっている。六時三十分。十八時十五分。十八時二十六分。十九時九分。残る三つは針がなかった。
「私たちの時間がある」
千紘が十八時十五分の時計を見る。
秒針は止まっていなかった。一周して十二へ戻るたび、隣の時計が一秒だけ動く。七つが順番に時間を渡しているように見えた。
受付番号の発券機が鳴った。誰も触れていないのに、白い札が一枚出てくる。
『帰還許可票 0005』
「四人なのに五番」
千紘が足を止めた。
八代も手では取らず、探査機を発券機の前へ寄せた。小さなアームを伸ばし、札の端を挟む。
発券機が縦に割れた。
白い外装の内側から、黒い肉と細かな歯が現れる。探査機のアームを札ごと噛み込み、床へ引きずろうとした。
「ミミック!」
岩瀬の短槍が外装の隙間へ入る。
機械の形をしていた物が、窓口台から剥がれた。電源線に見えた黒い尾を床へ突き、岩瀬の槍を挟んだまま大きく口を開く。
八代は操作端末を放さなかった。
「アーム切ります」
「待て、まだ動く」
「噛まれてるの機械です!」
「だからだ」
言い合っている間にも、探査機の履帯が空回りする。
俺は白樫の短棒を口の下へ差し込んだ。右肩は上げず、左手と床だけで支える。歯が短棒を挟み、木の表面へ深く食い込んだ。
「奥、左です」
千紘が発券機の横へ回る。
「紙が擦れる音の後ろ。そこだけ硬い」
岩瀬が槍を引く。
一度抜くのではなく、外装を横へこじ開けた。八代が探査機を後退させ、噛まれたアームごと黒い肉を引き出す。
左奥に濁った魔石があった。岩瀬の石突きが一度当たり、ひびが入る。
二度目は八代だった。端末を置き、工具袋から抜いた小さなハンマーを振り下ろす。魔石が砕けた。
発券機は口を開けたまま動かなくなった。
「アーム、曲がっただけです」
八代がしゃがみ、曲がったアームを指で確かめる。
「先に怪我を見ませんか」
「誰も噛まれてない」
「大月さんの棒」
白樫の短棒には歯形が二列残っていた。折れてはいないが、表面が細く裂けている。
「使える」
「同じこと言うんですね」
岩瀬が八代と俺を見比べた。
千紘は落ちた帰還許可票を靴先で裏返した。裏面には、細い文字が印刷されている。
『指定された経路を二度通過してください』
「やっぱり罠」
「帰れるとは書いてある」
八代が言う。
「同じ時間に、とは書いてないけど」
千紘は札を拾わなかった。
受付の奥で扉が開き、女が一人立っていた。紺色の救急服。肩へ携帯無線をつけ、髪を後ろで束ねている。
望月だった。
「動かないで」
岩瀬が短槍を上げる。
女は止まらない。
こちらを見ず、受付内を歩いていく。床へ靴音は落ちるのに、服の擦れる音がなかった。
千紘が俺の左袖をつかんだ。
「息してない」
「魔物か」
「分からない。心臓も聞こえない」
望月の形をしたものが、窓口の椅子へ座る。
誰もいない前へ書類を差し出す動作をしてから、同じ言葉を三度繰り返した。
「三十八号、搬送対象なし。乗員三名」
声は本人と同じだった。
「望月さん」
八代が呼ぶ。
「三十八号、搬送対象なし。乗員三名」
「今は六月二日です。聞こえますか」
「三十八号、搬送対象なし。乗員三名」
顔だけがこちらへ向いた。目は開いているのに、そこに俺たちは映っていなかった。
望月の記録は立ち上がり、受付奥の通路へ入る。探査機を向けても、人物だけが画面に映らない。濡れた靴跡も残らなかった。
「映像にいたのは、これか」
十八時十五分の助手席。今ここにいるものと同じなら、あれは救出前の望月ではない。迷宮が拾った動きか声を、別の時間へ置いただけだ。
まだ断定はできない。
千紘は俺の袖を離し、通路の床へ耳を向けた。
「先で紙をめくってる。ほかに歩いてる音はない」
「行きますか」
岩瀬が聞く。
「同じ廊下を戻らないなら」
八代は探査機を望月の記録の後へ進めた。
通路は途中で二つに分かれていた。望月の記録は右へ曲がる。壁の案内には《帰還手続》とあり、左は《計画記録室》だった。
「右へ来させたいみたいですね」
「なら左だ」
俺たちは左へ進んだ。
計画記録室の扉は施錠されていなかった。中には紙のファイルが残っている。画面も端末もなく、金属棚に灰色の箱が何百個も並んでいた。
手前の箱だけが開いている。
表紙には《第七次世界退避計画》と書かれていた。
岩瀬が最初の頁を押さえ、八代が照明を当てる。
『受入側世界への都市接続実験』
『東京都全域の退避申請――不承認』
『個体単位への縮小後も、移送完了数〇』
次の頁は破られていた。残った端に、赤い手書きの文字がある。
『入口を二度通るな』
『戻った者は、戻る前の記録になる』
千紘が廊下を振り返る。望月の声はもう聞こえず、代わりに建物の外から低い振動が来た。
七つの時計が同時に動き始めた。窓の向こうで、二本の塔へ巻きついていた黒い影がほどける。
長い首が高架の上を滑り、赤い空へ頭を持ち上げた。
表示が視界を塞ぐ。
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首都環状迷宮管理個体《時環竜》の循環再開を確認しました。
対象情報
種族ランク:未判定
個体分類:管理個体
レベル:60
HP:48,000/48,000
MP:12,000/12,000
筋力:5,200
耐久:6,000
敏捷:4,800
器用:2,500
感覚:4,000
精神:5,500
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