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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第十一章 首都環状迷宮

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第五十五話 空の固定台

 ストレッチャーの車輪が、車内の床を擦っている。


 緩い傾斜を下る速さではなかった。


 一度止まり、また動く。見えない誰かが後ろから押し直しているように、閉じた後部扉へ近づいていく。


「三十八号の遠隔操作は」


「できません。エンジン停止、電装も最低限です」


 東條の問いへ、管制員が無線で答えた。


 望月が端末へ寄る。


「固定は手で外さないと無理です。電源が落ちても、勝手には――」


 言い終わる前に、後部扉の内側の取っ手が下がった。


 田辺が息を呑む。


「あれ、誰も残ってないよな」


「三人ともここにいます」


 水の袋を落とした隊員が答えた。望月が振り返る。


「小野、固定台の番号と傷を見て」


 小野と呼ばれた男が、濡れた手を上着で拭いてから画面を広げた。


「三十八号のです。右の角に、俺がぶつけた跡がある。今日……いや、昨日、出る前につけました」


 後部扉が片方だけ開いた。


 車内へ黒い道路が流れ込んでくる。救急車は止まっているのに、白線だけが後ろへ滑っていた。


 ストレッチャーの前輪が固定台を外れた。


「探査機の音声を上げてください」


 千紘が八代へ言った。


「あっちは動かしてない」


「でも、車輪がいる」


 八代が端末を操作する。


 第三換気坑の青い膜前で止まっていた探査機は、低い機械音だけを拾っていた。その奥へ、細い擦過音が混じる。


 救急車の映像と同じ音だった。


 俺たちのいる通路からは聞こえない。


 千紘は右耳へ指を当てたが、能力名は口にしなかった。自然に聞こえる範囲だけを確かめ、八代の端末へ顔を寄せる。


「こっちを通る」


「壁しか映ってないぞ」


「まだ」


 救急車の後部からストレッチャーが落ちた。


 路面へ前輪が当たり、台全体が大きく跳ねる。映像が揺れた直後、ストレッチャーだけが画面から消えた。


 落ちた場所には何も残っていない。


 一秒も経たず、八代の端末が白く光った。


 探査機の正面を、車輪が横切る。


 青い膜の奥からストレッチャーが現れ、狭い通路を左から右へ走り抜けていった。側面の青い擦り傷も、畳まれたままの点滴棒も同じだった。


 小野が画面へ手を伸ばしかける。


「あれ、うちのです」


「追わせる」


 八代は東條の返事を待たず、履帯を前へ動かした。


「戻すなよ」


 俺が言う。


「そのつもりです」


 探査機が青い膜へ触れる。


 映像は切れなかった。


 薄い光が車体の前から後ろへ抜け、幅の狭いコンクリート通路が映る。床にはストレッチャーの車輪跡が二本続いている。天井の配管から水が落ちていたが、映像の水滴は床へ届く前に一度だけ上へ戻った。


 履帯は同じ場所を踏まない。


 八代は方向転換を使わず、真っすぐ進ませる。班員が隣で通信強度と残量を読み上げる声も、途中から小さくなった。


「三十八号、前方車両まで一メートル」


 別の端末から管制員の声が入る。


 全員の視線が戻った。


 ストレッチャーを失った三十八号の後部は、空の固定台だけになっている。


 前方を走っていた同じ車両と、もう違うところがなかった。


 距離表示が九十センチ、七十、五十と減っていく。


 衝突するはずなのに、車体は揺れない。


 二台の赤色灯が重なった。前方車両の輪郭が後ろの車体へ入り込み、ナンバープレートの数字が一度だけ二重になる。


 そこで映像が暗転した。


「両方、消失」


「車両信号は」


「ありません。路面側の映像も――待ってください」


 管制員の声が止まる。


 端末に、見覚えのある監視映像が開いた。


 画面左上の時刻は、五月三十一日十八時十五分。


 地下入口の手前を、三十八号が走っている。


 助手席には望月がいた。


 望月本人が、床へ座り込んだまま画面を見た。映像の中の自分は前を向き、何かを聞くように顔を上げている。


 金具が二度鳴った。


 続いて、車輪を引く音。


「今の音だったんだ」


 千紘が呟く。


 過去の映像へ、今ストレッチャーが外れた音が入っている。


 それだけは分かった。


 なぜ望月まで助手席にいるのかは、分からないままだ。


「大月君、座ってください」


 東條に言われてから、膝が揺れていることに気づいた。


 壁へ背をつけ、そのまま腰を下ろす。脇腹の固定帯が曲がり、鈍い痛みが遅れて広がった。


 千紘も隣へしゃがんだが、こちらは見ずに八代の端末を追っている。


「探査機は」


「生きてます」


 八代が短く答えた。


 履帯式探査機はストレッチャーの跡を進み続けていた。


 通路の途中には、錆びた標識が何枚も立っている。矢印は前と右を同時に指し、文字だけが削られていた。一枚を通り過ぎるたび、背後の映像から標識そのものが消える。


「何メートル進んだ」


「膜から四十八。今のところ、同じ床は踏んでません」


「帰路は」


「作ってません」


 八代は操作レバーを前へ倒したまま、歯を食いしばっていた。手はレバーから離れない。


 それでも、戻す操作には触れない。


 通路の先が明るくなる。


 朝の光ではない。


 赤く濁った夕方の色が、低い天井の向こうから差していた。


 ストレッチャーは出口の手前で横倒しになっている。青い傷も、車体番号を書いた管理札も残っていた。


 探査機がその脇を抜ける。


 画面の奥へ、道路が広がった。


 高架が何本も重なり、その間から、窓の抜け落ちたビルが見える。道路を覆う灰の上には車が放置され、遠くの信号だけが赤く点いていた。


 現在の東京にもあるはずの塔が、二本並んで立っている。


 片方は途中で折れ、もう片方は黒い蔓のようなものに巻かれていた。


 探査機のすぐ前に、青い道路標識が傾いている。


 汚れの下へ残った白い文字を、八代の班員が拡大した。


『首都環状避難線 外周第七区』


 その下に、もっと小さな文字がある。


『東京都災害退避庁』


 東條が何も言わなくなった。


 俺たちの東京には、そんな役所はない。

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