第五十四話 三人の帰還
錆びた扉の向こうで、二度目の音が少し遅れて返った。
無線からは何も聞こえない。
東條が端末を口元へ寄せる。
「望月さん。聞こえるなら、一回叩いて、少し待ってから二回お願いします」
『一回と、二回ですね』
答えは無線からだった。
その直後、壁が一度鳴る。
間を置いて、二度。
千紘が床へついた手を滑らせ、扉の右下へ指を向けた。
「最後の二回、ここが先」
錆の浮いた場所へ近づく。
最初に見えた四本の筋は、まだ重なっていた。ただ、望月が壁を叩くたび、一本だけがほかより早く震える。ほんのわずかな差で、目を逸らせばもう分からない。
左手を当てると、掌の下でその一本が細くなった。
切っていいのかは、まだ分からない。
扉の向こうには三人いる。
前方の救急車までは、もう三メートルしかない。
「これを開ける」
誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。
千紘が頷く。東條は止めず、八代は入口側へ振り返った。
「盾、こっちへ。扉の正面は空けろ」
待機していた班員が動く音を背中で聞きながら、早く震えた筋だけへ意識を合わせる。
「断界」
左手の奥が冷えた。
灰色の筋が一点で切れ、残りの三本が壁の内側へ沈む。
MPが三十減り、残りは百七十になった。
錆びた扉が、向こう側から押された。
隙間から入り込んだ空気には、排気ガスと湿ったコンクリート、それに消毒液の匂いが混じっている。扉の先は狭い階段だった。蛍光灯は半分以上が消え、下の方だけ橙色の非常灯が点いている。
「開いた、こっちです!」
望月の声が、今度は無線を通さずに届いた。
最初に上がってきたのは田辺だった。資器材の袋を片腕へ抱え、もう片方の手で錆びた手すりをつかんでいる。こちらへ片足を出したところで止まり、奥から差す朝の光を見た。
「朝……?」
「止まらないで。あと二人は」
東條に促され、田辺が扉から離れる。
二人目の隊員は水の袋と救急鞄を胸へ押しつけていた。敷居へ爪先を取られ、八代の班員に腕を引かれる。転びかけても荷物だけは離さなかった。
最後に望月が見えた。携帯無線を肩へ挟み、何度も階段の下を振り返っている。
「望月さん、早く」
「音がします」
俺にも聞こえた。
靴ではない。硬く乾いたものが、段を一つずつ踏んでいる。
千紘が立ち上がろうとして、壁へ肩をぶつけた。
「一体じゃない。三……もっといるかも」
橙色の明かりへ、白い指が掛かった。
肉のない手だった。
次に頭蓋骨が現れ、その後ろから肋骨と錆びた短剣が上がってくる。骨の肩には、古い反射帯の切れ端が巻きついていた。
「スケルトン!」
八代が金属盾を起こす。
大きな音が狭い通路へ弾けた。八代の班員が望月の腕を引き、こちら側へ出す。スケルトンの短剣が盾の上を滑り、錆の粉を散らした。
「三人、出ました!」
望月が叫ぶ。
八代は返事をせず、盾を階段側へ押し込んだ。
骨の足は細い。だが、体重のない見た目に反して押し返す力が強い。盾の縁から覗いた指が床をつかみ、関節を逆に折りながらこちらへ這い出そうとする。
二体目が、その背中を踏んだ。
「頭じゃない。胸に石がある!」
肋骨の奥で、小さな黒い物が揺れていた。
八代が盾を傾ける。
一体目の上半身だけが扉のこちらへ崩れた。班員の短槍が胸へ入ったが、穂先は肋骨の間を抜ける。床へ落ちた頭が歯を鳴らし、身体の方はまだ盾へ腕を伸ばしていた。
白樫の短棒を左手で抜く。
支えを失った足が揺れた。
戦うなと言われた意味を、身体の方が先に思い出す。
それでも、床を這う骨の手首だけは短棒で押さえた。
「八代さん、下」
千紘の声と同時に、盾の右下から別の短剣が突き出た。
俺には見えていなかった。
千紘が安全帯を引き、切っ先が脇腹の固定帯を掠める。八代は盾から手を離さず、踵で床の頭蓋骨を壁際へ蹴った。
「見えてます。そっち、押さえたまま!」
短槍を持った班員が柄を返す。
金属の石突きが、肋骨の奥を一度叩いた。
黒い石にひびが入り、二度目で砕ける。
短棒の下にあった手から力が抜けた。ばらけた骨は動かず、関節の隙間から黒い砂だけが流れ出す。
「閉めます!」
望月が扉の取っ手へ手を掛けた。
「待って、まだ腕が」
二体目の片腕が盾の脇から伸び、敷居へ肘を差し込んでいる。
八代は一歩下がるふりをした。
骨が腕を伸ばした瞬間、盾の下端を床へ落とす。肘が挟まり、乾いた音を立てて砕けた。
「今です」
望月と田辺が二人で扉を引いた。
向こう側から骨がぶつかる。
一度、扉が押し戻された。
田辺の靴が滑り、望月が何か短く悪態をついた。八代が盾ごと扉へ肩を入れる。班員も加わり、錆びた板が少しずつ枠へ戻った。
最後に残った骨の指を、田辺が資器材袋で叩き落とす。
扉が閉まった。
鍵はなかった。
それでも輪郭から錆がこぼれ、扉と枠の隙間へ入り込んでいく。何度か続いた衝突音も、壁へ吸われるように遠くなった。
気づけば、俺は短棒へ体重を預けていた。
千紘は安全帯をつかんだまま、手を離さない。
「見るだけって言った」
「開けただけだ」
「今、棒持ってるけど」
「押さえただけ」
言い返す声が思ったより掠れた。
東條は俺たちを見たが、診断書の話はしなかった。先に救急隊員三人を数え、望月へ向き直る。
「現在は六月一日、午前七時二分です」
田辺が笑いかけて、やめた。
「俺たち、何時間いなかったんですか」
「こちらでは、十二時間以上です」
二人目の隊員が抱えていた水の袋を落とした。破れはしなかったが、床へ鈍い音が広がる。
望月だけは扉を見ていた。
「車、置いてきました」
「乗員の退避が先です。車両は後で――」
東條の端末から、三つの音が鳴った。
金具が二度ぶつかり、車輪が床を擦る。
千紘の指が安全帯の上で強くなる。
「同じ音」
端末には、誰もいなくなった三十八号の車内が映っていた。
前方の同じ救急車までは、二メートルを切っている。
運転席も助手席も空だった。後部のストレッチャーには誰も触れていない。
その固定金具が、ひとりでに二度跳ねた。
ロックの外れたストレッチャーが、閉じた後部扉へ向かって、ゆっくり滑り始めていた。




