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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第十一章 首都環状迷宮

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第五十一話 前を走る救急車

 一台目の救急車が斜面の下へ消えてから二十三分後、千紘の端末に二本の元データが届いた。俺たちはまだ現場本部の脇にいた。


 脇腹へ当てられた圧迫材は、身体を少し傾けるだけで骨の際へ食い込む。右肩も冷やされているのに熱く、立ち上がろうとするたび、近くの隊員に座っているよう言われた。さっきから三回目だった。


「立ってない」


「立つ前に止められてるだけでしょ」


 千紘は端末を横向きにし、俺の膝へ半分載せた。自分の白いイヤホンは使わず、現場本部から借りた大きなヘッドホンを左耳だけに当て、右耳は空けている。


 画面には十八時二十六分の救急車が映っている。圧縮前でも映像そのものは暗く、赤色灯がトンネルの壁を塗り替えるたび、助手席の窓へ空の座席が浮かんだ。千紘が再生位置を戻す。


「こっちは、やっぱりいない」


「席の下に伏せてるとかは」


「ベルトが戻ってる。たぶん席には誰もいない」


 次に、十八時十五分の映像を開く。同じ救急車が同じ方向から来るが、こちらの助手席には人影があった。窓へ顔を向けていて、頬から下は赤色灯の反射に潰れている。制服の肩だけが、一瞬明るくなった。


「これ、救急の人じゃない?」


「そう見える」


 人影の肩には銀色の反射材があり、その下に白い刺繍があった。拡大すると輪郭が崩れたが、最初の一文字だけは望にも月にも見えた。


 東條の映った端末は、折り畳み机の上に置かれている。周りでは樹液の欠片を入れた容器が二重に封じられ、搬送先と検査手順を確認する声が飛び交っていた。


『乗員名簿を確認しました。助手席にいたのは、望月志保さんだと思われます』


「出た時も助手席?」


『はい。運転手一名、救急救命士二名です。もう一名は後部にいました』


「じゃあ、二十六分の時だけ後ろに移ったのかもしれない」


 千紘はそう言ったが、指は再生位置から離れなかった。人が席を移ること自体はおかしくない。おかしいのは、人が乗っていた十八時十五分の方が、救急車の出動より四分早いことだった。


 再生すると、まだ始まっていないはずの封鎖放送が遠く混じる。音量を上げても言葉は崩れていたが、入口への進入を禁じる文だけは聞き取れた。千紘の指が、波形の途中で止まった。


「ここ」


「放送?」


「その前」


 聞き直すと、サイレンの下で短い音が三つ続いていた。一定ではない。二つ目だけ少し遅く、最後は硬いものを擦って終わる。


「何の音だ」


「分からない。でも、二十六分の方にもある」


 別の映像へ切り替え、千紘が同じ場所を探す。こちらでは救急車がカメラへ近づく前に三度鳴った。間隔も、最後の擦れ方も同じだった。


「道路の継ぎ目じゃないのか」


「だったら二本とも、車が同じ場所にいる時に鳴るはず」


 十八時十五分では、救急車がカメラを通り過ぎたあと。二十六分では、まだカメラから遠い。音だけが同じ順番で、違う場所に混じっている。


 千紘がヘッドホンを外した。耳の後ろに髪が張りついている。かけ直そうとして汗で指へ絡ませ、俺が左手を出すと、ヘッドホンをそのまま押しつけてきた。


「聞いて」


「俺に分かると思うか」


「分からないって言ってほしい時もある」


 左耳へ当てる。三つの音は小さかった。何度聞いても、俺には車体のどこかが揺れたようにしか思えない。


「分からない」


「うん」


 千紘は端末へ戻り、波形の二か所に印をつけた。東條が誰かに呼ばれて画面の外を向き、そのまま戻らないうちに、東京側の音声だけが急に大きくなった。知らない男の声が重なる。


