第五十二話 二本目の発炎筒
開いた後部扉の奥に、人はいなかった。
白い天井灯と、壁へ留められた酸素ボンベ。空になったストレッチャーの固定台まで、三十八号の車内と同じだった。
違うのは、床を転がってきた赤い火だけだった。
『発炎筒です』
望月の声が固くなる。
前を走る救急車から一本の発炎筒が落ち、路面で二度跳ねた。火花を散らしながら左端へ寄っていく。
『青いテープが巻いてあります。私たちが置いたものです』
『断定できますか』
『使う前に二本ずつ巻きました。キャップも、田辺さんが踏んで割ってます』
東京側の映像が拡大される。赤い光の根元に青い帯が二本あり、黒いキャップは片側だけ潰れていた。
同じものが、中央分離帯の向こうでも燃えている。
一回目に置いた発炎筒と、前方の救急車から落ちた二本目。どちらの火も弱っておらず、道路の両側で赤い煙を吐いていた。
『触らないでください。車外にも出ないで』
東條が言う。
『分かってます』
望月の返事は早かったが、無線の奥で別の男が何かを叩いた。車内にいる三人だけで話しているらしく、言葉までは拾えない。
千紘はヘッドホンを両手で持ち、耳へ戻さずにいた。
「三つの音、あれの中からしてた」
「前の救急車?」
「たぶん後ろ。ストレッチャーの下」
俺には同じ音にしか聞こえなかった。千紘はさっきから開いたままの波形を指で広げ、届いた無線を横へ並べる。
「最初の二つは金具。最後だけ車輪が擦ってる。扉じゃなくて、載せる時の音かも」
東條がこちらを見た。
『三十八号、現在のストレッチャーを確認できますか』
無線が遠くなる。後部にいた隊員が動いたらしく、留め具の外れる音と、靴底が床を擦る音が返ってきた。
『固定されたままです。使用していません』
『前方車両は』
『固定台が空です』
まだ誰も乗せていない三十八号と、誰かを降ろしたあとの三十八号。
そう見えるだけで、前にある方が未来だとは限らない。それでも、出動前の映像に望月が乗っていた理由は、車だけが先へ回ったと考えればつながってしまう。
脇腹へ置かれていた隊員の手が離れた。代わりに新しい固定帯を巻かれ、息を吸うたび胸の下が狭くなる。
「きつい」
「立たないなら少し緩めます」
「立たない」
答えた直後、千紘がこっちを見た。
「今夜は、ってつけないの」
「今は立たない」
「短くなっただけだよ」
処置をしていた隊員が笑いそうになり、固定帯の端を引いて誤魔化した。
端末から短い警報が鳴る。
前方の救急車まで四十三メートルと表示していた測距値が、一度に三十六メートルへ変わった。
『動いてません!』
運転手の声だった。
『ブレーキも踏んだままです。向こうも止まってます』
車体は動いていない。路面の白線と壁の非常灯だけが、少しずつ後ろへ流れていた。
道路の方が二台を近づけている。
東京の管制室で、進入待機中の隊から声が上がった。
『距離が詰まってるなら、今のうちに一班だけ入れます。三人を乗せ替えて、そのまま出口へ――』
『同じ道を帰らせるつもりですか』
東條が遮る。
『救急車を置いて徒歩なら』
『移動手段ではなく経路が条件かもしれません。まだ入れません』
男は何か言い返したが、東京側で音を切られた。画面の端には、入口前へ集まった隊員と民間攻略者らしい人影が映っている。防火服、金属盾、長い槍。装備だけなら、樹海へ入った俺たちより揃っていた。
待っている三人を助けたいのも本当だろう。
だから入る、で帰れなくなった人間を、俺は今日だけで四人運んだ。
「同じ道を使わせるな」
声が思ったより近く端末へ入った。
東條がこちらを見る。
「救助ロープも、たぶん駄目だ。入った道に沿わせたら、帰りも同じになる」
『では、何を目印に戻りますか』
「まだ分からない」
答えたあとで、喉の奥が熱くなった。分からないまま人が待っている。その感じだけは、第零迷宮へ最初に入った朝と変わらない。
千紘が二本の映像を閉じ、東京救急三十八号の無線だけを残した。
「三つの音がした場所を、同じ場所だと思わない方がいいかも」
『どういう意味ですか』
「映像だと、救急車の位置が違うのに同じ音が入ってた。今も前の車から聞こえたように見えて、無線は後ろの車から来てる」
千紘は一度言葉を止め、波形の印を一つ消した。
「道だけじゃなくて、音の出口もずれてるかもしれない。これを目印に歩いたら、違うところへ行く」
消した波形の印を、千紘は戻さなかった。
東條は東京側へ、音響誘導を救出手順から外すよう伝える。代わりに、入口からまだ一度も使われていない管理通路と換気坑を洗い出させた。
『地図にない接続がある前提で、一方通行の探査機だけを入れます。戻す操作はしません』
『三十八号は』
『停車を継続。前方車両が接触する距離まで来た場合だけ、側方の管理扉へ移ってください』
『管理扉がなかったら』
望月が聞く。
東條はすぐには答えなかった。
『その時点で、もう一度判断します』
『分かりました』
東條は大丈夫だとは言わなかった。望月も、それ以上は聞かなかった。
前方車両まで、三十二メートル。
二本の発炎筒はまだ燃えている。前から落ちた方が先に点火されたように短くなっているのに、火の強さは二本とも同じだった。
東條が俺たちの端末だけへ声を落とした。
『大月さん。明日の朝、東京へ来ていただきたいです』
「今夜は動くなって言っただろ」
『今夜は動かしません。診察を受けて、移動可能と判断されて、それでも本人が来ると決めた場合です』
「何をさせる」
『久世駅で、閉じた経路を一度だけ開きましたね。同じことができる場所があるか、入口の外から見てほしい』
《断界》の名前も、消費するものも東條は知らない。
できるかどうかは、俺にも分からなかった。時間まで切れるほど便利な能力なら、これまで触れた境界で一度くらい違う手応えがあったはずだ。
「見るだけなら」
『中へ入る判断は、そのあとです』
千紘が端末へ顔を寄せる。
「私は?」
『音声の照合をお願いしたいです。現地へ来るかは――』
「私が決めていい?」
返事が一拍遅れた。
『診察結果に問題がなければ』
「じゃあ、明日決めます」
千紘は端末を膝へ戻した。俺にも同じことを言わせるつもりらしく、画面をこっちへ向けたまま待っている。
「俺も明日決める」
「今、見るだけならって言った」
「決めたとは言ってない」
「そういうところだけ細かい」
前方車両まで、二十九メートル。
中央分離帯の向こうで、最初の発炎筒が急に消えた。
燃え尽きたのではない。赤い火も、煙も、潰れたキャップも一緒に消え、黒い路面だけが残った。
直後、前の救急車から落ちた二本目が大きく燃え上がる。
『一本になりました』
望月が言った。
停車中の三十八号の車内時計が、十八時三十六分へ進んだ。




