第五十一話 前を走る救急車
一台目の救急車が斜面の下へ消えてから二十三分後、千紘の端末に二本の元データが届いた。俺たちはまだ現場本部の脇にいた。
脇腹へ当てられた圧迫材は、身体を少し傾けるだけで骨の際へ食い込む。右肩も冷やされているのに熱く、立ち上がろうとするたび、近くの隊員に座っているよう言われた。さっきから三回目だった。
「立ってない」
「立つ前に止められてるだけでしょ」
千紘は端末を横向きにし、俺の膝へ半分載せた。自分の白いイヤホンは使わず、現場本部から借りた大きなヘッドホンを左耳だけに当て、右耳は空けている。
画面には十八時二十六分の救急車が映っている。圧縮前でも映像そのものは暗く、赤色灯がトンネルの壁を塗り替えるたび、助手席の窓へ空の座席が浮かんだ。千紘が再生位置を戻す。
「こっちは、やっぱりいない」
「席の下に伏せてるとかは」
「ベルトが戻ってる。たぶん席には誰もいない」
次に、十八時十五分の映像を開く。同じ救急車が同じ方向から来るが、こちらの助手席には人影があった。窓へ顔を向けていて、頬から下は赤色灯の反射に潰れている。制服の肩だけが、一瞬明るくなった。
「これ、救急の人じゃない?」
「そう見える」
人影の肩には銀色の反射材があり、その下に白い刺繍があった。拡大すると輪郭が崩れたが、最初の一文字だけは望にも月にも見えた。
東條の映った端末は、折り畳み机の上に置かれている。周りでは樹液の欠片を入れた容器が二重に封じられ、搬送先と検査手順を確認する声が飛び交っていた。
『乗員名簿を確認しました。助手席にいたのは、望月志保さんだと思われます』
「出た時も助手席?」
『はい。運転手一名、救急救命士二名です。もう一名は後部にいました』
「じゃあ、二十六分の時だけ後ろに移ったのかもしれない」
千紘はそう言ったが、指は再生位置から離れなかった。人が席を移ること自体はおかしくない。おかしいのは、人が乗っていた十八時十五分の方が、救急車の出動より四分早いことだった。
再生すると、まだ始まっていないはずの封鎖放送が遠く混じる。音量を上げても言葉は崩れていたが、入口への進入を禁じる文だけは聞き取れた。千紘の指が、波形の途中で止まった。
「ここ」
「放送?」
「その前」
聞き直すと、サイレンの下で短い音が三つ続いていた。一定ではない。二つ目だけ少し遅く、最後は硬いものを擦って終わる。
「何の音だ」
「分からない。でも、二十六分の方にもある」
別の映像へ切り替え、千紘が同じ場所を探す。こちらでは救急車がカメラへ近づく前に三度鳴った。間隔も、最後の擦れ方も同じだった。
「道路の継ぎ目じゃないのか」
「だったら二本とも、車が同じ場所にいる時に鳴るはず」
十八時十五分では、救急車がカメラを通り過ぎたあと。二十六分では、まだカメラから遠い。音だけが同じ順番で、違う場所に混じっている。
千紘がヘッドホンを外した。耳の後ろに髪が張りついている。かけ直そうとして汗で指へ絡ませ、俺が左手を出すと、ヘッドホンをそのまま押しつけてきた。
「聞いて」
「俺に分かると思うか」
「分からないって言ってほしい時もある」
左耳へ当てる。三つの音は小さかった。何度聞いても、俺には車体のどこかが揺れたようにしか思えない。
「分からない」
「うん」
千紘は端末へ戻り、波形の二か所に印をつけた。東條が誰かに呼ばれて画面の外を向き、そのまま戻らないうちに、東京側の音声だけが急に大きくなった。知らない男の声が重なる。
『東條さん、三十八号から入感です』
『録音を。こちらにも回してください』
