第五十話 同じ救急車
埋もれた信号が赤く灯っている間にも、三人の脈は遅くなっていた。
灯は腕時計を見て、琥珀色の樹液へ書いた時刻を一人ずつ直す。数字の間隔はほとんど変わらない。それでも、最初に運び込まれた隊員だけは、顎の下へ当てた指が長く止まった。
「この人から出す。榊さんは、その次」
「三人を先じゃないのか」
神崎が聞く。
「樹液の中は遅いなりに安定してる。榊さんは処置が切れたらまた出血する。この二人は今の脈なら順番を待てる」
言いながら、灯は三人目へ戻っていた。神崎の返事を待ってはいない。
避難空洞の壁は、半分ほどなくなっていた。コボルトたちが寝床の蔓を外し、低くなった枝へ新しい道を編んでいる。天根鹿が止まっても森の上下は元へ戻らず、俺たちが来た編み道も切れたままだった。
片耳の個体が骨の鉤を投げる。鉤は向こうの枝へ届かず、白い靄の中へ落ちた。結んでいた蔓を引き戻し、今度は俺の安全帯を指す。
「俺が持っていけばいいんだな」
言葉が通じたわけではない。だが、片耳の個体は鉤を俺の足元へ置き、枝の間を二度叩いた。
二歩。千紘が俺より先に分かったらしい。
「今度は端に置かないで」
「腰から離さない」
「さっきも次は気をつけるって言ってた」
骨の鉤から伸びる蔓を安全帯へ通す。蔓は救助ロープより軽いが、途中で枝へ触れれば絡まる長さだった。
脇腹へ手を当てると、金具に抉られた場所が熱を持っている。灯には見られていたが、今は患者から離れる気がなさそうだった。
向こうの枝まで五メートルほどある。左側にある太い分かれ目へ狙いをつけた。右は見ない。着地点を欲張らず、最後の一歩を残す。
「空歩」
一歩目を空へ置く。足裏の板が割れるより早く、身体を前へ送った。二歩目は枝の中央へ置き、膝を曲げたまま樹皮へ倒れ込む。
胸が枝へ当たった。痛みは来たが、落ちなかった。
「今回は着いた」
振り返ると、千紘は返事をせず蔓の反対側を片耳の個体へ渡していた。
二本の太い枝の間へ、一本目の蔓が張られる。コボルトたちはそれを渡ってこなかった。別の蔓を輪にし、最初の一本へ引っかける。さらに三本、四本と重ね、結び目をずらして細い吊り橋へ変えていく。
俺が一人で往復しても、患者は運べない。空中へ作れる二歩より、残る道の方が必要だった。
最初の樹液の塊が空洞から出る。
神崎が先頭を持とうとしたが、村瀬が持ち手を離さなかった。
「神崎さん、向こうへ行ってください」
「お前一人で後ろを持つ気か」
「受ける人がいません。先で引く方が重いです」
神崎は一度だけ三人の隊員を見たあと、吊り橋へ足を置いた。
片耳のコボルトが神崎の腰へ予備の蔓を結ぶ。神崎は外そうとして、やめた。
一人目は灯と村瀬、二体のコボルトが運んだ。俺と神崎がこちらの枝から蔓を引き、傾いた塊を中央へ戻す。
次に榊の担架が来る。
「まだ切れてないですよね」
榊が灯へ聞いた。
「何が」
「時間」
「喋れるなら運ばれる方に集中して」
「それ、答えになってないな」
榊は顔をしかめたまま、自分で担架の胸紐を握り直した。
三人目の樹液が渡り終わる頃には、掌の皮が蔓へ擦れていた。最後の塊を受け取った神崎は、人数を数えなかった。名前を一人ずつ呼び、樹液の外へ出ている手袋や靴へ触れていく。
返事はなかった。
それでも、全員いた。
帰りの道は一本では終わらなかった。コボルトたちは避難空洞をほとんど解体し、低い枝へ道を継ぎ足していく。折れた幹をくぐり、薄く残る靄の上を回る。
空洞にいた四体は、二つ目の橋を渡し終えたところで別の太い枝へ移った。外した寝床の束と骨槍を持ち、こちらを待たず森の奥へ消える。片耳の個体たち三体だけが、患者と一緒に先へ進んだ。
三度目の橋を渡ったところで赤い救助ロープが見えた。
外の杉へ続いていたはずのロープは、太い根へ巻きついている。神崎が引くと、遠くで二回、弱い返しが来た。
「外に残ってる」
最後の音だけが、喉に引っかかった。
千紘はロープへ耳を寄せたが、《音界地図》は使わなかった。絡んだ根の位置を村瀬へ伝え、二人で張りを戻していく。
入口の青い境界は、現実側の斜面から三メートルほど浮いていた。重力が元へ戻ったわけではない。境界の向こうだけが、杉の根を下にしている。
コボルトたちは、その手前で止まった。負傷していた一体の左腕には、灯が巻いた包帯が残っている。片耳の個体は神崎の前まで来ると、腰袋から黄色いものを出した。
ペンの蓋だった。
「拾ってたのか」
