第五十七話 青信号の街
信号が青へ変わっても、すぐには何も動かなかった。
探査機の映像には、灰をかぶった道路と放置車両が映っている。風はなく、赤黒い空に浮いた雲も止まっていた。
「来る」
千紘が言った。
何が、と聞く前に、遠くでエンジンが掛かった。
一台ではない。
音は高架の上と下、ビルの間、地下へ沈んだ道路から順に増えていく。何年も置かれていたような車が、灰を落としながらヘッドライトを点けた。
運転席は空だった。
「探査機を前へ出します」
八代が端末を操作する。
「先に合流しないんですか」
岩瀬が聞く。
「動く車に轢かれたら、俺らより高い物がなくなる」
「今は笑うところですか」
「半分くらい」
八代の口元は動かなかった。
現実側の壁が戻る気配はない。振り返っても濡れたコンクリートがあるだけで、灰色の筋も見えなかった。
八代が短距離無線で東條を呼ぶ。返ったのは、低い雑音だけだった。
進むしかない。
床の履帯跡を踏み、狭い通路を一列で抜ける。
先頭は岩瀬だった。短槍を右手へ持ち、壁へ残った水滴や天井の亀裂を一つずつ確かめている。八代は端末を見ながら続き、千紘と俺が後ろへついた。
来た道へ足を戻さないため、立ち止まる時も靴の位置を変えない。
それだけで歩幅がぎこちなくなる。
出口の手前には、三十八号から消えたストレッチャーが横倒しになっていた。
青い傷と管理札は残っている。
岩瀬が短槍の石突きで車輪を止め、八代が側面を調べた。
「増えてる」
管理札の下に、見覚えのない金属板が貼りついている。
『東京都災害退避庁』
『外周第七区搬送備品』
小野が今日つけた傷の上から板が打たれていた。新しい板ではない。文字の溝には灰が入り、角は錆びている。
「持っていきますか」
「車輪が通った場所を、俺たちがもう一度通ることになる」
八代は手を離した。
自分の探査機なら追うのに、ストレッチャーは置いていく。
出口へ近づくと、赤く濁った光がヘルメットの溝から入った。角の根元だけが熱くなる。
外の道路は四車線あった。
探査機は中央分離帯の手前で止まっている。残量は二十六パーセント。八代がしゃがみ、車体の傷を親指で擦った。
「無事ですね」
岩瀬が言う。
「見れば分かる」
「私より先に確認しましたよね」
「お前は喋るから無事だ」
千紘が小さく息を漏らした。
笑ったのか、外の空気に咳き込んだのかは分からない。
道路の向こうで、車が一台通り過ぎた。
速度は遅い。だが、後ろへ二台、三台と続き、反対車線も動き始める。
すべて無人だった。
「横断は一回です」
岩瀬が道路を見る。
「戻るなら別の場所。ここは使わない」
「帰る前に、向こうへ着かないとな」
八代が探査機を車道へ出す。
一台目の下を履帯が抜けた。車は避けず、速度も変えない。探査機の後端をバンパーが掠め、映像が横へ傾く。
八代の指が止まった。
「まだ動いてる」
「今の、機械じゃなかったら死んでます」
「だから先に行かせた」
岩瀬が何か言い返す前に、千紘が左を向いた。
「大きいのが来る。二台ぶんくらい」
高架の陰から、古い路線バスが出てくる。
窓は黒く、運転席にも人はいない。正面の行き先表示には《外周循環》とだけ出ていた。
その手前で、灰が盛り上がった。
白い骨の腕が路面へ突き出る。
一体、二体。反射帯を巻いたスケルトンが、停止板を持って立ち上がった。
片方が板をこちらへ向ける。
赤い面には《戻れ》と書かれていた。
青い面へ返すと、《進め》に変わる。
スケルトンは板を何度も反転させ、俺たちを同じ横断歩道へ誘導していた。
「戻らせる気です」
岩瀬が槍を構える。
「違う。回らせたい」
八代が道路の白線を指した。
横断歩道は向こう岸へ届いていない。中央で折れ、こちら側の歩道へ戻る輪になっている。
スケルトンが停止板を振った。
無人車が一斉に速度を落とす。横断歩道だけが空いた。
「親切ですね」
千紘が言った。
「渡ったら、同じ場所に戻るけど」
バスの音が近づく。
俺は中央分離帯を見る。距離は六メートルほど。車道を一度だけ越えれば、輪になった横断歩道は使わずに済む。
「先に行く」
「肩は上げないで」
「足しか使わない」
白線へ一歩出る。
バスが角を曲がった。
「空歩」
一歩目を車道の上へ置く。
何もない空間が足裏だけを支え、バスの正面が下を抜けた。二歩目を中央分離帯の縁へ置き、着地する。
MPは三百三十。
脇腹へ痛みは来なかったが、右肩の奥が遅れて引きつった。
「今!」
千紘が叫ぶ。
八代が探査機を走らせ、そのすぐ後を渡る。岩瀬が続き、千紘は一台目と二台目の車輪音の間へ入って道路を斜めに抜けた。
スケルトンが停止板を投げる。
右側から来た板は見えなかった。
ヘルメットの角へ金属が当たり、首が左へ振られる。外殻は割れず、角の根元に鈍い痺れだけが残った。
岩瀬が戻りかけて、足を止める。
「そこから動かないで!」
俺が言う。
同じ横断を二度させるわけにはいかない。
スケルトンが車道へ降りる。
走ってくる車を避けない。骨の足をバンパーに折られても、停止板の柄を路面へ突き、上半身だけで進んでくる。
八代が中央分離帯の反対側へ回った。
正面から行かず、動く車列を一枚の壁にする。スケルトンが車と車の間へ出た瞬間、岩瀬の短槍が胸の魔石を横から突いた。
一撃では割れない。
次の車が骨の身体を跳ね、槍先ごと魔石を砕いた。
もう一体は、輪になった横断歩道の中へ立ったまま停止板を振り続けている。
追っては来なかった。
「道路の内側だけが担当みたいですね」
岩瀬は短槍を引き戻し、黒い粉を落とす。
「次に会っても同じとは限らない」
八代は探査機の向きを前へ戻した。
バスが過ぎたあと、俺たちは残る二車線を次の車列の切れ目で渡った。誘導された横断歩道は使わず、四人とも反対側の歩道へ上がる。
俺たちは車道から離れ、青い標識が示す外周第七区へ進む。
道路沿いの建物は、窓がほとんど割れていた。中に人影はない。自動販売機の明かりだけが点き、商品欄には水ではなく《帰還許可票》と書かれた白い札が並んでいる。
一枚も取らなかった。
三百メートルほど先に、低い庁舎があった。
正面のガラス扉は割れている。上には、探査機で読んだものと同じ《東京都災害退避庁》の文字が残っていた。
四人が敷地へ入ると、入口脇の電光掲示板が点灯した。
『東京都民 退避完了人数』
数字は、ゼロ。
その下へ新しい欄が増える。
『受入側世界からの到着者』
四。




