第五十三話 一度だけの道
六月一日、午前六時四十七分。
首都高速の地下入口は、夜が明けても赤色灯に埋まっていた。
閉鎖された車線へ消防、警察、自衛隊の車両が並び、その外側を報道と見物人の規制線が囲んでいる。ビルの間には朝の光が差しているのに、地下へ下る坂だけは夜のままだった。
東京へ来たのは、俺と千紘だけだ。
ガルは樹海迷宮の浮いた入口の下から動かなかった。森へ戻ったコボルトの匂いを追っているのか、まだ別の何かを見張っているのかは分からない。父も現地に残り、無理に連れていくなとだけ言った。
俺の脇腹には昨夜より幅の広い固定帯が巻かれ、右肩も動かせる角度を制限されている。病院で横になったのは四時間ほどだったが、眠れたのは一時間もない。
診断書には、移動可、戦闘不可と書かれていた。
「それ、入口の前で読まれると怒られそう」
千紘が紙の端を指で押さえる。
「もう読まれた」
「読んだだけで、守るとは言ってなかったから」
「見るだけだ」
「昨日も聞いた」
千紘自身も聴力検査と診察を受けている。異常なしとは書かれていたが、目の下の薄い影までは診断書に載らない。
東條は地下入口の手前に置かれた指揮車で待っていた。昨日と同じ濃紺の上着だが、襟の折れ方まで同じではない。着替えたのか聞く前に、薄い端末を二枚渡された。
「三十八号の現在です」
外では十二時間近く経っている。
車内時計は、十八時四十三分だった。
前方の同一車両まで八メートル。昨夜二十九メートルだった距離は午前三時過ぎまで縮み続け、その後は止まっている。乗員三人に負傷はなく、本人たちの感覚では、発炎筒が一本へ戻ってから七分しか経っていなかった。
「七分で朝になったんですか」
「こちらの時刻は伝えています。ただ、身体も燃料も、向こうでは七分ぶんしか進んでいないようです」
千紘が映像の望月を見る。無線越しの声にも、長時間閉じ込められた掠れはなかった。
「私たちの映像を向こうへ送ったら?」
「静止画は届きました。五秒後に、撮影時刻だけ十一時間前へ変わりました」
東條は端末を取り返さず、先に地下へ向かう。
入口前には、昨夜画面越しに見た民間攻略者たちも残っていた。金属盾は地面へ寝かされ、何人かは車両の陰で眠っている。
一人だけ、灰色の防火外套を着た男が起きていた。
「八代航平です。昨夜、一班入れるって言ったのは俺です」
「聞こえてた」
「止められて正解だったとは、まだ言いません。三人とも出せてないんで」
謝罪でも反発でもなく、八代はそう言って手を差し出した。俺の右肩を見て、途中で左手へ変える。
握ると、掌に細かな硬い傷があった。
「うちの探査機が先に入ってます。帰路へ向けてないから、映像はまだ切れてません」
八代の端末には、幅四十センチほどの履帯式探査機が映っていた。
午前四時十二分、閉鎖区間の手前にある第三換気坑から投入。現実側の古い図面にだけ残っていた管理通路を直進し、十七メートル先の薄い膜で停止している。
一度も曲がらず、同じ場所も通っていない。
「ロープは」
「つないでません。帰したくなっても、帰せないようにしました」
「自分の機械だろ」
「だからです」
八代はそれ以上説明しなかった。探査機の後部には、切断された電力線の端が短く残っている。通信も電源も内部の物だけで、外へ続くものはない。
第三換気坑は、地下入口から百メートルほど手前の側壁にあった。
鉄扉を二枚抜けると、車一台ぶんの空間が細いコンクリート通路へ変わる。空気は冷たく、埃と古い油の匂いがした。現実の設備はそこで終わり、十七メートル先だけが水面のように青く揺れている。
近づくと、右目のない側が先に押された。
足を止めても圧迫感だけが残り、額の角の根元まで鈍く痺れる。
表示が開いた。
――――――――――
未収容迷宮《首都環状迷宮》を確認しました。
等級:B
接続座標:不定
時間座標を固定できません。
迷宮核への収容経路は確立できません。
――――――――――
「名前が出た」
東條と八代が同時にこっちを見た。
「首都環状迷宮。B級。接続する場所も時間も固定できない。今は核までつなげない」
「切れますか」
東條が聞く。
青い膜へ左手を近づける。
触れる寸前、灰色の細い筋が四本見えた。膜の表面から奥へ並んでいるのではない。同じ場所へ、わずかにずれて重なっている。
「何かある。でも、一つじゃない」
「四つ?」
「そう見える」
一本だけ選べるか意識を向けると、四本すべてが薄くなった。どれが三十八号へ続くのかも、切ったあと残りがどう動くのかも分からない。
手を下ろす。
「今は切らない」
八代が膜と俺の手を見比べた。
「切ったら、向こうへ行けるんですか」
「行けたことはある。帰れたとは言ってない」
「なら、今はいいです」
昨夜、入ると言った男は、迷わず一歩下がった。
千紘は膜の手前へしゃがみ、自分の端末を床へ置く。白いイヤホンを外し、代わりに片耳のコボルトから受け取った木の実を取り出した。
「一回使う。今は百八十だから、百六十になる」
「届く範囲は」
「二十メートルくらい。重なってたら、もっとずれるかも」
東條が周囲の無線を止めさせる。換気扇も落ち、遠くに残っていた車両のエンジン音まで薄くなった。
千紘が木の実を床で転がす。
乾いた種が二度鳴った。
「音界地図」
千紘の肩が強く上がった。
木の実は目の前で止まっている。それなのに、千紘の顔は膜の奥、左の壁、俺たちの背後へ順に向いた。最後に、右側の何もないコンクリート壁を見る。
「通路が四つある」
「表示と同じ数だ」
「同じ形じゃない。一本は下りる。一本は途中で駅みたいに広がってる。探査機がいるのは、たぶん一番狭いところ」
千紘は右耳を押さえたまま立ち上がれなかった。八代が腕を取ろうとして止まり、代わりに端末だけを床から拾う。
「もう一本は」
俺が聞く。
「後ろ」
千紘が指したのは、俺たちが入ってきた現実側だった。
「来た道の中に、もう一本重なってる。音だけ先に戻ってきた」
東條の無線へ、東京側の管制員が割り込んだ。
『前方車両まで三メートル。三十八号を側方退避へ移します』
望月たちには、昨夜から決めていた手順が伝えられる。救急資器材、水、携帯無線だけを持ち、右側に現れた管理扉へ移る。三人とも車両は捨てる。
『扉を開けます』
望月の声が端末から聞こえた。
同時に、換気坑の右壁で金属が鳴った。
全員がそちらを見る。
ただのコンクリートだった壁へ、縦長の錆が浮いている。錆は上から下へ伸び、扉の輪郭になった。
『階段があります。上へ続いてます』
望月の声が、端末より先に壁の向こうから聞こえた。
千紘が床へ手をついたまま顔を上げる。
「ここ」
錆びた輪郭の内側で、誰かが扉を二度叩いた。