『東條さん、三十八号から入感です』


『録音を。こちらにも回してください』


 机の周囲にいた人間が、一斉に端末を見た。映像が東京の道路管制室へ切り替わる。壁一面の画面は半分以上が黒く、残った映像にも、トンネルの途中から奥だけが映っていない。中央の卓で、無線機を握った男が呼びかけていた。


『東京救急三十八、現在地を送れますか』


 砂を擦るような雑音のあと、細い声が返る。


『位置表示が動きません。八号連絡路、霞門出口の手前です』


『そちらの時刻は』


『十八時三十四分』


 現場本部の時計は、十九時九分だった。


 東條は画面の端に戻っていた。驚いた様子はなかったが、ペンを持つ指が止まっている。


『乗員三名に負傷は』


『ありません。ただ、同じ待避所を二回通りました』


 無線の向こうで、別の誰かが早口に何かを言った。


『望月さん、代われますか』


『望月です』


 十八時十五分の助手席にいた女だった。


『同じ場所という根拠を教えてください』


『壁の管理番号と、消火器箱の割れです。一回目で発炎筒を一本置きました。直進して、霞門出口へ上がったはずなのに、また同じ待避所へ出ました』


『発炎筒は』


『ありました。火も消えてません』


 迷ってから、望月は続けた。


『でも、置いた場所が反対車線でした』


 管制室で誰かが聞き返す。


『反対車線とは』


『私たちから見てです。最初は左へ置きました。二回目は中央分離帯の向こうにあったんです。道路全体が入れ替わったみたいに』


 東條の声が割り込んだ。


『これ以上、同じ経路を進まないでください。最寄りの待避所へ停車。エンジンは切らず、全員車内で待機してください』


『もう止まっています』


『現在地は先ほどの待避所ですか』


 返事が遅れた。無線の奥で、例の音がする。短く三つ。二つ目が少し遅れ、最後に硬いものが擦れた。


 千紘が俺の膝から端末を取り上げた。音声波形を開き、届いたばかりの無線録音を巻き戻す。


「同じだ」


 誰へ言ったのか分からなかった。


 東京の管制員は望月を呼び続けている。応答の代わりに、救急車の方向指示器らしい音が規則正しく鳴り、しばらくして男の声が戻った。


『前に一台います』


『救助車両ですか』


『救急車です。さっきから、ずっと同じ距離で』


『車体番号は確認できますか』


 息を吸う音が無線へ近づいた。


『三十八です』


 管制室の誰も、すぐには声を出さなかった。


『こちらが三十八号です。前も、うちの車です』


 俺は立ち上がりかけた。脇腹が遅れて縮み、視界の右側から黒くなる。机へ左手をつく前に、千紘が肩ではなく服の裾をつかんだ。


 膝を戻す。貸与ヘルメットの裂けた内装が靴へ当たり、横に倒れた。東條は東京側へ指示を続けている。前方車両へ近づかないこと、後退しないこと、車内時計と無線時刻を一分ごとに読み上げること。全国招集で先に到着した隊も、入口の外から動かさない。


 千紘が自分の端末を持ち上げた。


「東條さん。三十八号の音、こっちにも流してください」


『三枝さんは休んでください』


「中には行かないです。聞くだけ」


『それでもです』


「三つの音は、十五分と二十六分の映像にも入ってます。今の無線で三回目」


 東條が黙る。断るためではなく、別の人間へ確認している間だった。


『回線を分けます。異変があれば、解析を続けず報告してください』


「分かりました」


 千紘は返事をしてから俺を見た。


「在真は聞かなくていいよ」


「さっき聞かせただろ」


「分からないって確認したかっただけ」


 言い返そうとして、息が浅くなった。脇腹を押さえている隊員が、空いた手を上げて俺を止めた。


 無線では望月が時刻を読み上げていた。


『十八時三十五分。前方車両、変化なし』


 外では十九時十一分になる。


『十八時三十五分。まだ変わりません』


 一分後も、望月は同じ時刻を読んだ。方向指示器が二度鳴る間に、前を走る救急車の後部扉が開き始めた。

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