第五十六話 戻れない入口
六月一日、午後一時過ぎ。
第零迷宮の核保管室に、昨日までなかった通路が二本開いていた。
片方は白い石床が続き、もう片方からは金属を削る低い音がする。首都環状迷宮の映像を東京へ残し、対策班の車で祖父宅へ戻った時には、灯と、俺が入室を認めた検査担当二人が白い通路を塞いでいた。
「先に言うけど、右目は治らない」
灯は俺の顔を見ず、壁へ浮いた文字を読んでいた。
「表示に出てる」
「見せて」
「俺にしか見えてない」
「じゃあ、全部読んで。都合の悪いところも」
白い通路の奥には、人一人が横になれる黒い石の槽があった。透明な水が浅く溜まり、底から細かな泡が上がっている。
縁へ触れると表示が開いた。
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《治療槽》を使用できます。
対象:大月在真
処置可能:
右肩裂傷の閉鎖補助
右脇腹打撲の修復補助
疲労および生命余力の回復
処置不能:
右眼欠損
進化以前に固定した組織欠損
所要時間:六時間
再使用待機:七十二時間
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一行ずつ読み上げる。
右目のところで、父が一度だけ鼻から息を吐いた。
「六時間で動けるようになる、とは書いてないな」
「閉じる補助だけです」
灯が俺の固定帯へ指を掛け、勝手に外そうとはしなかった。
「東京へ戻るなら、終わったあと私が見る。傷が閉じてても、肩が元どおり動くとは限らないから」
「戻るって決めてない」
父は何も言わなかった。
「戻る気はあるんでしょ」
千紘はそう言って、俺の返事を待たずに通路の外へ出た。自分も寝る、と父に客間の場所を聞いている。
槽へ横になると、水は冷たくなかった。
傷の周りだけを内側から押される。痛みより先に眠気が来て、天井の白い光が途中で途切れた。
六時間後、現在HPは千八百四十まで戻っていた。
右肩の表面は閉じている。腕を胸の高さまで上げると、奥で細い筋が引きつった。
「そこまで」
灯に手首を押さえられる。
「戦えるかじゃなく、どこでまた開くかを見てる。肩より上へ上げない。右で強く引かない。脇腹も打たれたら終わり」
「分かった」
「本当に?」
「三つとも覚えた」
「返事だけは前より上手くなったね」
灯は新しい固定帯を巻き直し、樹液患者の検査へ戻った。治療槽へ入れる許可は、まだ出さないらしい。
もう一本の通路では、装備工房が裂けたヘルメットを分解していた。
黒い作業台から細い腕が何本も伸び、角の位置に合わせて内装を削る。外殻へ二つの溝を開け、後頭部の帯を広いものへ交換しただけで、壊れた箇所まで新品には戻らなかった。
千紘が起きてきた頃には、窓の外が暗くなっていた。
「角、出てる」
加工されたヘルメットをかぶった俺を見て言う。
「穴を開けたからな」
「意味ある?」
「頭は守れる」
「角は?」
「知らない」
千紘は指で片方を軽く弾こうとして、父に見られているのに気づき、途中で手を下ろした。
食事をして、もう一度眠った。
翌朝、俺の数値はHP千九百、MP三百七十。
千紘はHP八百、MP二百八十まで戻っていた。
どちらも全快ではない。
それでも六月二日午前六時半、俺たちはもう一度、首都高速の第三換気坑に立っていた。
ガルは来ていない。
樹海迷宮の入口下から離れず、父だけが昨夜遅くに現地から戻った。今朝は俺たちを東京まで送り、地上の指揮車で待っている。
八代は昨日と同じ防火外套を着ていたが、右袖だけ新しいものに替わっていた。
「探査機、まだ生きてます」
「残りは」
「二十八パーセント。日が沈んだ形跡はなし。信号はずっと赤です」
隣にいる岩瀬は、昨日スケルトンの魔石を砕いた短槍を持っている。槍先だけ交換され、柄には黒い粉が残っていた。
現実側に残る班員が、四人分の装備を床へ並べている。
外へつながるロープはない。
長い通信線も、帰路標識も持ち込まない。同じ経路を戻る危険が消えていない以上、外とつながった物を引いて歩く方が危ない。
「進入は四人。八代、岩瀬、大月君、三枝さん」
東條が名前を確認する。
「現場の先導は八代さん。退避は一人でも決めていいです。能力を使うかは本人に任せます。経路を再使用しないことだけは全員で優先してください」
八代が俺を見る。
「そっちの能力で出口は作れますか」
「場所が分かれば切れることはある。戻れる保証はない」
「昨日よりは、ましな返事ですね」
「探査機より先に死ぬ気はない」
「あれ、俺より高いんで。置いていかないでください」
岩瀬が短槍の石突きで、八代の靴を小さく叩いた。
「今それ言うと、本当に機械を助けに行く人みたいですよ」
「半分はそうだ」
八代は笑わなかった。
千紘は白いイヤホンを外し、胸ポケットへ入れる。乾いた木の実は使わず、小さな金属球を一つ床へ落とした。
球は青い膜へ向かって転がり、触れたところで消えた。
「向こうで止まった。距離は二メートルくらい」
「能力は」
「使ってない。今は二百八十ある」
俺たちは一人ずつ膜の前へ立った。
最初は八代。次に岩瀬。その二人が向こう側から床を二度叩く。千紘が入り、最後が俺だった。
青い膜へ左手を触れる。
昨日は四本あった灰色の筋が、今は三本しか見えない。望月たちを帰した一本だけがなくなっていた。
表示が開く。
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《首都環状迷宮》外周経路へ接続します。
経路使用数:一
同一個体による再通過時、現在の時間座標は保持されません。
接続後の帰還地点は未設定です。
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「戻ったら時間がずれる。帰り先も、まだない」
東條と父へ伝える。
『分かった』
先に返したのは父だった。
『行くなとは、もう言わん。帰る道を見つけてから帰ってこい』
「矛盾してるぞ」
『知るか』
無線の向こうで、何かを置く音がした。
青い膜を越える。
足元の床は続いていたが、空気が乾いていた。
八代と岩瀬、千紘が二メートル先で待っている。床には千紘の金属球があり、その奥へ探査機の履帯跡が延びていた。
振り返る。
青い膜はもうない。
現実側の通路が見えていた場所には、濡れたコンクリート壁があるだけだった。
千紘が息を止める。
「信号、変わった」
探査機から届く映像の中で、別の東京の赤信号が一斉に青へ変わっていた。