机の周囲にいた人間が、一斉に端末を見た。映像が東京の道路管制室へ切り替わる。壁一面の画面は半分以上が黒く、残った映像にも、トンネルの途中から奥だけが映っていない。中央の卓で、無線機を握った男が呼びかけていた。
『東京救急三十八、現在地を送れますか』
砂を擦るような雑音のあと、細い声が返る。
『位置表示が動きません。八号連絡路、霞門出口の手前です』
『そちらの時刻は』
『十八時三十四分』
現場本部の時計は、十九時九分だった。
東條は画面の端に戻っていた。驚いた様子はなかったが、ペンを持つ指が止まっている。
『乗員三名に負傷は』
『ありません。ただ、同じ待避所を二回通りました』
無線の向こうで、別の誰かが早口に何かを言った。
『望月さん、代われますか』
『望月です』
十八時十五分の助手席にいた女だった。
『同じ場所という根拠を教えてください』
『壁の管理番号と、消火器箱の割れです。一回目で発炎筒を一本置きました。直進して、霞門出口へ上がったはずなのに、また同じ待避所へ出ました』
『発炎筒は』
『ありました。火も消えてません』
迷ってから、望月は続けた。
『でも、置いた場所が反対車線でした』
管制室で誰かが聞き返す。
『反対車線とは』
『私たちから見てです。最初は左へ置きました。二回目は中央分離帯の向こうにあったんです。道路全体が入れ替わったみたいに』
東條の声が割り込んだ。
『これ以上、同じ経路を進まないでください。最寄りの待避所へ停車。エンジンは切らず、全員車内で待機してください』
『もう止まっています』
『現在地は先ほどの待避所ですか』
返事が遅れた。無線の奥で、例の音がする。短く三つ。二つ目が少し遅れ、最後に硬いものが擦れた。
千紘が俺の膝から端末を取り上げた。音声波形を開き、届いたばかりの無線録音を巻き戻す。
「同じだ」
誰へ言ったのか分からなかった。
東京の管制員は望月を呼び続けている。応答の代わりに、救急車の方向指示器らしい音が規則正しく鳴り、しばらくして男の声が戻った。
『前に一台います』
『救助車両ですか』
『救急車です。さっきから、ずっと同じ距離で』
『車体番号は確認できますか』
息を吸う音が無線へ近づいた。
『三十八です』
管制室の誰も、すぐには声を出さなかった。
『こちらが三十八号です。前も、うちの車です』
俺は立ち上がりかけた。脇腹が遅れて縮み、視界の右側から黒くなる。机へ左手をつく前に、千紘が肩ではなく服の裾をつかんだ。
膝を戻す。貸与ヘルメットの裂けた内装が靴へ当たり、横に倒れた。東條は東京側へ指示を続けている。前方車両へ近づかないこと、後退しないこと、車内時計と無線時刻を一分ごとに読み上げること。全国招集で先に到着した隊も、入口の外から動かさない。
千紘が自分の端末を持ち上げた。
「東條さん。三十八号の音、こっちにも流してください」
『三枝さんは休んでください』
「中には行かないです。聞くだけ」
『それでもです』
「三つの音は、十五分と二十六分の映像にも入ってます。今の無線で三回目」
東條が黙る。断るためではなく、別の人間へ確認している間だった。
『回線を分けます。異変があれば、解析を続けず報告してください』
「分かりました」
千紘は返事をしてから俺を見た。
「在真は聞かなくていいよ」
「さっき聞かせただろ」
「分からないって確認したかっただけ」
言い返そうとして、息が浅くなった。脇腹を押さえている隊員が、空いた手を上げて俺を止めた。
無線では望月が時刻を読み上げていた。
『十八時三十五分。前方車両、変化なし』
外では十九時十一分になる。
『十八時三十五分。まだ変わりません』
一分後も、望月は同じ時刻を読んだ。方向指示器が二度鳴る間に、前を走る救急車の後部扉が開き始めた。