神崎が手を出す。
片耳の個体はその掌へ蓋を置かず、救助服の胸ポケットへ直接押し込んだ。次に三つの樹液を指し、短く喉を鳴らす。
「全員いる」
通じないはずの返事を、神崎はした。
千紘が水筒を差し出すと、負傷した個体が一度だけ手を伸ばした。けれど片耳の個体がその腕を下げさせ、水筒を千紘へ押し返す。
代わりに、空になった小さな木の実を一つ置いた。警告の音に使っていたものより薄く、振ると乾いた種が二度鳴った。
「これと交換?」
千紘が聞いた時には、三体はもう背を向けていた。
ガルだけが境界の手前に残る。森へ戻る三体を見たあと、俺の匂いを嗅ぐように鼻を上げた。
「行くぞ」
呼んでも、すぐには来なかった。片耳の個体が最後の枝へ移るまで見届けてから青い境界を越え、俺たちより先に現実側へ戻った。
無線が一斉に鳴り始めた。人の声、救急車のエンジン、回り続けていた発電機。さっきまで遠かった音が狭い斜面へ重なり、左耳の奥が痛くなる。
待機していた隊員たちが赤いロープへ集まった。
「担架四、全員生存! 樹脂状の異物あり、切るな!」
村瀬が先に叫ぶ。
灯は腕時計を見た。
「榊さん、あと二分。先に車内へ」
それだけ言って榊の担架へ走り、一台目の救急車を手で示した。
「樹液は上下を変えないで。毛布は下だけ、表面にテープを貼らないでください」
担架が車内へ収まる。灯は後部へ乗り込む前に、俺を振り返った。
「治療用の施設へは、まだ運ばないで。先に樹液の欠片だけ調べます」
返事を待たずに扉が閉まり、一台目が斜面を下り始めた。
神崎は三人目の担架から離れなかった。救急車へ載せる時だけ手を放し、自分も後部へ乗り込む。
扉が閉まる直前、胸ポケットから黄色いペンの蓋が落ちた。村瀬が拾い、車内へ投げ返す。
「もう落とさないでください」
「お前が拾うだろ」
「次は拾いません」
扉が閉じた。
俺と千紘は現場本部の脇へ座らされた。脇腹へ圧迫材を当てられ、千紘は両方のヘルメットを地面へ置く。俺の方は角へ当たった内装が裂けていた。
「それ、返せるのかな」
「壊した扱いになるだろ」
「角が生えたので壊れました、で通る?」
「見れば分かる」
千紘が少し笑い、すぐ木の実を耳元で振った。二度だけ、乾いた音がする。
現場本部から一人が出てきた。手にした端末の画面には東條が映っている。
『大月さん、聞こえますか』
「聞こえてる」
『核は』
「回収した。第零迷宮に治療用の施設が開いた」
「患者は運ばない。灯さんが、先に樹液の欠片だけ調べるって」
『分かりました。病院側と手順を作ります。施設へ入れる人は大月さんが決めてください』
「灯さんには見てもらう」
東條が何か言いかけ、画面の外へ顔を向ける。遠くで別の声が重なり、端末の音が一度切れた。
『すみません。もう一件です』
「どこ」
『東京です。首都高速の地下区間で入口が拡大しました。現時点でB級見込み』
端末へ二つの映像が送られてくる。どちらも、暗いトンネルを走る白い救急車だった。車体番号も、赤色灯の欠けた位置も同じに見える。
一つ目の時刻は十八時二十六分。二つ目は十八時十五分。道路管制へ後から保存された映像の方が、十一分前になっていた。
「時計がずれたんじゃないの」
千紘が端末を受け取り、音量を上げる。二つ目を最初から再生し、救急車のサイレンではなく、その下へ混じる無線を聞いた。
「こっち、入口封鎖の放送が入ってる」
『封鎖を始めたのは十八時二十一分です』
「じゃあ、この映像の時刻にはまだ流れてない」
『監視カメラ三台と道路管制の時計は一致しています。映像の改変も今のところ見つかっていません』
「救急車は戻った?」
東條はすぐに答えなかった。
『通過を示すのは映像だけです。出口の車両センサーは一度も反応していません。車両が現場へ出動したのは十八時十九分で、今も地下区間から出ていません』
十八時十五分の映像に、まだ出動していない救急車が映っている。千紘がもう一度、木の実を振ると、二度の音が今度は同じ間隔に聞こえなかった。
『全国のCランク以上へ招集を出します。ただ、あなたたちは今夜動かないでください』
「今は動けない」
『それを聞けて安心しました』
東條の声は本気だった。千紘は端末から顔を上げない。
「圧縮されてない音、送ってください。二本とも」
『送ります』
二つ目の映像が止まる。
トンネルのカメラへ向かって走る救急車の助手席に、人が一人だけ乗っていた。
一つ目では、そこは空席だった。




